2008年8月21日

それを生んでいるのも人間である、という想像力

せっかくの機会なので、この件に付いて記しておく。

これは日本人特有のメンタリティなのかどうか、オレには知る術がないが、確かに、ある時代までは、自分の好きな対象を「貶しながら褒める」という評価の仕方があったと思う。それは例えば親しい友人に対して「こいつはもう変態だからさ」とか半分からかいながら人に紹介する、といったものだ。それは実際は褒めたいのに素直に言えない、というような照れ隠しだったり、親しい仲ならではの遠慮のないやり取りだったりするのだが、そういう価値観って一世代前の感覚だよなあ、とも思う*1

一昔前までのポピュラー音楽評論にも、このような風潮があった。音楽家の、表面上にみえる何かの行動の奇抜さや、作品の中に見出す不整合性などといったものを抽出し、それらを晒しながらも「だがそれがいい」と表明するやり方だ*2

こないだの鬼束さん記事を見たとき、オレは即座にブライアンウィルソンを思い出した。言うまでもない。ビーチボーイズの創立者だ。彼はロックスターとして生きるにはあまりに精神が繊細だった。ゆえに、あのような死ぬほど美しい音楽を生むことも出来たのだが、引き換えに精神に破綻をきたしたのだ。彼の危行は虚実ない交ぜにされまことしやかに語られた。数々の文献を読み返すと、それらの原因は、回りの無理解にあった、と今になって判る。繊細な芸術家であるが故の発想や危行(と呼ぶのも好きじゃないが)を、正面から向き合い理解しようとせず、「さすが天才は考える事が違うわ」と、ある種、紙一重的に扱い、決め付けることで、こちら側への侵食を阻止する。それは実質的に受け入れ拒否でもある。それによって、どれだけその相手がダメージを受けるか。また、その決め付けは、自身の思考停止でもある。考える事が難しいから、「こうである」と決めることによって、その先の深追いをやめてしまうのだ。

一般的音楽ファンにまで、それを背負わせる必要はないと思うし、音楽などもっと気軽に楽しむべきものだ。しかし、音楽に携わったり、それにまつわるメディア、という、クリエイターに極めて近い位置に居る方々が、そのような排除的な発言を行う、ということは、個人的には、不用意で配慮に欠ける行為、とやっぱり思う。彼らは一般人ではない。選ばれて、あるいは、自ら選んでその職に就いている。つまり、そういう立場の人間であることの責任と義務が生じるってことなのだ。

音楽家も芸術家も一人の人間である。自分も同じ人間であるなら、すこし想像力を研ぎ澄ませれば、その相手を理解できないはずがないのだ。いや、結果的に理解できなくても良い。でも判ろうとした、という努力の痕跡は示すべきじゃないんだろうか。

もうひとつ。「作品」というのは、その辺の石ころみたいに最初からそこに転がっているものではない。たとえば、しつこいようだが「サンマは漁師が採って来る」というのと同じ。作品を産んだ人間がいる*3。人間である、ってことは自分と同じように傷ついたりするってことなのだ。人は常に理解者を求めている。自分は誰からも理解されない、と。そうして孤独になってゆく。そういった気持ちが良い作品を産んでゆく原動力になる、というのは、それは確かなことではあるんだが、それでも、いま自分の目の前に居る記者なりインタビュアに「壁を作られた」と感じ取ったときの、この疎外感はどれだけのものか。また先に書いたような、落として持ち上げるようなやり方が(たとえ善意であっても)、どれだけアーティストを傷つけるか。そして、そこから生まれた感情は当事者間だけでなく、あらゆる人に伝わってゆくのだ。何故なら、それは誰もがみんな共通して持っている感覚だからだ。

少なくともそこまでの想像力を働かせる事が出来る人でなければ、メディア関連の仕事に携わる事などできないのではないか、と強く思うのである。

今のブライアンは、幸いな事に正当に評価されているし、理解してくれる友人仲間に囲まれて穏やかに精力的に過ごしているようだ。しかし、ロックポップス界全体を思うとき、そういった例は少ないほうだと判るはずだ。ブライアンはあれでも、愛される人に恵まれていたほうなのだ。60年代のアメリカ。そして今の日本*4。同じ轍を踏まないよう、日々心がける事は出来ると思うよ。


