2013年8月 8日

母の人生。僕の人生。

ちょっと前に、女性の生理関係のことがネットで話題になっていた。デリケートな内容で、男子の僕は口出ししていいものかどうか迷ったのだが、結局、そのときは口を出すのをやめた。その後、時間も経ったので、ちょっと書いてみようと思う。

うちの母は生理が大変重く、子供心にも毎月毎月ホントに見るに忍びない状態だった。痛みだけでなくあらゆる体調が悪くなって、精神的にもひどいようだった。仕事を休み寝込むのは当然として、嘔吐したり泣いたりするなど、こちらにもリアルにその苦しみが伝わってくるくらいの激しさだった。今思い返すと、それは父との関係によるストレスも大きかったように思うが、実際に身体も大変だったのだろう。看護士だった母にとっては、さぞかしつらいことだっただろうと思う。
幾度かの受診(かつての職場)の末、何がしかの内臓関係の不具合が判明し、懇意だった院長の勧めもあって遂に手術を決意(母は詳しく言わなかったので判らないが)、どちらかの臓器を採ってしまった。入院の前、母は毎晩泣いており、父が慰めていた。ひどい父ではあったが、それでも慰める相手は母にとって彼しかいないのだと思うと不憫だった。
それがちょうど中3の時で、父も母も病院に付きっ切りになったので、家での僕に自由時間がたくさんでき、それまで観なかったTVドラマをたくさん見るようになった。それが「僕の故郷は多摩にある」になったのである。
ずっと共働きだったので、退院後、母がしばらく家にいたのは嬉しかった。ちょうど受験期だったけど、早く帰宅して母との会話を楽しくしたものだ。

術後の母はどんどん健康になって行った。病弱が代名詞みたいだった母は、まったくそうではなくなり、嘘みたいにすこぶる丈夫になり、それにつれて発言力や行動力も増していった。月一の苦痛にも煩わされることがなくなり、それもかなり大きかったように思う。近年の母は(70代だが)、丈夫で凛としたカッコいい女子、というイメージで、若い子からもそう言われると言って喜んでいる。背が高く、見た目もそうなってるのもかなり要素としてでかいのでは。まあムスコとしても、それは嬉しくないことはない。あんな病弱だった母に、こんなに生命力があったことには驚いたけど、反対に、元気な父が倒れて施設入りするとか、ヒトってのは判らないものだなあ。

知人女子が先日、月一の苦痛について僕に話してくれた(話しやすい相手なのか、僕はよくそういう相談をされる)。聞いた症状が、母に劇似(年齢もちょうど一緒だった)だったので、母の手術と、その後の嘘みたいな健康について話し、家族が手術を進めるのであれば、応じてみるのもいいのではないの?と言った。彼女の息子も、ちょうど当時の僕と同じ年齢だったのもある。そのアドバイスが適切なのかわからないけど、彼女のこの後の人生がよくなるのであれば、いいなと思う。女性としてどんな気持ちか、までは僕も当事者的には判らないけど。

僕の故郷での人生は、精神的に不安定な両親と、それプラス身体的苦痛を抱えていた母、というダブルの抑圧みたいなことがあって、そんな日々の生活を毎日どうやってサバイバルするか、というのが最大のミッションだった。常に親の顔色を伺って過ごしていたし、どっちかの空気を常に読んで、うまく立ち回るよう気遣った。その習慣は今も残っており、だからこそこんな性格になったんだろうと思う。
ストイックな音楽性や田舎モノ嫌い、お笑い好き、審美眼など、そんなソフト関係の感性は、全てそんな両親と付き合う過程で培われたものだと思う。僕はよく、他人や共演者に緊張感を与える、と言われるけど、それもそんな両親から受け継いだ感性だろうと思う。僕の中にあるのも常に緊張感だからだ。感情を滅多に露にしない、とも言われるけど、それは両親を反面教師にしたことから身に付いたものかもしれない。もしくは「心が死んでた」のかもしれないけど。だからこそ、僕にとって「生きたい」と思うことは、すごいことなんだよね。


以上です。
さすがに自分の家庭のことを赤裸々に書くことは抵抗があった。全員存命ですし、母にとっては今だって、このことは心が引き裂かれるような思いかもしれない。でも、この記事を検索で訪れて読んだかたが、何かの参考になったりするのであれば、少しでも意味はあるかもしれないと思って、そんな母を持った子どもの立場として、当時を思い出して書いた。そんな僕の気持ちも理解いただけたら嬉しいかな。と思う。

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2012年7月15日

ベースボールとエルビス・プレスリー

最近よく、30~40代の人々や、所謂「団塊ジュニア世代」の人々は、この街ではドコに行るの?と尋ねられる。うん、どうも周りには見当たらない、と答えたのだけど、最近、居るところには居るようだと気付いたのよね。

渋谷系のようなもののお陰で僕は、自分のルーツに気付くことは出来たけど(過去のエントリ → 岸辺のアルバム)、しかし、実は、ぶっちゃけて言うと「渋谷系」というもの、そのものは自分は好きではなかった。発想はよかったけど、曲が水準に達してないので(また主観だろと突っ込まれそうだがw)、なんだこれ、って思ってて、それは僕だけじゃなく、周りの友人の反応も同じだったから「自分とは別な世界の出来事」と思って過ごしてた。

ただ僕の場合、昔のエントリで書いたように、自分のルーツである、と気付いたこともあって、これをヒントに似た路線でもっと自分は極めたことをしたい、と思い、それが僕の初期のスタイルになった(それぞれの夏休みとか)。だからあれらは、渋谷系の人たちにも受けはよかったよ。それで自分は溜飲を下げた感じ。

渋谷系の音楽は一貫して「出来損ない(いい意味で)」が売りだったが、ひとつだけこれはすごくいい、と思ったのがあって、それが Chocolat だった。彼女も歌は上手いとは言えなかったんだけど、それよりなにより、ともかく「楽曲とアレンジがちゃんとしてて」、これこそ「渋谷系の完成形!」だと、僕は思った。ヘタウマで出来損ないで、しかし楽曲とアレンジの完成度は高い、という双方の「いいとこ鳥」、つまりこれこそ「渋谷系の最終形」だな、って思ったのね。だから、ショコラは今でもよく聴く。というより、僕は渋谷系はショコラしか聴かない。と言ってもいいかもしれない。

渋谷系やサブカル系の雑多な感じ、つまみ食いで多趣味な感じは、思えば、この街の雰囲気にも似ているのだ。細かい魅力がたくさんあり題材に困らない、街にあるいろんなものをつまんで歩いてるだけで、じゅうぶん楽しい。これは実にサブカルに向いているのではないか、と思ってる。

そうして、そういうムーヴメントの原動力となってる、30~40代や団塊ジュニア世代も、そういうところに集まってるのであろう。と思った。

目立つ部分での「渋谷系」は、もう終わっているだろうが、各地で小さなムーヴメントとして生き続けてるんだと思う。それがクラブイベントやマニアックなDJイベントとなって、小規模で毎週末どこかで行われていて、そういう場所に、そういう年齢層の人々が、ドコからともなく集まってくるのだ。

町を歩くと、小洒落た道沿いの店の片隅に、小さなグッズが売ってあったりする。手書き風のイラストカードだったり、アクセサリーだったり。そういうものすべてに、どこか渋谷系の雰囲気を感じる。そして、そういうものを作って並べてる人々こそが、「どこにいるんだかわからない」と僕が言った人々の、所在なのだ。


先のエントリで書いたように、この「最終形」の正統な継承者が、田中ヤスタカ氏だと僕は思っている。最近「きゃりーぱみゅぱみゅ」のアルバムを聴いたが、その完成度は寸分の狂いも迷いもなく、継承されていた。これこそ、前回書いた「メソッド系」の到達地点でもある。渋谷系の最終型は、メソッド系の到達地点でもあるのだ。

ちなみに、渋谷系とメソッド系とオルタナ系が合体して完成したのが、椎名林檎の「正しい街」である。

沈まない船は、こうして着々と創られている。安心してはいけないが、かと言って悲観すべきものでもない。未来は、そういう人々のものであるのだから。


【追記】
2012年12月。
ベスト盤「NO REGRETS / Chocolat」リリースされました。
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Chocolat

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2012年7月12日

そんなやりかたじゃあ ダメだ

【2014年 追記】
今の僕は、以下に展開される持論とは若干異なった考えを持っています。この記事を書いたあと同年11月に、あるダンスミュージカルの仕事に携わり、そこで出会った方との対話から、若干の気持ちの変化があったからです。
それを踏まえたうえで、その前は以下のような考えを持っていた、ということで読んでいただければと思います。なお、今の僕は、書いた当時のような「地方都市在住」ではありません。

 

 

大里れい父&純

佐久間正英さんの「音楽家が音楽を諦める時」というブログ記事が話題になり(元々はFBの投稿)、私も遠からず関係のある話題すぎるので、同意や反対意見も含めて、いろんなことを考えさせてもらった。

そのうちのひとつは、たまたまTL上でお話が広がった nijuusannmiri さんとの会話がトゥゲッターでまとめられているので、どうぞ。

その後、本人の正英さんを始め、様々な人々が自分ならではの考えを述べ、「いい意味での」炎上になっていた。こう考えると、みんな音楽には興味があるようで、その辺は悲観する状態でもない気もするけど、それでも、末期は末期だろうとは思う。そんななか、僕は、このまとめを読んで、ちょっと思うことがあったので、まずそこから、地方都市という現実を踏まえつつダラダラと広げて書いてみる。

