【2014年 追記】
今の僕は、以下に展開される持論とは若干異なった考えを持っています。この記事を書いたあと同年11月に、あるダンスミュージカルの仕事に携わり、そこで出会った方との対話から、若干の気持ちの変化があったからです。
それを踏まえたうえで、その前は以下のような考えを持っていた、ということで読んでいただければと思います。なお、今の僕は、書いた当時のような「地方都市在住」ではありません。

佐久間正英さんの「音楽家が音楽を諦める時」というブログ記事が話題になり(元々はFBの投稿)、私も遠からず関係のある話題すぎるので、同意や反対意見も含めて、いろんなことを考えさせてもらった。
そのうちのひとつは、たまたまTL上でお話が広がった nijuusannmiri さんとの会話がトゥゲッターでまとめられているので、どうぞ。
その後、本人の正英さんを始め、様々な人々が自分ならではの考えを述べ、「いい意味での」炎上になっていた。こう考えると、みんな音楽には興味があるようで、その辺は悲観する状態でもない気もするけど、それでも、末期は末期だろうとは思う。そんななか、僕は、このまとめを読んで、ちょっと思うことがあったので、まずそこから、地方都市という現実を踏まえつつダラダラと広げて書いてみる。
【名プロデューサー】佐久間正英の仕事ぶりがスゴイ
これ見ると、自分の考えややり方は間違ってなかった、と安心する反面、これを今も続けてたら破産していただろう、とも思う。
アンチ「恐竜的肥大産業」派でもあるし、テクニック主義でもないし、だから、僕の価値観は、こういった業界の最上よりはずいぶん甘いし、ゆるやかだと思っていた。なのに現実は、その僕の感覚「以下」だったことが正直ショックだった。下手でも雑でも、曲さえよければいいのだ、と言っても、限度があるんだよ。最低でも、その限度を自分でわかる人間だけが、音楽家として生きていく、という決心を出来るものだ、と思ってたんだけど、そうじゃなかったってことね。それはつまり、他にやってるヒトがいないから「やっている」というだけで重宝されている「地方土地、という現実」だったってことでしょ。
僕は最初から、自分の価値観や、東京標準を、地方都市でまで押し付けるつもりなんかなかった。ずいぶん寛大な気持ちでやったつもりだったが、殆どの相手は、その僕の「これはちょっと寛大すぎかな?」と考えた基準より「斜め下」を行っており、その現実についていけなくて自分も病んでしまったのだと思うのね。
僕がなかなかゴーサインを出さないので、それに付いていけない、待ちきれない相手は、どんどん去っていった。そういう状況を「おまえ、まだそれ、仮免だろが!」と、僕はかつて表現した。殆どのヒトが「仮免」で道路を走ってる状態。それはそれで楽しいかもしれないが、マトモな運転手なら、そんな道じゃ走れない。そういうことだったんだと思うね。
僕のような仕事は人気商売でもあるでしょ。人気度や集客で測られると、僕よりも、その「仮免」連中の方が受け入れられている、という厳しい現実がある。僕は自分が正しいと思ってきて進んできた道を、全否定されてしまったのだ。「あなたは受け入れられません。」と。みんな「仮免」で楽しく走ってるんです、あなただけ「ちゃんと走れよ!」って怒っても、誰も言うことなんか聴きませんよ、と言われたってことなんだよね。
この感覚はデジャブだ。自分が以前仕事をした、ある「ピアノ奏者Oさん」の事をどうしても思い出してしまう。厳しいヒトだった。彼女には散々酷い目にはあったし恨みの気持ちもあるが、不思議に心の底まで憎めないのは、自分も彼女の気持ちが判るからだろう。彼女は、僕よりももっと、真正面から戦おうとしてしまったのかもしれない。
馬を池に連れて行っても無理クリ水を飲ますことはできない、っていうじゃん。僕の場合、無理クリではなかったが、これ飲んどいた方がいいぞ、と言ったんだと思う。でも、みんな別に要らないので、と。
逆に、もっと強制的に「これ飲め ゴラ」とか言えば、精神論好きな奴らなら、はい!とか言って乗ってきたのかもしれないが、僕はそんなの意味ない、と思ってるからさ。自分で「この水はどうもいいらしい。」と、少なくとも気付ける意識レベルじゃないと、結局僕は一緒にやるのは難しかったんだろうなって思う。