関連エントリ

「悪気はない」ことの罪深さ

*1:この系列で、オレが個人的に一番嫌いな言葉は「愚妻」である。「亭主」が「嫁」の事を「うちの愚妻が」などという。へりくだってるつもりなのかも知らんが、この極めてデリカシーのない表現は、現在最も通用しない価値観だろうと思う(同じような理由で「俺の嫁」という表現もあまり好きではない。ネタならまあ目くじら立てないけど)。
*2:このような評論の仕方が、いったいどこから始まったのか、昔いろいろ考えた事があるのだが、音楽がジャズ→ロックンロール→ポップスと進んでくる段階で増えてきたように思う。クラシックが見事な職人芸&高度な専門芸として成り立っているのに対し、ジャズ→ロックンロールっていうのは大衆音楽なので、確かに稚拙だったり親しみやすかったりした。要するに突っ込みどころが有ったのだ。新規参入評論家の付け入る隙ができたということである。評論のハードルが、上記で示した矢印の流れに沿ってどんどん下がったのではないかな、と。
*3:この件は以前ここで書いてる。正確には「産んだ」という風にはオレは捉えていないのだが、ここでは便宜上そう書く。
*4:岡村ちゃん…

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2007年12月15日

音楽にも読解力

たまたま昨日、某所でこういう議論をしてたところに今朝になってこれ。ちょっとびっくり。

リアルとかリアリティとか - 玄倉川の岸辺

ここでも過去ログでも散々書いてたけれど、何かの情報は誰かの口を通して聞いたという時点でオリジナルではありえなくて、だからこそ「元はどれだ?」と探し続けるのである。


そしてそれは音楽も一緒である。何らかの曲を書く場合、その進行やらメロディは、もちろん作家である自分が構築するのだけど、「こう行くべきである」という、それこそ「空気」というものがあって、その音楽の空気に沿って構築されるのがいちばんキモチイイのである(それをあえて裏切る展開もまたキモチイイのである)。

ほとんどのコード進行とメロディと歌詞が出尽くした今。純然たるオリジナルなどありえない。ほとんどの今の音楽はその構築美とか並べ替えの技を競っているものだと思う。

そんな既製のコピーばかりの音楽など意味があるのか?と言われるだろう。

オレにとっては意味はある。

作家がどのような音楽環境に育ち、今どのような気持ちで音楽を発してるのか。作家が構築したその音楽を聴くことにより、それがリスナーに伝わる。メロや歌詞の中に「ニヤリ」とする部分を発見し、ははーなるほど、と思う。もっと判りやすく言うと「こいつ、あれのファンだな?」と判ってしまうことが楽しいのである。

音楽にとっては、シンガーやプレイヤーはメディアである、と何度も書いた。作家の構築したメロを他人が歌う、というその時点でシンガーの主観や癖が含まれることになり、既にオリジナルではなくなる。プレイやアレンジにも解釈が加えられる。そうすると、作家の意図したままのオリジナルで公開されるということは不可能になるのだ。それはしょうがないことなのであるが、だからこそ「より優れた再生力を持つメディア」であるシンガーやプレイヤーを探すわけだよね。その音楽にとってその表現は明らかに不要、と思われるような蛇足的表現を加えるシンガー、プレイヤーは音楽にとっては邪魔なだけである。

これは実は作家でも一緒で、何かの曲が生まれる場合、その根底には必ず何らかの「デジャヴュ」があるのである。音楽は全て既存の音列の組み合わせで出来ている。作家の脳内で舞っている、それらの音列を、その時の気持ちで掴んでゆく。ポンと掴み卓上に置き、またポンと掴み、卓上へ。数が揃ったらパズルのように並べ替えて磨き上げる。その際にだ。そもそも今回脳内に沸いた音列はどうなりたかったのか。「きみ等はどうなりたかったんだ?」と厳しく自問自答するのだ。そうしてあるべき姿を再構築してゆく。「あるべき姿」ってのはね、どこかに必ずあるんだよ。自分の脳内かどこかの本の中か、或いは街の商店街の通りにか。そうして本来の姿に戻してあげる。それが作家の役割だと思う。