 

【名プロデューサー】佐久間正英の仕事ぶりがスゴイ

これ見ると、自分の考えややり方は間違ってなかった、と安心する反面、これを今も続けてたら破産していただろう、とも思う。
アンチ「恐竜的肥大産業」派でもあるし、テクニック主義でもないし、だから、僕の価値観は、こういった業界の最上よりはずいぶん甘いし、ゆるやかだと思っていた。なのに現実は、その僕の感覚「以下」だったことが正直ショックだった。下手でも雑でも、曲さえよければいいのだ、と言っても、限度があるんだよ。最低でも、その限度を自分でわかる人間だけが、音楽家として生きていく、という決心を出来るものだ、と思ってたんだけど、そうじゃなかったってことね。それはつまり、他にやってるヒトがいないから「やっている」というだけで重宝されている「地方土地、という現実」だったってことでしょ。
僕は最初から、自分の価値観や、東京標準を、地方都市でまで押し付けるつもりなんかなかった。ずいぶん寛大な気持ちでやったつもりだったが、殆どの相手は、その僕の「これはちょっと寛大すぎかな?」と考えた基準より「斜め下」を行っており、その現実についていけなくて自分も病んでしまったのだと思うのね。
僕がなかなかゴーサインを出さないので、それに付いていけない、待ちきれない相手は、どんどん去っていった。そういう状況を「おまえ、まだそれ、仮免だろが!」と、僕はかつて表現した。殆どのヒトが「仮免」で道路を走ってる状態。それはそれで楽しいかもしれないが、マトモな運転手なら、そんな道じゃ走れない。そういうことだったんだと思うね。
僕のような仕事は人気商売でもあるでしょ。人気度や集客で測られると、僕よりも、その「仮免」連中の方が受け入れられている、という厳しい現実がある。僕は自分が正しいと思ってきて進んできた道を、全否定されてしまったのだ。「あなたは受け入れられません。」と。みんな「仮免」で楽しく走ってるんです、あなただけ「ちゃんと走れよ!」って怒っても、誰も言うことなんか聴きませんよ、と言われたってことなんだよね。
この感覚はデジャブだ。自分が以前仕事をした、ある「ピアノ奏者Oさん」の事をどうしても思い出してしまう。厳しいヒトだった。彼女には散々酷い目にはあったし恨みの気持ちもあるが、不思議に心の底まで憎めないのは、自分も彼女の気持ちが判るからだろう。彼女は、僕よりももっと、真正面から戦おうとしてしまったのかもしれない。

馬を池に連れて行っても無理クリ水を飲ますことはできない、っていうじゃん。僕の場合、無理クリではなかったが、これ飲んどいた方がいいぞ、と言ったんだと思う。でも、みんな別に要らないので、と。
逆に、もっと強制的に「これ飲め ゴラ」とか言えば、精神論好きな奴らなら、はい!とか言って乗ってきたのかもしれないが、僕はそんなの意味ない、と思ってるからさ。自分で「この水はどうもいいらしい。」と、少なくとも気付ける意識レベルじゃないと、結局僕は一緒にやるのは難しかったんだろうなって思う。

こういうこと言うと、いつも紙一重だと思うのだけど「何も言わなくともこっちの意図を判れ」っていう、精神論おっさんとは、自分は違うと思うんだよねえ。何度も言うが僕はそういうのは嫌いだから。でもこれくらいは、パット理解しないと、少なくとも「これはひょっとしてよさそうな水ってことなんですか?」とか思ってくれるような相手じゃないと、それは見込みないわーって思うんだよね。そこ気付けるのが「勘」というか「才能」なんだろう。
そこら辺、指導者とか教えるの上手いヒトは、上手に導くんだろうな、と思う。でも彼らは指導料とかちゃんと貰ってるだろうし。僕みたいに、お金取らずに先行投資して、裏切られて去られたら、そこで終わりじゃんっていう。その辺はもう、ドライに割り切ればよかったんだろうな、と、今だと思えるけど、それより以前に、自分はしっかり、相手のレベルを見極めるべきだった、ということだっただろうね。その辺の見極めの見通しが甘かったのだな(→ 関連記事 後述します)。

恐竜的世界の終焉、ということでは、そもそも60年代~70年代の日本の音楽家は全員金持ちだから。そういう世界に戻っていくんじゃないかと思ってる。欧米と違って、ロックもジャズも真からは根付かなかったのよ。付け焼刃の世代だったんでしょうね。それは正英さんも仄めかしてる。だからここは思い切って、一旦、諦めるべきなのかもしれない。しかし、正英さんのような人の蒔いた種は、ちゃんと生き残って行って、そうして、ちゃんと、本当の意味で根付いた、本当の音楽が、おそらく今の30代くらい以下の世代から、また始まっていくと思う。それでいいと思う。

で、話は戻るが、正英さんの言い分に反感持ってる一連の人々は、さっき言った「仮免」という概念そのものが、もう時代にそぐわないのだ、と言ってるんだと思う。というか仮「免」の「免」という概念がもう不要なんだ、と。それもよく判る。

だがね、昨日ツイッターでやり取りしたとおり、そこの箍を外すと大変なことになる。それ僕は、こっちで、全国のみんなより、一足先に経験したわけだ。淘汰される東京でなら、「免」なしもおーけーだよ。しかし、こっちでそれされたら「無秩序な音楽」が蔓延することになる。前述の「ピアノ奏者Oさん」の厳しさの本質は「それを認めない」ということだったのだろう。僕も彼女の「洗脳」を受けて一時期そうなっていた。しかし僕は、その考えを支持しつつも、その一方で「信仰そのもの」が恐竜なんだ、ということも判ってしまったのだ。
だから結局、僕は僕の道を粛々と進むことでしか、何も示せないし、生きても行けないんだって悟ったんだろうね。彼女の示してることは、アーティストとしては間違いではない。恐竜的ではあるけど。でも、もう若い世代では、この国では、そういう箍は取っ払われてしまうでしょ。だからこそ、僕ももっと元の自分の価値観を大事にして、しっかり進まなければならない。半端な人々とか構ったりせず、さっさと立ち去って、自分のことだけすればいいのだ、ということなんでしょうね。結論は自ずと出る。

こないだ面白い話をしたんだけど、たとえば楽器が下手だ、って、最近あまり言っちゃいけないような風潮になってるんだよね。もちろん、頑張ってる普通のヒト相手に、意味もなく「あいつは下手くそだし」とか罵倒するのは人格疑われるけど、理由がある場合(プロ指向とかの奴にとか)は言っていいと思うんだよね。でも、たとえば、バカとか、ぶすとかいう言葉と同じように、下手くそとも言ってはいけない様な風潮がある。
バカとかぶすと違って、楽器が下手っていうのは、同じ楽器をやってる身からすると、何故下手なのか理由がわかるわけだよね。サボってるとか手抜きだとか、インチキとか。つまり「本来しなければならないことを怠ってサボってるが故に上達しない」わけで、それは糾弾されて然るべきだと思う。でも、言っちゃいけないんだよなあ。でも、それで人気を博してたりすると、なんなのこれ?とか思って何か言いたくなっちゃうでしょ、やっぱり、って。
あとは、楽器の上手い下手って、ちゃんと聞き分けられるヒトじゃないと判らないから、なんでこっちが、あいつ下手だからって敬遠してるのか、普通のヒトには判らなかったりする。そうすると、敬遠してるこっちのほうが、嫌なヒト、変人みたいに思われる、と。仲良くしてあげればいいジャン?とか、なんで文句言ったりするの?って普通のヒトは思っちゃうのよ。単に「好み」で避けてると思われる。誰とでもちゃんと仲良くしなさい、って言われても、下手な奴と一緒に居てもお荷物で邪魔なだけじゃん、と思っても、ばかとかぶすとか言っちゃいけないのと同じように、下手だから嫌だ、と言っちゃいけないような空気なんだ、と。そういうことなんだね。

淘汰がないから悲劇が生まれる。これが東京だったり、あとはネット上もだけど、淘汰がある。淘汰があるのはすごくいいことなんだよね、お互いにとって。でも例えば、淘汰するのが僕しか居ないという状況だったら、淘汰した側の僕が嫌われます。そうしてこのように愚痴っても、ねちねち言うなとか糾弾されますね。それは悲劇だと思う。それはピアノ奏者の彼女と同じ徹だね。

いま音楽について話してるけど、似たようなことはどんな仕事でもあると思うよ。たとえば、何かの飯屋やってて、明らかに不味いわけだが、あそこの食い物はまずい、とか言っちゃいけない雰囲気、ってあるでしょ。それはただ単に好み、ということでなく、同業で飯屋やってるヒトが味見すれば、明らかに「本来すべきことを怠ってるが故、マズイのだ」ってわかるでしょ。でも、周りのヒトが、別にこれでいいじゃん、って言って擁護したら、まずいって言った方が悪者になる。楽器は下手だけど、でもいい奴だし、とか、トルコライスはまずいが、いいヒトなんだよ、とか、そういう価値観の世界では、真面目な追求型のヒトは生きられないんじゃないか、っていうか、孤独になるでしょう、ってことね。

正英さんに突っ込んだヒトは、上手いとか下手とか、いいとか悪いとか、それアンタの主観だろ?って言ったわけだよね。でも違う。ちゃんと決定済みの「絶対値」として「上手い、下手」、という評価があるんだってことだよね。