何かの表現には何らかのデジャヴュが必ずある。だからこそ共感や反感があるのだ。全ての場合において、オレが聴きたいのは、見たいのは、読みたいのは、そのデジャヴュの裏に隠された「本当に言いたいこと」である。それそのものは創作だろうがネタだろうが一向にかまわないのである。言葉の裏、言い回しの尻…。眼に見える情報の全てから、五感を最大限駆使し、オリジナルの書き手が脳内で描いていたオリジナルのしっぽを掴む。その表現されたものに準えて書き手が本当に言いたかったことを探すのだ。

だから、それが何も感じられないものに対しては激しく嫌悪感を抱く。たとえば文章を書くための文章とか。てめえ指の運動でドーパミン分泌させてんじゃねえよ、みたいな文章。

オレの15年前のアイディアメモノートにこんな言葉があった。「あなたとわたしの脳が直結してたら」表現で悩むことはないのに。

永遠のテーマだな。

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2007年12月 5日

研究者の探究本能を止めるのは難しい。

今から10年ほど前だが、とある有名薬品メーカに研究者として勤める友人と興味深い話をした。

様々な研究をしていると、探求をどこで止めるべきか、判断が難しいことがある、と。それが他愛もない実験ならいいが、なにかの使命を帯びた研究だった場合、例えば簡単に言えば爆弾とか科学兵器の研究だった場合、どうしてもその先の完成まで、そのまま追求してしまいたくなる気持ちが、自分は理解できてしまうのだ、と。時間と経済的に許されるならば、自分もやってしまう可能性はある、それが怖い、と彼は話していた。そう。ちょうど世間的に某教団の話題で賑やかだった頃だ。

彼は続けてこう言った。「例えば貴方が曲作りをしていて、もっともっと美しい音楽にしたいと思った場合、これ以上追求することを辞められる?完成度の高さを求めて続けるでしょ?僕らは理論上もっと優れたものを産むことが可能である、と判っていながら、これ以上は危険であると判断したら辞めなければならない。そんな毎日が辛くなることもある」と。

彼は寸止めの毎日を送っていたわけだ。これは何も研究だけではないだろう。戦闘の実践とかもそうだろうし、何らかの危機管理のシステムなんかもそうではないだろうか。
そう考えると、個人レベルでのアートなんかは、自分の気が済むまでいくらでも探求できるわけだよな。


コメント欄が大変な盛り上がりを見せたこのエントリ。

ネットはクリエイターの敵か - 池田信夫 blog

ここのコメント欄で福田氏が述べていることは個人的には非常によく理解できる。話の様子では素晴らしいプロフェッショナルシステムで仕事されているようだし、実に理想的だ。オレだって同じ環境だったとしたら、採算など考えず日々研究に没頭するだろう。どうやったら良い音になるか。世界の果てまでハンダや銅線を求めて捜し歩くかもしれない。しかし今となっては、もはや戦艦大和的なのであって、産業としてそれが求められてるかというと、ちょっと難しいと思う。


引き続き考えて行きたいので次回に続く。

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2007年11月20日

NHKを見たら負けだと思っている。

極北の地方都市出身のオレは、子供時代、公務員という職業の有利さを嫌というほど味わって過ごした。それは両親二人とも公務員だったというのも大きい。今こんな不安定な職に就いているから尚更実感するが、安定という意味では本当に素晴らしい職業だ。もちろん両親は仕事は苦労していたけどね。福利厚生やら待遇やら、子供の自分はずいぶんお世話になった部分もあり。

当時の街の様子を最近いろいろ調べて判明したのだが、実は組合や労働者が非常に強いエリアでもあったらしい。確かにそういわれりゃそうだった。革新系政党支持者が多数派だったし、他所と比較は出来ないので、あくまで子供の自分の印象ではあるが、労働者の権利もずいぶん大きかった気がする。

そして就学。これは前にも書いたことだが、当時は教師の団体が非常に強くて、その授業内容などにも、微妙ではあるが赤い雰囲気をそこかしこに感じた。子供のオレにもわかるのだから、本当に赤寄りだったんだと思う。

そんな子供時代。職場のオススメのグッズを使い、両親オススメの音楽、書籍を読み、そして推奨テレビ番組はすべてNHKだった。民放なんか低俗でくだらない、決して観るな。と。だから情報源は全てNHK。NHKが取り上げたニュースを知り、音楽を聴き、映画を見、そして中学生日記を見る(笑)。理想の女性像は朝ドラのヒロイン。人格者はキャスターや解説者、紅白の司会者。ともかく彼らが提案する価値観をまったく疑うことなく過ごしたわけだ*1
当時の理想の女性というと、派手ではないが、しっかりとした信条を持ち、凛として立っている、という感じ。

これは女性の理想であるが、実は全ての理想像は同じような価値観だった。メディアも音楽も政治家も製品も。ともかくなんでも。見た目の派手さに騙されてはいけない、地味でも正しいものを見分ける眼力がなければいけない、派手さの裏にある実像を見抜かなければならない。そう教わって来た気がする。

大学進学のため上京し、その生活は一変した。まず驚いたのは街の「色」だ。これは比喩ではない。田舎のオレの街に比べて東京の街は、本当に「色数」が半端じゃなく多かったのだ。人も広告も。ともかく色が多かった(というより、オレの出身地が灰色過ぎたのだ、とやがて気付くが)。

そして人も音楽もメディアもすべてが自由だった。そんなことない、大衆はいつだってメディアに踊らされているじゃないか!という方も居るだろう。しかし、ほぼひとつの傾向の考えのみに固まっていた自分からすれば、じゅうぶんすぎるほど自由だった。選択肢はほぼ無限にあり、自分自身に全ての選択権があり…。

話が長くなったな。

オレのいろいろなエントリを読むと、今でも本質主義であることはわかるのではないかと思うが*3、その本質主義でさえも、オレは人にできるだけ頼らないで決めたい、というのが今の考えだ。つまり、その本質を掴もうとする過程で、本質主義なメディアに頼ってしまうことがないよう、非常に気を付けている、ということだ。

つまり、難しいが…。「本質主義なメディア」でさえも、実は「メディアである」という矛盾を忘れたくない、ということである。「これは事実だよ」という誰かの情報も、実は伝聞じゃないか、ということなんである。それは別にNHKを指しているわけではない。2ちゃんねるとかそんなものでも一緒である。こうして考えると、オレがその昔、堀江氏の考えに同意したくなったのもわかる

オレが現在、決してNHKを見ないのは、実は自分と似ているからかもしれない*5。彼らの創作物がある一定以上のクォリティにあるのは、様々な条件を鑑みれば「当たり前」なのであり、そこに没入してしまうことは「自分自身の終わり」じゃないだろうか、と思ってしまうのだ。

五つ星レストランが美味いのはわかるさ、でも初めから美味いとわかっている料理よりも、これはあたりかはずれか、スリリングなジャンクフードの方が、時には楽しい、って感覚。ある種の夢追い人かもな。


今回のインスパイア元。

はてなブックマーク - 琥珀色の戯言 - 結局、マスコミには勝てないんじゃないかな

*1:実際は徐々にそのことに気付き、成長とともに反逆するようになってくる。萌芽は中高時代。
*3:たとえば、楽曲の真の姿はアレンジではなく歌唱でもなく、コードとメロディである、という考えなど
*5:どっちかというと近親憎悪的なものかも知れぬ

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2007年11月11日

本当の言葉を見抜く

長いことメディアを見続けて、なおかつ言葉を紡ぐような仕事に携わっていると、言葉の裏や奥にある本音を、自ずと求めるようになってくる。

勝手な自論だが、80年代中盤以降産まれの若者は、自分を一番魅力的に見せられる「決めフレーズ」に長けている気がするな、と思っている。生まれたときからビデオカメラが身近にあったので、動画の被写体として撮られ慣れているからだろう、と理由を勝手に想像している。

ビートたけしはツービートで、それまでのメディアや世間の「お約束」というやつを片っ端から破壊した。刑事ドラマも青春ドラマもすべてパロディやお笑いのネタになり、真面目に捉えられなくなった。しかし、80年代中盤のバブル文化で、また別なスタイルの「お約束」が生まれてしまった。クリスマスには彼女とホテルで、とかそういうやつだな。