ご飯なんか、それらしい味がしてて適当にカタチになって出てきたら、別にそれでいいじゃん、美味いまずいって主観じゃん、というけど、ちがうんだ、例えば、そこは「ちゃんと水切りしなくちゃいけない」、とか、そこは「何分、冷まさなきゃいけない」、とか、「そのまずい部分は丹念に除ける」、とか、そういう基本を怠ってるから、不味くなるんだろ?って指摘しても、そういうこだわりの飯なんか、こっちはイラネエんダヨ、と言われたら、そこでおしまいなんだよ、ってことなのね。

 

大里れい父

こういう話を考えてるといつも思い出すのが、有名なドラマ「北の国から」の「初恋」ね。あれで、大里れいちゃんの父が頑固な設定なんだけど、レオナルド熊に説教するシーンが出てくる。「おめえの土の盛り方はだめなんだ、だから些細な雨でも流されるんだ」みたいに言うわけ。いままで何度も指摘したが直さない、だから自分はもうオマエに協力しない、って冷たく言うんだよね。
そんで、田中邦衛とかが、まあまあ、百姓は助け合いなんだから、とか言うわけさ。でもれいちゃん父は、冷たく去ってしまう。そういう世界。
でも、みたヒトなら知ってると思うけど、この話はオチがあって、大里父がその後、ミスで仕事をダメにしてしまうのね。で、黙って夜逃げしてしまう。自分がヒトに助けられる、ということを良しとしなかったんでしょうね。田舎でひとり突っ張ってると、倒れたときにそうなる。そういうことなんだな。

さっきも書いたが、いろいろ文句言ってるけど、普通のヒトが趣味や手習いでやってることに対しては、僕はそんな非道いことは言わない。そんなこと言ったら、それこそ嫌な奴。笑。そうでなくて、僕が言っているのは、その技術でお金稼いだり、そういうものを目指して行きたいと口で言ってたりする人について突っ込んでるわけですね。
そうして行きたいなら、理想があるなら「今のあんたのそのやり方はダメだ(by 大里れいちゃん父)」と突っ込むってことだよね。本職のヒトからみれば、そいつが、ドコを端折って怠慢で、結果が伸びていないか、判るわけでしょやっぱり。そんで1年経っても変化がない場合、そこは容赦なく突っ込むでしょ。そういうことを言っちゃいけない、って言われても、大里父タイプじゃ、そこは黙っていられないでしょ。

北の国からで、大里れい父が怒ったのは、連帯責任になるからだよね、レオナルドに、オマエちゃんとしてくれ、と。お前がちゃんとしないから、みんなの生産性も下がるし、経済的負担も増えるんだから、と。しかし邦衛は、それを助け合うのが百姓だろ?って言う。
僕が経験したこともすごく似ていて、面倒みてる僕だったり、町全体の印象だったり、関わっている他人にも迷惑をかけるんだ、と。オマエが怠けてるせいで、素行が悪いせいで、こっちにしわ寄せが来るんだ、と言っても、町全体で「そこを助け合うのが、こういう小さな町だろ?」と言われたら、それはこっちが孤独になるでしょ。という話だね。
そんで、世の中的にも、れい父みたいなヒトは正論を言ってるのに、変人扱いされ、レオナルドは(レオナルド、という配役が絶妙)は、人間味があってなんかいい、ってなる。実際、どこでも後者の方が人気があるよね。

れいちゃん父のようなヒトが集まってる場所、例えば正英さんの居る現場や業界では、彼の言うことは正しいかもしれない。少なくとも正論ではある。しかし、そのような発言が、田舎だったり、例えばフラットなネット上でされたとしたら、邦衛みたいなタイプから突っ込まれたり、そういう時代じゃねえんだよ、恐竜乙、と言われたり、どどーっと反応が来るわけだよね。どこかのネット音楽家と正英さんじゃ、まったくレベルも違うわけだけど、そこを同じに並べられて批評されるわけだ。
こうなると、芸術とか研究っていうのは、この時代は生きづらいよなあ、と思う。正英さんも文楽のヒトも似たような立場なのかもしれないよな。と。

でも、適当にでっち上げたゴハンでいいなら、殆どのヒトが、べつにこれでいい、と言ったら、それが正しい、ということになってしまう。不味くても、変わった外観で客寄せして繁盛する店、みたいなことになる。そっちが生き残ったんだから、それが正しい、となる。大里れい父は夜逃げする、と。そういうことでしょ。

しかしね、その突っ込みの意味も一理ある。つまり「そんなやり方じゃダメになる」と嘆く前に、自分が所属する世界の矛盾や不合理について、今まで何か言ったか?してきたのか?ってことになると思うのよね。DL罰則化にしても、杉良ずるい、とか言う前に、正英さんなり誰か偉い人が、杉良アンタちょっと待ってよ、とか言うべきだったわけだよね。しかし言えない。だから自業自得みたいな部分があって、結果的にみんな食いっぱぐれても、よそのヒトには余計なお世話だろ、って話になる。文楽とか、恐竜音楽を守りましょう、って言っても、いや守れない、滅びるんだよ、と僕は冷めてしまう。だって今まで何もしなかったじゃないか、って思っちゃうからだよね。

思うに、世の中のヒトは圧倒的にレオナルドタイプなんじゃないだろうか。正英さんは面倒見がいいタイプだと思うけど、大里れい父は、そうじゃなかった。彼がホントに自分が所属する仲間全体を救いたいなら、レオナルドに必死に個人指導とかすればよかったんだよね。でも、そういうタイプじゃない、自己追求派だったんでしょ。サボってる相手に何を言っても無駄だ、っていう。僕もそういうところはあるだろうね。愛が消えたら、その相手はどうでもよくなってしまう部分がある。僕は「賢者タイム」が長いのだろう。

そうやってゴタゴタしてる隙を縫って、全然別なところから、適当に作っても「ちゃんと」美味い飯を作れる才能が生まれてくるだろう。作り方は適当で常識破りだが、これは美味いじゃねえか、と職人を唸らせるような食い物がね。そういう時代がすぐそこまで来てるんだから、僕は悲観はしてないし、同時に「外観だけで惹き付ける様なマズイ飯屋」みたいなものは、いよいよ淘汰され本当に消えていくだろう。僕はそこまで見えてしまったので、去年あたりまで厳しく言ったわけだよね。でも直らない。だから見込みない、と。知らんと。そういうことだろうね。恐竜の上に乗って楽をしてたような人は淘汰されていく。

淘汰されるのは東京だけでない。ネット上でも。 だから恐竜はネット上で一番最初に追いやられて、生きられなくなっていく。 ある意味、判りやすいのだ。

 

今までの、というかミリオン時代からの音楽界の感覚。
Led Zeppelin の伝記に出てくるんだけど、詐欺師は、可能なうちに可能な限り早く、たくさん金を集めてしまうのがコツだ、というのがあって、それがロック大産業のマネージメントのやり方だ、みたいなことだったんだけど、つまりどの場合も、逃げ切り型なんだよね。自分がさっさと評価されて、稼いでしまって逃げればいい、と。誰も過去のことは遡れない。「昔の自分はこんなだった」と思い出(自慢)話するとき、それを聴いてる若い人々は、誰もその「過去という現実」を確認することが出来ない。ハッタリで騙した飯屋にしても演奏者にしても、逃げ切ってしまえば、「あの頃の自分はすごかった」と自己申告できる。そうやってみんな生きてきたんだと思うね。儲けた勝ち。逃げたもん勝ち。「三丁目の夕日」生々しいバージョンみたいな。

だからこそ、記念写真のように、実際はどうであれ、綺麗な記録だけ残ればいい、ということなんだろう。僕はそういう写真屋というか、フォトショ屋みたいな商売が向いていなかったんだな。

もっとも「フォトショ屋みたいな商売」というのは、実は元々僕がこっちで目指してた商売だったのよね。結婚式の写真みたいなもの。あるいは、記念にヌード撮る人とかも居るけど、そういう感覚だった。それだけ取ってみれば、それは別に悪いことではない。「記念」だから。いい仕事だと思う。

それをね、悪用されて、悪く言えば詐欺商売みたいなものに使われる、っていう発想は、僕にはなかったのよ。世間知らずだったけど。あくまで「記念」だからそれをやってあげたのであって、その完成品を持って「自分はイケてる演奏家」って吹聴しながら営業始められる(ホントにそう言ってたらしい)ということは考えてなかったの。だから僕は、極端に言えば、詐欺の片棒を担いだことになるわけだね。これは取り返しの付かないことをした、と思った。実際みんなが騙されて、スポンサーになったヒトとか、お客さんとか、みんなが参入してきたわけ。その時点で、これはマズイ気がする、って気付いたけど、もう遅かった。
アメリカのロックビジネス、可能なうちに可能な限り早く稼ぐ。逃げ切る。そういう商売の、すごいミニチュアな稚拙なバージョン、それをされてしまった。その自己嫌悪感が自分の中ですごくて、ダメージが大きかったのよね。そういうことだったと思う。

 