現在の文化は基本的にその流れの延長上にあり、誰もが知らずのうちにその「お約束」の下で生きている。その場その場で、その空気を読んで行動している。たとえその場に自分以外誰も居なくとも、まるで上から誰かが見ているかのように、あるいはひょっとしたら「ドッキリ」なんじゃないか?と疑うかのように、いつも誰かの視線を気にし、客観的フレーズで行動し続ける。自分の行動を他人の行動のように、人に説明する。

オレが人に求めるのは「本心かどうか」だけだ。装飾過多の言葉など要らない。何度も言っているが、意味があるのは「たとえ稚拙でもオリジナル」なものだけだ。言葉でも音楽でも同じだ。スカウトとして人を見つける際も重視するのはそこだけだ。言葉だけは決して嘘を付かないのだ。


ということで長くなったが、これの件でちょっと書いてみる。

まずここから行こう。久々の「玄倉川の岸辺」氏だ。彼のブログと出会って3年ほどになるだろうか。休むことなく書き続けていた。そして今回、久々に琴線に触れるエントリがアップされ、思わずコメントした。読んでもらえれば判るが「久々の玄倉川節」だと感じた。さらに、彼が被TB先で残したコメントも紹介する。まずこちら

それならなぜidiotope氏に批判の矛先を向けたかといえば、上に書いたように単純に不快だったからです。

それからこちら

私が嫌いなのは自意識過剰な誠実ぶりっ子です。それをjo_30さんが「妬み」「いじめ好き」と見るならそれでもかまいません。

これはまさしく彼の本音だ。内容の是非ではない。本音かそうでないか。それが重要なのだ。ネット上というかブログで、ここまで単純明快に本音を述べた文章ってのは久々に出会った。それが玄倉川氏だった、というのも意外というか嬉しかったというか*1

付け加えておくなら、騒動の勃発点、というのも失礼なのだが、hashigotanさん(現在閲覧不可になっている 復活したので参照記事変更→)のこのエントリも満身で本音を訴えている*2。これも是非ではなく、本音であるかそうでないか、が重要。

ということで、ここに戻る。正直な感想を言うぞ。「なにこれ??」。

支離滅裂でも文脈破綻でもいい。その嬉しさを満身で、率直な言葉で表現していたらここまで叩かれてないと思うがどうかね?

ある年齢以上になると自分は冷静沈着でなきゃいけない、とか思うのか知らないが、過剰に客観的になる傾向がある気がする。日頃ベランメエ口調なくせに喧嘩になると急に丁寧語になったりする奴がいるが、いや、実はかつてのオレもそうだったが、そんな客観的言葉なんてのは今どき人の心など打たないのだ。


以前ここでさりげなく書いたが、「なかなか自分を解放できない、というこの自分の特性は、音楽家としては致命的欠陥のひとつではないだろうか?」、というコンプレックスを長年持っているオレは、本音全開で感情をぶつけている表現に出会うと、内容はともかく、無条件にリスペクトしてしまう傾向にある。
この一連の出来事で、いちばん無責任に楽しんでる人間はこのオレである。誤解を恐れず言うと、個人的には誰が傷ついたとかほとんど関係ないのだ。ただ、表現として優れているか、オレの琴線に触れたか、それのみで捉えている。

オレはかつてバンド仲間に「アンタは恐ろしく冷たいな」と言われたことがある。対象への興味が冷めると、さっさと離れてしまうからだそうだ。バンドメンバーも、バンドに不利益と思ったら無条件に切った。情などない。常に優先するのは「自分の音楽の成就」のみ。それを阻害するものは悉く排した。今のオレのレコーディングは、打ち込みも含め、ほとんどが自分による演奏である。人を使うということはメンドクサイ。説明して理解を求めるより自分でやったほうが早い。それでも、非常に優れてたメンバーとの出会いも、少ないもののいくつかあり、今でも彼らには「ここぞ」という際に手伝ってもらう。彼らはありがたいことに、気質もオレと似ており、お互い距離を置くことに非常に長けている。お互いを繋いでいるものは何か、ということをちゃんと知っている。お互いに甘えたり寄りかかったりしない。超インディペンデントな表現体どうしなのだ。

エントリに頂いた、

彼のために一生懸命弁護したり怒っている人がいることを「いいことだ」と思ってます。

というコメントを読めば判るように、こんなオレに比べるとid:kurokuragawaの人ははるかに良い人だ。そしてブクマコメントにあるように、

「hashigotan 被言及 kanimasterさんへの記事は今は言い過ぎたなあと反省しています。いい親父さんのようですからね」

hashigotanさんの人も良い人だ。どちらのコメントからも、その攻撃的言葉の裏にある本来の優しさみたいなものが垣間見れる。

これらコメントで判りやすくはなっているけども、前回取り上げた、オレが「これは本音だ」と言ったそれぞれのエントリでも、言葉だけでは一見そうは見えないかもしれないけど、この方々の優しさというものが、それとなく伝わって来た。玄倉川氏のほうはどうだか判らないけど、hashigotanさんは、あの文章を、或いは騒動の発火点となったこちらのほうも、恐ろしい速さで打ったのではないか、と想像した。だから躊躇とか一切感じられない、直球な言葉になっていて、だからこそオレの琴線に触れたのである。

6年ほどネットや電子掲示板界隈をウォッチしているオレだが、最近の「美談」「美文」を絶賛する傾向は、別な意味でのウヨ化なんじゃないかと思って、非常に危惧している。まだ「全米が泣いた」と半分茶化してるうちはいいが、本気で「泣いた」とかいうコメを読むと「じゃあその顔アップしろや」と確かに言いたくなる。「お茶吹いた」と同じで、実際には吹いてないのだろうが、「お茶吹いた」には素直に笑えても、「泣いた」には騙されない、と逆らう自分が居る。
荒唐無稽なことだろう、と思いつつ、実は誰か黒幕がいるのではないか、と疑心暗鬼な自分が居る。「電車男」は壮大な実験だった。これでネットの奴らは簡単に騙せるな、と味を占め、奴らは次の段階に進んだ。「美談」で愚民を掃除してしまう作戦だ…。

はは。まぁオレの想像であってくれることを願うよ。

ともかく「全オレが泣いた」→「全ネット住民が泣いた」→「全日本人民が泣いた」にならずに安心した。

そして、未だ自分に、こんな感性が残っていたことを気付かせてくれた玄倉川氏hashigotanさんには感謝したい気もするし、叩かれること覚悟で、ブログというメディアで本音を書いてくれた、その勇気、というか、その「空気の読まなさぶり」にも敬意を表してみようかな、と。


追記。
似たような視点の方が居られました。

2007-11-09 - 萌えるローマ帝国HAPPYMAX

なんだか救われる感じがしますね。


*1:「私の気に触ったのは、idiotape氏の語り口が「誠実さの衣をまぶした武勇伝」になっていったからです。」これもいいね。
*2:まさにロックだ。

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2007年10月31日

ソニータイマーの歴史

今さらですが、偶然見つけたのでメモ代わりに書いておきましょう。あくまで個人的意見です、とお断りしておきます。

J-CASTニュース : ネットで囁かれる 「ソニータイマー」の正体
J-CASTニュース : 「ソニータイマー」という言葉 中鉢社長「認識」の真意

オレらが少年だった70年代から80年代にかけて、ソニータイマーという言葉こそなかったが、ソニー製の機器は概してそういう印象がある、ということは実しやかに言われていた。もちろん「私的」ではありますが、日本を北から南まで渡り歩いたオレの実感では、その「私的」な感覚は全国に散らばっていた気がする、という印象を(個人的にだが)持った。どこへ行っても、電気機器メーカの話になると「確かにそういう印象があるなあ」となり、自称「被害者」と「ソニー信者」との間で口論になったこともあった。もちろんオレらは全員オタクであったので、表面的にそう言うだけに留まらず、その原因はなんだろうか?と探ったりもした。

そうして出した「私的」な結論だが、ソニー製品はスペック、デザイン、アイディアともに、あまりに高すぎる理想のもとで完成しているため、その完成品が、完成品である状態を保持できる期間がどうしても短くなってしまうのでは?ということであった*1

つまり、完成直後、新品の状態ではとてつもなく素晴らしい品物なのだが、その状態を維持することが素人では難しいってことではないか、と。

ここでひとつだけ擁護しておくと、うちのソニー製品は(ひとつ*2を除き)長持ちしている。それは「ソニー製品がそういうものである」ということを理解しているので、他の電気機器よりも大切に扱っているからだ。この「大切に」というのは、乱暴にしない、という意味と、必要以上に酷使しない、ということも含んでいる。