ただ、ひとつだけ補足しておくと、こういう先行投資なやりかたは、みんながある程度まだ意識が高かった10年位前までは有効だったと思う。最初は「フォトショ詐欺」でいいのよ。そうして時間稼いでおいて、その1年くらいで、詐欺したレベルまで自分が上達すれば、1年後には実態も詐欺のほうに追いついて、詐欺じゃなくなるわけ。例えば、素材がよかったり、素質があったりする子だから、長く面倒みたい、と見込んだ場合、最初のうちはそうして誤魔化しておいて、いつか追いつけばいい、と思ってるわけね。実際、デビューしたてで、すごい下手だったり、垢抜けない子でも、1年2年って経つうち変わってくる、っていうのはよくあったでしょ。お金があるうちはこういう風にやっていた。でも今は出来ないのよ。そこまで待てないし、された側、というか詐欺した方の素材にされた子ね、こういう子も、自分はこれでいいんだ、って思っちゃって伸びなくなっちゃった。それを注意するヒトも居なくなっちゃった。だから、全員詐欺時代。詐欺のまま終わり。それが今だよね。

ホントならそれは、デビュー前にちゃんとしておくことかもしれない。正英さんの時代ならそうだっただろう。そう考えると、先行詐欺でデビューありき、というのは、既に衰退の風潮だったんだろうと思う。

詐欺が詐欺のまま上達せず終わってしまったのって、例に挙げるのもアレだけど、鈴木亜美とかそうだよね。みんなああいう感じになっちゃった。まともなのは「CDで」だけ。っていう。僕はそういうことに加担してしまったんじゃないか、って思ったわけですね。そういうつもりじゃなかったけど、結果的に、ってことね。迂闊だったですね。
まあでもね、こういうことはどこの世界でもあるわけですね。オマケに今は消費者の方が、そんなもんだ、と悟ってしまっている。完全にバカにしてる。だからCDだって売れない、どうせこんなのインチキ、と思ってるか、AKBみたいなもんに嫌悪感持ってるかだから、もう「嫌悪感」って時点で、夢とか売るような音楽の商売はおしまいなのよ。ネタばれしても見に行きたいもの、なんかそうそうないじゃん。相当レベル高くないと。結末知ってるけど、それでも面白いから観る映画、とかってそうそうないじゃん。いまの業界というのは、そういうことになってしまっている、ということだよね。

東京時代のまだ若い頃、同業の友人に、ちょうどこんな風にいろいろ愚痴ってたことがある。そうしたら「あんたは志が高いから、適当でいい、っていってもそれなりに仕上げちゃうけど、他のヒトはそれができないんだよ」って言われて、すごいびっくりした覚えがある。
何度も言うけど、僕はクォリティ主義でもないし、テクニック主義でもない。曲が良ければ、演奏の質や音質なんか問わない、と言ってはいるけど、しかし自分の中の理想レベルが一定ラインあるから、自分はそういう手抜きのつもりでやっても、よく仕上がってしまうんだよ。と。なんか褒められたのかどうなのか、よく判らないことを言われた。
確かに、自分の想像範囲でだけ考えて、自分の好きなようでいいんだ、何でもやりたいことやれ、って相手に言って任せちゃうと、とんでもないことになってしまうことがある。人間は誰でも、自分と同じようには見えてないし、聴こえてないし、考えてないし、歩けないし、ってことなんだろう。僕はそこが、最初のうちはどうしても理解できなかった。おもしろいよね。

ユーミンの「悲しいほどお天気」という曲があって、歌詞がそういうことを歌ってるんだよね。最初内容の意味が判らないままずっと聴いてたんだけど、ある日突然理解できて、背筋がぞぞぞーっとしたことを覚えている。これは恐ろしい歌だって思ってさ。残酷だね。

 

結局、何か新しいことするんだ、したいんだ!って言っても、「恐竜メソッド」に副ってる限りは、ある一定のレベルまで達してないと「出来損ない」って言われるのよ。自分達は若者で新しいことやってるつもりでも、実際は恐竜メソッドから逃れてない。それでも適当にすればいいんだってやってたら、粗悪品だらけになってしまう。そういうことなの。好きにやればいいって言っても、メソッドにはルールがあるんだってこと。だからそれが嫌なら、新しいことしたいなら、恐竜メソッドに副わなきゃいい。
恐竜メソッドしたいくせに、時間も機材もあって、今なんでも安いし、どんなことでも出来るのに、そこ怠けて出来損ないばかりやってたら、それは突っ込まれますよってことね。

逆に言えば、もっと僕なんかより、はるかにすごく個性と才能があって、恐竜メソッドにも副ってなくて、ある程度の自分の中での理想値を追求できるポテンシャルも持ってる人が、どんどん出てくれば、世の中は変わっていくだろう。そいつらがきっと「別な船に乗ってる」んだろう。

そういえば、有名な「千葉のジャガー」って人が居るんだけど、なんかお金持ってるらしくて、千葉テレビの枠買い取って自分の番組放送したり、音楽創ったりしてるのね。そういうネタみたいなこと、誰でもお金あれば可能になっちゃうでしょ。僕の場合は、それを大真面目にやろうとしたヒトに、その協力者として抜擢された事例、みたいな感じだったんじゃないかなあ。

今だからこうして文句言ってるけど、みんな最初はよかったの。でも1年経っても全然上達もしないし態度も悪くなってくるし、ああダメなんだなこれは、っていうことね。僕もバカなので気付かなかった。そこが僕も舐めてた部分ね。ちゃんと成長して来るんだと思ってったのよ。でも違った。成長したのは天狗意識だけw そういうことだったのね。それで、こういうことは今後、忘れないようにしないと、同じ間違い繰り返すと思ったし、どこかにメモしてちゃんと提示できるようにしておかないと、って思った。こっちのヒトが嫌がっても、それくらいはさしてもらうから、って。言えるのは僕しか居ないからってね。

たとえば今、Ust とかでも、サウンドクラウドでも、一般の若者とかでクォリティの高い音楽するヒトはたくさん居て、そういうヒトは欲もなく「自分のペースで好きにやってるだけっすから」などと言いながらプロ顔負けの曲創ったりするでしょ。そういう人たちが居る一方で、僕の関わった人たちの一部のように、自分らは全然、レベルに達しても居ないのに、町一番イケてるんだとか、すぐにプロになりたいんだとか、そういうタイプもいるってことなのね。そういうことを、僕らのほうも、今後はしっかり見極めないと、ただ利用されてしまいますよ、ってことでしょうね。

 

正英さんの話以降、こうやっていろいろ考えてるけど、結局、お金ってわけでもなくて、意識なんだよね。
でもじゃあ、その「意識」は誰が育てるのか、って話。

正英さんがこだわってるのは、僕が出来なかった部分、つまり、放っておいても延びるんだ、と僕は勘違いしてたところを、彼の場合は「若者は天狗ですから放置したら伸びません!」とちゃんと判ってて、その指導に時間とお金をかけたいってことだよね。それが師弟制度っぽくもあるし、恐竜メソッドでもある。しかし、若者で天狗だったとしても、才能ある奴や、周りにいい奴が居たら、それは自分で気付いて直せるんだよね。実際そういうヒトもたくさんネット上に居るわけだから。

僕はよくココで、楽器の上達は性格が一番関係ある、て言ってたけど、よほど天才か、幼少時から鍛えられてるヒトを除けば、スナオさとか読解力とか、そういうことが優れてるヒトが、楽器も上手くなるし上達も成長もする気がするね。それは、コミュニケーション能力、と言ってもいいよね。だから、コミュ障は、楽器とか上手くならない傾向が多いかもだね。楽器やってるヒトで、自分がなかなか上達しないと思って悩んでるヒトは、自分の性格に何か問題ないか、今一度見直してみるといいと思う。
感情のない演奏、自分の意思が反映されない場合は、ロボット的に上手くなれるかもしれない、でも、それはヴォーカロイドと一緒じゃん、ということになるねっていう。スクリーンは映されるだけで本音を言わない。ヴォーカロイドは自分の意思で歌わない。そういうことだ。

正英さんは、それでも、そこに一筋の光のような「能力の種」を発見できたら、それを時間とお金をかけて伸ばしたい、そういうシステムを続けたい、と言ってるんだよね。そういう意味では、恐竜産業の終わりは、弱者切捨てでもあるのかもしれない。コミュ障は自己責任でオチこぼれてください、というような。

 

でも僕も、コミュ障で、性格にも大いに問題があり、キャバレーとホテルを経験するまでは、それは直らなかったんだから、ヒトはどんなきっかけで、どうなるかとか判らないんだよね。だとすれば、恐竜システムの維持に必死になるよりも、もっと別なことも出来そうな気はするよね、というのが、思ったことかな。

 

ちょうど、正英さんと対談した漫画家さんが、こういうエントリをアップしてた。
http://www.facebook.com/masahidesakuma/posts/341072452635686

考えさせられるよね。
僕の場合、順調だったいろんな計画がつまずいたのは機材が一式壊れたことが大きかったんだった。そのせいで、半年作業が止まったし、請けてた仕事も当然半年出来なかった。これがなければ、もっと言うと「この弱み」がなければ、天狗若者にも、もっと強気で接することが出来たと思う。あれは大きかったよ。作業が止まっただけでなく、それの修理費と新規購入で、数十万吹っ飛んだ。その年、CDの全国リリースもしてたからさ、それも合わせて資金がまったくなくなって、どうしようもならなくなった。
そういうときにね、責めてくる奴も居たりして正直きつかった。外部の依頼のヒトは、しょうがないね、って待ってくれたんだけど、そうでなく、面倒看てた歌手とか知り合いが、いろいろ急かすようなこと言って来て、ただでさえ落ち込んでたところに、追い討ちでさ、オレはなんでこんな奴らの面倒を看なくてはいけないんだ?…って本気で思ったよね。
ディナーショーのオファーもそのときね。これも嬉しくて、これでなんとかCD売って、名前が売れて、還元できればいいと思って必死だったけど、そんでツアーから帰宅したら、あるバンドの裏切りが待っていて、本当に全員「あたまおかしい」と思ったんだよね。
あの1年は、表向きは華やかだったけど、機材は壊れるわ、マックもウィンも飛んでデータ飛ぶわ、内側では最悪だったわけだね。オマケに知り合いの放火事件があって、それまでの交友関係も、チャラになってしまった。人間の本性が見えた1年。
あと、その年は父も倒れたからね。これの精神的な痛手も大きかった。みんなには正直にそれ言ったんだけど、まあ僕自身、そういうことが重なって、それまでみたいな「道楽商売」は出来ない、って思って、伸びない相手のことは「お荷物」に感じるようになってしまったのかもしれない。そうなるともう上手く行かないからね。一方的に相手を責めるつもりは今はないけど、当時は、散々世話したのに…っていう意識はすごくあったよね。むしろ、自分よくやりましたよ、と、当時の自分を褒めてやりたいくらい。だから、そもそも合ってなかったんだよね。いい勉強になった。

そういう経験のお陰で勉強になったから、その後は仕事を断れるようになった。相手を見るとだいたいタイプがわかるようになった、というか。私も成長してますねw いろんな目には遭ってるけど、徐々に方向は定まってくる。この仕事始めて3年位か。まあまあかな。

 

こっちのジャズ系のヒトとといろいろやってる頃に「恐竜」という概念が生まれてきたわけだけど、自分のネットの文章を見返しても、何故そういう感覚が生まれたのか、今ひとつ具体的に書いてなかった。
たとえばCDリリースの件で、僕がいろいろ出した提案について、相手に提案しながら「こういうのって、キャリアのある人向けじゃない、若者向け、というか、もっとフットワーク軽い人のやりかただよな…」と自分でも思ってた。
やっぱりそれはプライド、というか、一度やったスタイルはランクダウンさせにくいだろうな、と。キャリアがあって、何十年かで確立された、自分ならではの「ちゃんとしたリリーススタイル」つまり、プレスしてキャラメルしてCD店で売って、っていうルーティンを、一度やったヒトは踏襲して続けていくしかないんだ、っていうことだよね。なかなか変えられないんだよ。
僕の12年前のCDにしても、あれは作るのは本当に大変だったし、お金もものすごく掛かったし、12年前だったというのもあるけど、かなりの高いハードルだったのね。で、作った後「今後もこれを毎回しなきゃいけないのか…」って考えたら、ちょっときついよなあ、って正直思った。当時。
幸い時代が変わって、そのすぐあと僕はネットを始めちゃったし、配信でもいいじゃん、とか、CDRでインクジェットでいいじゃん、みたいに思ったりした。でもやっぱり、12年前に一度プレス販売やってるからね、次がCDRとかだと、さまにならない、っていうか、正直カッコ悪いみたいな感覚は最初あったんだよね。そこはジャズ音楽家とやっぱり似た感覚になってしまう。

ジャズのヒトたちの場合は、それがもっと保守的だったというか、新時代のメディア展開や小売スタイルについて、「そういうことは自分の世界の話じゃない」っていう感じがあって、年齢こそ僕と近いけど、そういう考え方とかについては、一世代くらい僕とは違うなあ、って思った。そこをもうちょっと僕も、こうしたほうがいいデスヨ、みたいに引っ張れれば「リニューアル恐竜」みたいになれたかもしれないけど、そこまでのエネルギーと愛情は、正直、あの人たち相手には注げないな、って思った。だから結局、僕は「便利屋」になってしまい、一方的に請け負うだけになってしまって重荷になってしまったわけだよね。そこでお互いが提供しあえるような、コラボみたいな形で組めれば、そうじゃなかったんだろうけど、それは出来ない、と思ってしまった、と。「ゴメンけど、恐竜やん?」みたいなことを思って、自分は抜けさせてください、みたいな結果ね。残念だった。
そう、だから生きてる世代自体が異なるヒト、だったわけ。年齢じゃないんだ、感覚なんだ、っていう。どっちがいいのかね。それは僕は僕のほうがいいと思うけど、むこうにしてみりゃ「子ども相手の商売やってる」ってバカにするのかもしれないし、でも、そのままだと、そっちの船沈んじゃうんじゃないの?って思ったりしてさ、そういう感覚だった。

ジャズもそうだし、いま全体的にもそういう風潮に戻って来つつあるけど、音楽はナマだぜ、ジャズはライブだぜ、とはいうけど、僕としては、レコード(音源という本来の意味での)創れないのは、やっぱり損失だと思うよ、と強く言いたい。しかし「レコーディングよりライブ派」の音楽家が「僕らの仕事の意味」を本当に判ってるとも言いがたく、その深い溝は埋まることもないのだろうという気もする。
結局、正英さんクラスのクォリティでやれないなら、創らなくていい、ライブでいいや、と思うのか、宅録でもじゅうぶんだからこれでいい、と僕みたいに思うのかは、それは個人の価値観だからね、でも沈んじゃうよ?いいの?とは思うけどね。とか言って、こっちが沈んだりしてw まあそこは、頑張るしかないけど。

まあでも、こっちが沈んだら沈んだで、実力主義の時代に完全に戻るんだから、それでいいけどね。僕らみたいな「野良アーティスト」は、そもそも、本格派からは白い目で見られるところから始まってるので、主流になっちゃうと、逆に落ち着かない。いつまでも亜流で居ることの方が「ロックとしては正しい」気はするんだよな。

ただ、ひとつだけ警鐘を鳴らしたい部分は、僕も経験したけど、時代が変わって子弟制、恐竜制でなくなることはかまわないのだけど、そういう垣根を取っ払うことで、それを利用しようとする商売ってのが必ず出てくるからね。
たとえば、稚拙な演奏でも味があっていいねえ、という風潮になると「ああ下手でも構わないのか」と、練習しない連中が出てくる。あるいは、それまで技術不足で水面上に顔出せなかったようなヒトが、出せるようになってしまう。ヘタウマとホントに下手の区別が付かない人々がのさばるようになる。そして、もっと曲者なのは、そういう演奏者を利用して商売にしようという第三者が現われること。これが一番多いかもしれない。炊きつける輩が居るんだよ。そういう輩に乗せられないように気をつけないとね。一瞬の夢を見られたからいい、って割り切れるなら構わないけど、でも、そういうの買わされるほうの気持ちも考えないと。生産者には責任があるんだよ。

結局どの場合でも、理想論が現実として成り立つのは、都会に限る気はするよね。地方には、それを利用したハンパ物が表に出やすくなってしまうだけなんだよね。そういうのを僕は「劣化コピー」と言ってたんだろうね。

結局は淘汰と意識。結局「自分」じゃん。っていう。

ロバートフリップの言う「小さくて小回りが利く個体」の時代が、もう来てるんだろう。

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2012年4月24日

「ずっとあなたが好きだった」に見るバブル的なもの

僕はあまりドラマを見ない人だったのだけど、夕方の再放送で時々見たのがあって、そのなかで特に印象に残ってるのが、冬彦さん。「ずっとあなたが好きだった」。これは衝撃的だった。本放送のとき世の中で「冬彦ブーム」というのが会ってオタクが認知された頃だったんだけど、そういう話題性だけで先行して、僕もドラマ見ない人だったので、その程度の認識しかなかった。それが、夕方の再放送で全部見たとき、なんだかすごい悲しくて、このドラマは名作じゃないかって。バカにして冬彦さんとか言ってた人たちは何も判ってない!って思った。あれこそバブル的価値観の崩壊だった。その続編の「誰にも言えない」は、もっと良かった。この2編は続編だから特に際立ったのだけど、この2作の間で、女性の、具体的には賀来千賀子の顔のメイクが変わってるのね。それがすごく印象強くて。前者は80年代バブルだったのだけど、後者の方は90年代になっていた。何かが終わっていく、というイメージがすごくあったね。ちょうどそのとき僕はホテルで働いてた。いろんなものが、信じてた80年代とかバブルとか、経済成長とか、そんないろんなものが、終わっていく、っていうイメージ。それがあのドラマにあった。
あのドラマのロケ地は、確か南大沢だったはず。遅れてきた最後の多摩ニュータウン開発地だね。70年代からの経済成長と、巨大団地とニュータウン的ニューファミリー。その象徴だった多摩ニュータウン。その最後の地、南大沢。

こっちに移住する数ヶ月前、僕は新百合ヶ丘に住んでいて、その南大沢に何度も遊びに行った。今は都立大があるのかな。その、南大沢でアウトレットとかモールとか見ながら、バブルは終わったんだなあ、って思いながら、アルバム「布石」の曲の歌詞を書いてた。