民生機器というと、どんな人が使うか判らないもので、極端に言えば、ぶん投げても水滴がかかっても「ちょっとやそっとじゃ壊れない」くらいがちょうど良いとおもうのだけど、ソニー製品はそこに重きを置いてないのかもしれない。

理想の完成度と、求められる完成度は違う。何でもかんでも音楽に結びつけるようで恐縮だが、素晴らしく完成度の高い楽曲が、売れたり褒められるわけではない。そこはバランスと見極めが必要だってことだろう。

しかし、みんながみんなジャンク製品、ジャンクフード、ジャンク音楽ばかりを産むようになったら、それはクリエイターとしては淋しいと思う。数あるメーカーの中で、たとえタイマー搭載だったとしても、なんだかわからない高尚な理想的製品を産んでしまう、ソニーという企業みたいなものが、ひとつくらいあっても良い気はするのだ。だってウォークマンがなければ、きっとiPodだって無かったはずだし、VTRに於けるBETAや8mmハンディカムだって、技術者的には最高の理想製品だったはずなのだし。

オタクの夢を形にする会社でいいじゃん。そういうことに夢を託すパトロンをソニーは探すべきなんだ。多分秋葉原とかにたくさん居ると思うよ。

*1:つまり構成する全ての要素がギリギリの状態で成り立っている、というか。
*2:Hi8ビデオデッキEV-NS9000。これは構造上の欠陥があるのでは?と思う。それぞれの部分はいいものなのだが、おそらく1個体のなかに、それら全てを押し込んだ時点で干渉が起こるのだろうと想像している。何度オーバーホールしても、本当にタイマー搭載のごとく半年くらいで元に戻る。

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2007年10月17日

次は準備されている。必要なのはエールだ。

目一杯仕事をやっていると、世間のことはどうでもよくなってくるんだよな。以前に比べて、時事ネタを取り上げることがめっきり少ないのもそれが理由だ。

何らかの現象が表に出る場合、いきなり露になることは少なく、その準備段階として潜伏期間みたいなものがあると思う。視聴者を含む受け取り側は、最終的にメディアで披露される姿で知るしかないから、突然物事が起こったかのように感じるが、実際はその準備は2年くらい前から行なわれていることも多い。
今のこのひどい状態も、来年までは続かないだろうな、と、まったく個人的感触だけど、思っている。世代交代は驚くほど早く、くだらない人脈も淘汰され、あっという間に入れ替わる。今業界を仕切ってる世代がどれほどひどいか、感覚で判る自分としては、あいつ等消えればあとは持ち直すさ、と楽観視してる。
「ミクTBS事件」も「おにいちゃんは悪くない」ももちろんウォッチングしてるし言いたいことはあるんだけど、「まいっか」的に半分スルーなのは、経験上、既に次が準備されているであろうことを想像できるからである。

そこで、ひとつだけ言っておきたいことがあるのだ。

今の人脈が淘汰され、その後に来る時代の為に次の出番を待っている世代がいる。彼らの今の状況は厳しいだろう。本業だけでは食えずバイトしてる奴も居るだろうし、針のむしろだったり、煮え湯飲まされてたり、親から突き上げられたり、今が一番苦しく厳しいときであると想像する。

だから、ネットその他で、現状を変えて欲しいこと、メディアのひどすぎる実態、不当な環境とか、どんどん声を上げて欲しいわけだ。

例えば、こういうパブコメにしてもだ。

「ダウンロード違法化」「iPod課金」──録音録画補償金問題、意見募集始まる - ITmedia News

結果的に無力っぽくなったとしても、その声だけはきっと次の世代*2に届く。「もうオレやめて田舎に帰ろうかな」と思う気持ちをストップさせることが出来る。勘違いでも「やっぱり俺が時代を変えないと」と彼らに思わせることが出来る。

ネット住人は敵にすると怖いが味方にすると頼りない、と揶揄されることもあるが、確かに、味方にはならないがw、1ミリくらいの心強さはある。

ともかく言いまくること。

これが次世代予備軍たちにとっての最大のエールだと思う。

 
*2:たとえば津田大介氏のような方々に

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