ずっとあなたが好きだった、を再放送で初めて見たのは、ホテルの仕事を始めて1年後くらいのことだった。練馬のアパートを引き払って、嫌な縁を全部切ってバンドも辞めて船橋に転居し、ホテルの夜勤。
当時僕は、自分自身名義の「初のアルバム」を編集中で、夜勤明けで帰宅し、一眠りしたあと、昼過ぎからその作業、という感じの流れ。音に関する作業が終わって、アルバムの全曲解説(長文)をワープロで打っていた。
その「解説執筆」のBGとして流してたのが、たまたま再放送してた「ずっとあなたが好きだった」だったのね。話題作だったし、まあネタとして作業の片手間で見ようか、くらいの感じだった。なのに内容がすごくて、それは、先に書いたとおり、世間での評判と逆で、すごく切ない内容に苦しくてね、冬彦は自分のようでもあり、ドラマ全体に漂う80年代の残り香といい、自分が今編集してる「初アルバム」の主旨(それまでの集大成)とリンクして、なにかこれは「まとめ」なんだな、と。時代が変わって自分が変わって、次へ進める暗示なんだ、と。そんな感じがしたんだな。
再放送が終わるころ、僕の解説も完成し、アルバムも出来た。それで僕は、それまでの自分の過去と決別することができ、「ちゃんと歌ったカバーアルバム」の録音に入るのね。そんで、そのカバー集は「歌が目立つ」という理由で、それまでのどの作品よりもはるかにみんなに受け入れられて、ドラマーでオタクだった僕は、船橋という新しい環境で、歌うホテルマン、という別な自分に生まれ変わることが出来たんだよね。(全曲入り


バブル、ということで、ひとつ興味深い話があって、80年代中盤くらいだと思うけど、深夜ドラマで「桃尻娘」というのをやってたのね。これは監督が中原俊氏。
中原俊氏は出身が日活ロマンポルノということは知ってたのだけど(放送当時ではなくあとから)、今回いろいろ調べてて、なんと脚本のヒト(斎藤博氏)も日活ロマンポルノ出身ということだった。
日活の女優さんで山本奈津子さんという人が居て、練馬のアパート時代の友人が彼女のファンで(笑)、あんまりに「山本奈津子はいい、いい」というものだから、そんなにいいなら見てみようと思って、いろいろ過去の作品までさかのぼって、レンタルで借りて見たのね。そのなかで「百合族シリーズ」ってのがあって、それが実は斎藤氏の脚本だったのだ。その第3作目『OL百合族19歳』が僕は好きでよく見ていた(これの監督はなんと金子修介氏)。内容としては、主人公ふたりが、避暑に軽井沢に行き、大騒ぎ、みたいな内容なんだけど、それが見事に80年代でバブルで、ああすごいなあ。こんな価値観だったなあ、と何度も見返したの覚えてる(注!実はこれは「セーラー服 百合族2」だったことが判明!詳細↓)。

いい悪いは別にして、やっぱり懐かしいんだよね。こういう世界で生きてた人たちなんだ、って。そういうなんというか、僕にとってはリアルな経験時代よりも、あとになってからの対象化時代のほうが、よりいっそう掴めた気がするのね。その渦中に居るときは気付かないいろんなもの、失ってから気付くいろんなことね、そういうのを、過去のエッセンスたっぷりな創作物を見ることで、改めて対象化できる、っていう感じだった。
バンド時代末期の僕はよくそういうことをしてた。山本奈津子好きな友人も、とっくにアパートを出て居なくなってたけど、それでも、彼のその言葉を思い出して、レンタルしてみたりしたわけだから、何か引っかかって興味はあったんだと思った。

俯瞰でみて、対象化する。そこから何かが生まれてくる。時代をよりはっきり描けば描くほど、その作品から、そういうことが読み取れる。そんなことを思った。


これこそバブル。と思いつつ、自分はこんな世界と無縁だったし、でもメディアとして語り継がれたら、これが現実って、後世の人は思ってしまうね。確かに憧れてたけど、実際はこんなことはなかった。でも空気感はよく表してると思う。


PS
上の注釈にも書いたけど、二人の主人公が軽井沢に行って大騒ぎ、というのは「セーラー服 百合族2」でした。僕が好きでよく見てたのはこれです。内藤剛志さんも出ていたので間違いない。いやー記憶というのはあやふやなものですね(註!しかもなななんと、その監督は迷画「デビルマン」を撮った那須博之氏だった!)。

せっかくなので追記すると、軽井沢、という場所、実は僕が通っていたある学校の合宿所があったのです。毎年夏休みに学年みんなで、親睦を兼ねてそこに合宿いく、という行事があったのね。その時の印象がすごく強くて、今でも「軽井沢」というと、その時の学生時代のことを思い出す。
ちなみに、以前ここで書いた「ときめきアクシデント」の記事で出てきた「としまえん」。生まれて初めて「遊園地」という場所に行ったのが、学校の行事で行った「としまえん」で、そのとき以来「ぜったい彼女作ってココに来るんだ!」って思ったって話。翔んだカップル(TV版)エンディングで見てたので、憧れてたんだ、っていう。それも実は、この軽井沢の話と同じ学校のことだった。
そう考えると、僕の「東京文化」との出会いは、全部そのとき、ってことになるね。意外に大きな出来事だったんだな、って思う。

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2011年12月18日

TV局バイト時代の話

僕は東京のTV局のうち、T○Sと○テレという2局に仕事で関わったことがあります。T○S時代は、管理係だったので、機材の管理をしてただけだけど、それでも、数え切れないくらいの俳優さん、タレント、アイドルに会ったことがあり、逆に多すぎて、「○○には会った?」って訊かれないと、思い出せません。

まあそんなことはいいのですけど、そのT○S時代のことで一番の出来事。

僕の上司となった人は、筋金入りの職人で、本当に厳しい人でした。昔からの職人なので、もちろん、理不尽さも最上級。なんでも「命令」で、口答えとか、「どうして?」などという質問も許されませんでした。ともかく、言われたことをやること、それだけが僕の仕事でした。


その上司が、ある日言ったわけです。

「あんたさあ、鼻悪いね?それ、治してくれる?」
「鼻すすってたりさ、くしゃみとか鼻声もウザイから。上の診療室行ってさ」

とね。

これは強力でした。確かに言うとおりでしたし、親からも言われたことはありますけど、親に逆らってた僕は、「ケッ」とか思って、言うことを聴かず、放っておいたわけです。

しかし、上司命令では逆らうわけには行きません。何も言えず、行きましたよ。

そして結果として。

治ったわけです!!!

それまでの疲労感や、酷い声、歌い方、話し方、全てが直りました。

違う人間になったようなんです。
本当にびっくりしました。

それ以降、僕は定期的に耳鼻咽喉科に通うようになり、呼吸器系のケアに常に気を使っています。
お陰で、声もずっと変わらず歌えてるんだろうね。すごいことだね。


僕の人生、様々な軋轢や理不尽さは耐えなかったし、ストレスそのものの人生だった気もするけど、そんな中からも、こうして、得がたい経験をちゃんとし、人生の意味に繋げて行ってるわけだよね。

当時も今も、その上司は「しね」くらい思ってますけどw
しかし、この件に関しては、命の恩人だと思ってる。それくらいでかい経験だったということです。

殺したいほど憎かったからこそw それくらいの存在にも成りえたってことだよね。
僕の人生、常に敵に囲まれてナンボ、って気がするね。

ははは。

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2011年12月14日

小林建樹とエロビデオ屋

「祈り・小林建樹」については強力な思い出がある。

ライブ活動が終わって夢破れてヒキコモリしてた頃、西新宿にエロビデオ屋が集合してる地域があると知って、そうなのか、おもしろそうだな、行ってみようと思って、すごい汚いカッコして行ったのね。

そうしたらもう、あらゆるジャンルのAVが集合してて、あちこちの店とか、ビル1棟全部がAV店だったりとか、ともかくすごくて、すげえなすげえな、とか思って物色してたらさ、店員が「お客さん、スカなんかどうっす?」とか尋ねてきてさ、一瞬「スカ?」とか思ったけど、そっかスカ○ロのことか!と思って、人生長く生きてきて、お店の中で店員に「スカ○ロいかがっすかー」みたいなこと言われるって、そうそうないぜ、とか思って感動してさ、そんなこんな、いろんな刺激的な空間でね、ああそうか、音楽なんか辞めてしまえば、ヒキコモリとかガテン系の仕事デモしてさ、こういうもん毎月買って、世捨て人みたいに死ぬまで過ごしていけば楽しいんだな、って思って、それでいいや、楽しそうじゃん、とか思ったのね。

そんなこと思いながらボーっと店内うろついてたたら、有線からある曲が流れてきてね、それが、すっごいイイ曲なんだよ!そんでもう、目の前の山ほどあるエロビデオのパッケージ見ながら、「これはなんだろう?なんだろう?」と思って、もう完全に耳がその音楽に惹かれて、エロビデオとかどうでもよくなってさ、これはすごい、すごい曲だ、何なんだこれはー!!?、と思いながら、その場で立ち止まってフルで聴き終えた。

そんで店出ても感動が収まらなくてね、「まだ日本に、こんないい曲がある。こんなイイ曲を書く奴がいる!まだ日本は大丈夫なんだ!これからも大丈夫なんだ!」って凄く思ってね、僕も音楽なんか辞めようと思わないで、やっぱりちゃんと続けていこうよ!って思って、凄い勇気が出たのね。

その後、ケーブルテレビのMTVで、この曲が、小林建樹の祈りという曲だと知った。
そのあと僕は引きこもりやめて、次の製作に入ったの。

だから、この曲は僕を救った曲なんだよね。僕の人生の基本、エロと音楽が、こういう形で結びついて、僕そのものを救ったんだよね。ほんと。


追伸。
こっちに来てから、熊本の富永健太という奴と、Be7でタイバンになったとき、なんと彼が、この曲をカバーして歌ったのよね!そんで、オレ感動して、この話を彼にした。その後、彼とうちに来て、一緒に酒飲んだ。彼は朝に熊本に帰って行った。


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2011年8月18日

寛大なヒト

ずいぶん後足で砂をかけるような真似をして去ってきた、かつてのバイト先がありました。そこは古本屋でした。
ちょっとした行き違いから店長夫婦と揉め、話し合いの途中で「もういいですので。」と一方的に解雇通告をされてしまい、僕はそれに納得が行かず暴言を吐き、傷を広げてしまい、修復不能の関係になってしまったのです。当時は「自分は間違っていない!」と思っていました。

僕の特徴は、そんな事をしておきながら、そんな自分のしたことに、あとあと後悔し、ずっと悩み続けることです。「あんなことしなきゃ良かった…」「いや、相手も酷かったのだからやって当然だった!」などと、ずっと考えてしまうのです。そして、その古本屋の店長のコトも、ずっと何かというと思い出して、考えたりしていました。


先週、ふとメーラーをいろいろみてると、下書きのところに書きかけのメールがありました。なんだろうと思ったら、2年前に、その古本屋の店長宛に書いたメールでした。

内容は、当時の僕は人生経験が浅く、店長の気持ちがわからなかった、いま自分で、いろいろ事業などするに当たって、初めて気苦労が理解できた、人と接したり、使ったりすることの難しさとか、当時は分らず、ずいぶん酷い事をしたし、言ったりしたと思う、お詫びします、と書いてあった。

日付は1年半くらい前でした。何があったんでしょう。笑。
まあ、何かがあったんでしょうね。ピンと来るヒトもいるかもですが。

そんなメールの下書きを発見して、当時の店長のことや、1年半前の自分の事などいろいろ思って、このメール、出してみようかな、と思って、先日送ってみたんです。

もちろん返事なんか来るわけないじゃん、と思ってたし、来たとしても「ああ、あの時のおまえか、まったく酷いやつだった」と怒るかと思ったのね。

それが、さっき返事が来て、内容はまあ書かないけど、人生にはそんなこともある、きみだけじゃなく、様々なヒトが当店でバイトし通り過ぎていった、過ぎたことだから忘れて、店のことは楽しい思い出として過ごしていって欲しい、とか書いてあるんです。

実は、昨日もあるヒトに、あるメールをしたところ、「見てるひとはちゃんと見てるはずだから、看過しておけ」的な御返事を頂き、なんだかずいぶん、気が楽になったような感じがありました。


僕の性格として、なにか疑問や矛盾、問題なんかがあると、ついとことん追求してしまうのです。粘着系なんですよね。それが、芸術や音楽方面に発揮されれば、その研究成果や効果も絶大でしょうが、人間関係や社会に向けられると、大変なことになってしまいますね。


僕は知らないうちに、いろんな事を背負いすぎて潰れかけてたのかも知れません。

背負いすぎて掴みすぎて、あらゆる物を持ちすぎてたために、新しいものを掴めるような余裕すらなかったんでしょう。だって、あまりに持ちすぎてたら、もう持ちきれませんから。

それは過去も一緒ですね。

自分で、等身大メモリーという曲で、そういうこと歌ってるじゃないですか。それなのに、自分自身は、それをなかなか実行できないんですね。

あれは自分に対する戒めの歌なんだろうな。自分に言ってる。そういえば、「To ME」というアルバムに入ってるわ。

なるほど。

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2008年8月19日

文句言いながら恩恵受けるな~サンマ休漁

サンマ船が一斉休漁 230隻、燃料高窮状訴え

なんとなく、このニュースうちの実家のほうだなーとか思いつつぼーっと眺めてた。実はオレは日本有数の漁業都市に生まれ育ちながら、魚介類全般がものすごく苦手だった。幼少の頃から、あの生臭い匂いとか生々しさに、どうしても慣れなかったのだ。そんなこともあって、物心ついてから成人するまで、強制的に親に食わされた事を除けば、魚料理というものを殆ど食べた事がない*1。人にそういうと「えーーーなんでー??すげえ勿体無い」と今でも言われるが、こういう人はオレだけじゃないと思う。実家が食い物屋で、生まれたときからその匂いに囲まれ、いまや見たくもない、という人は多いんでない?

魚介類からことさら距離を置いていたのには、実はもうひとつ理由があった。それは、漁業町独特の気性やら風習にどうしても慣れなかったからだ。人間的に狩猟系なわけだし、そら荒々しく男らしいのは当然で、幼少の頃から適当で弱っちいオレは、常に、そういう人々のからかいの対象にされたのだ*2

そんな自分がやっと故郷脱出に成功し、それらから開放され社会人になり落ち着いた頃、たまたま先輩に連れて行かれた居酒屋で「ほっけ」が出てきた。先輩が「これうめえんだよ、お前も食え」と言った。内心「オレは魚介類は食わないんだよ、嫌だな」と思ったが、席上断れるわけないじゃん。なので、しぶしぶ箸を伸ばして一口食ったわけだ。

「う、うまい」。

その経験のあと、オレは積極的に魚系料理を食べるようになり、その魅力も十分理解できるようになり、かつての偏見も薄れていったのだった。

今日のこのニュースで、漁港の様子と地元の漁師のインタビュー映像が放送された。それらを見たとき、幼少の頃の自分の気持ちや出来事が、一気に思い出されて「あー、そうそうそんな感じだった。やっぱりオレ魚は好きになったけど、漁港や漁師にはあまり近づきたくねえな…」と当初思った。

でも、しかし。当時感じてたような嫌悪感みたいな、自分の人生から排斥したいほどのウザさみたいなものはあまり感じなかった。うーん、なんでだろう、と考えた結果、それは今の自分が「魚を美味いと思って食ってる」ことに理由があるのではないか、と思ったのだ。

その対象物を「美味い」と思って食ってるってことは、その恩恵にあずかってるということになるんで、そうやっていい思いをしておきながら、それを採った人やその環境の事を悪く言うのは、ひどく筋違いな感じがしたのだ。確かに人として気の合わない人種かもしれない。野蛮な人たちで社会的にどうかと思う人も多いかもしれない*3、でもあなた達の仕事はありがたいよ、と尊敬しても別にいいんじゃないか、と思ったのだ。

こういうことを思ったあと、例えば普段音楽を聴いたりしてるくせに、音楽家はクズとかメンヘラとか、薬物やら乱交やらでろくな人間ではない、とか思われるのも、ちょっとなんだか違うような気がしてきて、それは確かに社会的にどうか、と思うけども、とか言いながら、音楽を聴くって事は遠回りでもそれらを容認してることになりゃしないか、っていうか、旨みは享受するくせに、その生んだ対象を侮蔑するって言うその感覚がよくわからないな、と思ったりした。

オレが以前よくここで書いてた、パクリとか二次創作とかしてその対象を使ってるくせに文句言う、って言う感覚が理解できない、ってことにも繋がっているのだなあと。ニコとかMADみたいなものはオレはおもしろければ黙認したい気分でいっぱいだけど、だからって、好き勝手にしてもいい、とか、それを使う側が言うのはどうなんだろう、という意識が凄くあって、だからこそ、そういう気持ちが使う側に薄いからこそ、クリエイター側も頑固に折れないんだろう、って思う。コピワンとかそういうことでね。

例えばオレが以前のままの感覚で「漁港くっせー、きたねえ、漁師うざい」とか言っててさ、でも「新さんま、バリうめーなー」って、それは漁師も「おまえ食うなゴラ!」って言うでしょ。調子よすぎるんだよてめー、ってことにならないかな?

僕とあなたは人間的に気は合いませんが、それを採ってくれて食わせてくれることには感謝してるんだぜ、みたいな気持ちがないと、それは自分の中で折り合いがつかないってことを凄く思ったわけだね*4

追記
今ひとつわかりにくかったようなので端的に書き直してみる。

オレは魚が嫌いだった。それはオレの生まれ故郷の、漁師とか漁港がなんか下品で嫌だったからだ。しかし大人になって食ってみ て魚がうまいものだと気付いた。美味いものだと思って食うようになってから、漁師や漁港の事を下品とか思うのも失礼な気がした。なぜなら食ってるからだ。

人 の著作物とか勝手に使って編集したりミックスしたり二次創作物を創ったりするのは、100歩譲っておもしろけりゃいいや、と思えないこともないが、勝手に 使う立場の人間が、でかい態度で「別にかまわねえだろ」って開き直って言うのは失礼じゃないのか、と。見世物扱いしてバカにしてるのもどうなのか、と。物 創る人間としては、漁師と同じ気分だ、と。食っておいて好き勝手言うなよ、と。人をき○がい扱いするなよ、と。

クリエイター側のみんながコピワンだのなんだの駄々をこねてるのも、お前らの態度が気に食わない、ってことなんじゃないか、と。そんなずうずうしい奴らには死んでも許可なんかしたくないぜ、と思いたくもなるだろ。少なくともオレはそう感じるぞ。

ここんとこ、自分の事が忙しいので静観を心がけてたのだが、一連の最近の流れ、池田氏の椎名って誰?から始まり、二次創作、と連続されると、さすがの私も腹に据えかねてくる。この件はまた続き書く。


参考エントリ。まさにこんな感じです。
アフィリエイトは儲かんないってば:著作権の話で感じたもやもやを図にしてみた【追記】 - livedoor Blog(ブログ)


関連エントリ。
誰でも当事者になりうる。つい忘れがちだけど



関連ブクマ。
はてなブックマーク - ぼくの描いたこなかが絵がニコニコ動画に無断転載された話 - E.L.H. Electric Lover Hinagiku

関連エントリ。
これってオレの言いたいこと端的に表わしてる気がする。

アフィリエイトは儲かんないってば:著作権の話で感じたもやもやを図にしてみた【追記】 - livedoor Blog(ブログ)

アフィリエイトは儲かんないってば:二次著作でもやもやした話のあとがき - livedoor Blog(ブログ)

ことの始まり。
ぼくの描いたこなかが絵がニコニコ動画に無断転載された話 - ビジネスから1000000光年

*1:寿司を除く
*2:ちなみに母の実家は、これまたなんと酪農家であり手広く乳牛など飼うなどというカウボーイみたいな「荒馬と女」みたいな人たちだったから、そんな親類縁者からも自分は疎まれたw
*3:インタビューの漁師が、ではない
*4:日ごろ、サンマ美味いとか思っても、実際は昔のオレみたいに、漁業関係者のことなんかなんとも思ってないってことが正直に現れた出来事だと思うんだよなこれ。ありがたいとか思ったら、その対象も大事にしてやれ、って思うのが当然じゃないかと思うのだが。そんでオレはその感覚が創作物にも準える事が出来るだろうと今回思ったわけだ。

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2008年7月26日

音楽の力を過信しすぎた弊害

ふと思い立ち「リリイ・シュシュのすべて」を見始めたが、どうにもこうにも居心地が悪く、途中で留めてしまった。以前一度見たことがあるので結果とか内容は知っている。その時も何処か居心地の悪さと後味の悪さを思ったわけだが、その理由がなんなのか、残忍さを執拗に描いてるからなのか、いやしかし、それだけで、こんな違和感を感じるだろうか。そんな、以前感じた疑問を今回払拭したいと思ったのだ。

そんで今回気づいたのは、音楽というものの有効性をありえないくらい信じていること。つまり、観ながらツイッターに書いたメモ「なにか音楽を特別なものにでっち上げようとしてる作為が見え見えで、というか、そんな時代の臭さふんぷんで、あー嫌な時代だったな、と。」のとおりである。ここに出てくるリリイ・シュシュなる架空のアーティストにしても、サティやドビュッシーにしても、音楽そのものではなく、その醸し出すイメージ、時にはねつ造とも言えるような、「虚」そのものである。この映画の中ではアーティストや作曲家は生きた人間でもなく音楽でもなく、それはまるで北欧の家具と同義であり、「サティ(笑)*1」である。

映画の公開は2001年なわけだが、思い返せば確かにそういう時代だった。メディアやレコード会社の垂れ流す、アーティストや作品の過度なイメージを、そのまま受け入れていた時代。いやほんとは、もう既にそれはインチキなんだと、みんなが気づき辟易していたのに、あたかもその戦略が未だ有効であるかのごとく、信じさせ、…これは、リスナーに対してだけでなく、他ならぬ制作側やメディア自身が自らをそう騙してたとも言えるが…、そうしてバブル終演を可能な限り遅らせようと言う悪あがきが如実に表れてるのだ。

音楽業界の経済的な動きは実社会よりも微妙に遅れて現れる。世紀末バブルで自分たちのシステムが未だ有効である、と勘違いしてしまったメディアの人々が、余力のあるうちに、と、せっせと柳の下のドジョウを濫造した時代。この時代を経てるから、みんないま、メジャーとかインチキくさいとかいう弊害になったんじゃないのかと痛感する。そしてそれは、林檎の一時引退とリンクする。

さて翻ってこのオレであるが、この日記や過去ブログでも散々話したとおり、「音楽は音楽でありそれ以上でもそれ以下でもない」と言う持論を信じ続ける人間であり、それを実践してきた。前述したメディア発信側が「音楽を音楽ではなくそこからの派生イメージだけで売るという戦略の有効性」を信じ続けた結果、今のような市場崩壊に至ってるのだとすると、このオレは全く正反対で「音楽を音楽としてだけ捉え、その力を信じ続けた結果、哀れな開店休業状態に至った」と言える。

つまり、オレは自分が素晴らしい音楽を生んでいる、という、ほぼ勘違いに基づくっていうか、根拠のない過剰な自信に支えられて、他のことに目もくれずに作品を作り続け、良いものであれば必ず誰かが聴いてくれるのだ、という幻想を信じ続け、営業活動を全く行わなかった。媚びることもせず、要請にも応じず、あくまで自分のスタイルとペースを守り通した。その結果としてオレは、かつて所属した業界内の輪、ディレクタープロデューサー等の方々からの、発注先としてのリストからいつのまにか外れていた。勿論彼らは今でも知人である。しかし、仕事相手としての付き合いではなくなった、ということなのだ。

オレは昔から年上の世代に可愛がられなかった。それは業界内でも変わらなかった。オレは「ここは違う」と信じていたけども。結果は同じだった。どんなに良い曲を生んでも*3、相手の有効な駒にならなければ、存在価値は認められないのだった。そうしてオレは地下に潜り、身を潜め、時は過ぎ、周りの世代が皆年下になっていき、自分が貫けるようになったのを見計らって、再浮上を意識するようになった。それが今だ。

前回の日記に書いたように、オレは自分の仕事は作詞作曲し歌うことだ、と認識してる。だからこそ、最高の曲を生んだのだからそれで満足、とも言えるのだし、そのことに後悔はないかと問われれば、ない、と応えられるのだが、ちょっと人情的な部分で言えば、たとえばオレが最初にスカウトされたとき田舎の両親が「紅白にはいつ出れるんだい?」と訪ねたこととか、テレビを観るたび最後のスタッフロールでオレの名前を探した、という話を聞くと、やはり人の子としてはチクリと胸が痛む。痛むのだが、しかし、そうしか生きられなかった自分がいるのだ。それでも、何も出来なかったよりは、こんなに良いもの書いたぜ、と報告出来るだけ幸せだと思ってる。

*1:スイーツ(笑)
*3:一応みんな口々に褒めてくれたので

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2008年7月17日

告発のゆくえ

と言うことで久々に書いてみようと思うけど、とは言っても書けることはあまりないんだけども、というのは実はこちとら裁判中なんだよね。そう言う話はいろいろ聞くけども、ほかならぬ自分自身がそう言う立場になるとは思ってもみなかったよ。

まえにツイッターで少し触れたんだけど、ものを作ったりする人って言うのは、ちょっとどこか抜けてたりお人好しだったりする人も多くて、契約関係やらで揉めることも多いんじゃないかと思う。そう言うのフォローする体制が整ってれば良いんだろうけど、フリーでやってる人はなかなかそうも行かない。それでも、業界内の各先輩やら同僚にまだ聴けるだけましな環境とは言えるかもしれない。

そんでだいたい80パーセントくらいの人からは「確かに大変だったし悔しいでしょう。しかしここは良い経験だと思って、すっぱり次へと進みましょう」みたいな前向きなアドバイスをもらうことも多い。また実際、そんな法的手続きやら書面書きやらで手間取って、肝心の創作活動がおろそかになるんじゃねえ?みたいなことも良く聴く。しかし、それも実際に自分が渦中に巻き込まれてみると、そんなこんなで必死に脳内活性化していろいろやってるうち、冴えて来るみたいな、ランナーズハイみたいな感じになってくるのが、なんだかおもしろかった。とは言っても時間を取られてるのは事実なわけだし、そこら辺は適度にしとかなきゃね、とは思う。

今回の騒動なんだけど、簡単に書いておくと、以前から取引のあった会社があった→うちの会社大変なので社員になってくれない?→いや遠すぎますから何か条件とか?→それじゃあ社宅みたいな形で家を貸しましょう→しょうがない、じゃあとりあえず行くね→会社破産&新会社に名義変更→会社なくなったから家出ろ&今までの家賃払え→あっそう、じゃあ前に仕事した分のこっちの債権と相殺ね→いえできません。別の会社なので。ほらね(と登記簿見せられ)→あほか、どう見ても同じ会社じゃん。ふざけないでさっさと相殺しる!→できません。払わないなら法的処置→裁判←イマココ。

とまあ、なんだかくだらんと思いつつも、おれも世間知らずなんで良くわからないんだけど、100歩譲って騙されてるオレがバカだとしても、このジャイアンな奴らを放っておけるかっていうところなわけだね。

今回の件でいろんな人に相談したんだけど、特別背任とかもろもろで告発するってのは並大抵のことじゃないらしい。それに人は正義だけじゃ動かない。勝算なきゃ弁護士も着手もしないし、警察もダメ。あげくはこっちだけ空気読めない人扱いで村八分みたいな結末になりかねない。狭い町だからねえ。

知人友人はみんな東京戻って来いやーみたいに言ってくれるけど、ここはもう少しこれをなんとかしてから最低でもその後の身の振り方考えようと思う。とりあえずレーベルも作ったことだし、良い作品さえ生んでればなんとかなるような気もする。

などと、この期に及んでまだそんなのんきなことを言う。さすが公務員が両親の一家に生まれた人間である。(自画自賛w)

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