こういうこと言うと、いつも紙一重だと思うのだけど「何も言わなくともこっちの意図を判れ」っていう、精神論おっさんとは、自分は違うと思うんだよねえ。何度も言うが僕はそういうのは嫌いだから。でもこれくらいは、パット理解しないと、少なくとも「これはひょっとしてよさそうな水ってことなんですか?」とか思ってくれるような相手じゃないと、それは見込みないわーって思うんだよね。そこ気付けるのが「勘」というか「才能」なんだろう。
そこら辺、指導者とか教えるの上手いヒトは、上手に導くんだろうな、と思う。でも彼らは指導料とかちゃんと貰ってるだろうし。僕みたいに、お金取らずに先行投資して、裏切られて去られたら、そこで終わりじゃんっていう。その辺はもう、ドライに割り切ればよかったんだろうな、と、今だと思えるけど、それより以前に、自分はしっかり、相手のレベルを見極めるべきだった、ということだっただろうね。その辺の見極めの見通しが甘かったのだな(→ 関連記事 後述します)。
恐竜的世界の終焉、ということでは、そもそも60年代~70年代の日本の音楽家は全員金持ちだから。そういう世界に戻っていくんじゃないかと思ってる。欧米と違って、ロックもジャズも真からは根付かなかったのよ。付け焼刃の世代だったんでしょうね。それは正英さんも仄めかしてる。だからここは思い切って、一旦、諦めるべきなのかもしれない。しかし、正英さんのような人の蒔いた種は、ちゃんと生き残って行って、そうして、ちゃんと、本当の意味で根付いた、本当の音楽が、おそらく今の30代くらい以下の世代から、また始まっていくと思う。それでいいと思う。
で、話は戻るが、正英さんの言い分に反感持ってる一連の人々は、さっき言った「仮免」という概念そのものが、もう時代にそぐわないのだ、と言ってるんだと思う。というか仮「免」の「免」という概念がもう不要なんだ、と。それもよく判る。
だがね、昨日ツイッターでやり取りしたとおり、そこの箍を外すと大変なことになる。それ僕は、こっちで、全国のみんなより、一足先に経験したわけだ。淘汰される東京でなら、「免」なしもおーけーだよ。しかし、こっちでそれされたら「無秩序な音楽」が蔓延することになる。前述の「ピアノ奏者Oさん」の厳しさの本質は「それを認めない」ということだったのだろう。僕も彼女の「洗脳」を受けて一時期そうなっていた。しかし僕は、その考えを支持しつつも、その一方で「信仰そのもの」が恐竜なんだ、ということも判ってしまったのだ。
だから結局、僕は僕の道を粛々と進むことでしか、何も示せないし、生きても行けないんだって悟ったんだろうね。彼女の示してることは、アーティストとしては間違いではない。恐竜的ではあるけど。でも、もう若い世代では、この国では、そういう箍は取っ払われてしまうでしょ。だからこそ、僕ももっと元の自分の価値観を大事にして、しっかり進まなければならない。半端な人々とか構ったりせず、さっさと立ち去って、自分のことだけすればいいのだ、ということなんでしょうね。結論は自ずと出る。
こないだ面白い話をしたんだけど、たとえば楽器が下手だ、って、最近あまり言っちゃいけないような風潮になってるんだよね。もちろん、頑張ってる普通のヒト相手に、意味もなく「あいつは下手くそだし」とか罵倒するのは人格疑われるけど、理由がある場合(プロ指向とかの奴にとか)は言っていいと思うんだよね。でも、たとえば、バカとか、ぶすとかいう言葉と同じように、下手くそとも言ってはいけない様な風潮がある。
バカとかぶすと違って、楽器が下手っていうのは、同じ楽器をやってる身からすると、何故下手なのか理由がわかるわけだよね。サボってるとか手抜きだとか、インチキとか。つまり「本来しなければならないことを怠ってサボってるが故に上達しない」わけで、それは糾弾されて然るべきだと思う。でも、言っちゃいけないんだよなあ。でも、それで人気を博してたりすると、なんなのこれ?とか思って何か言いたくなっちゃうでしょ、やっぱり、って。
あとは、楽器の上手い下手って、ちゃんと聞き分けられるヒトじゃないと判らないから、なんでこっちが、あいつ下手だからって敬遠してるのか、普通のヒトには判らなかったりする。そうすると、敬遠してるこっちのほうが、嫌なヒト、変人みたいに思われる、と。仲良くしてあげればいいジャン?とか、なんで文句言ったりするの?って普通のヒトは思っちゃうのよ。単に「好み」で避けてると思われる。誰とでもちゃんと仲良くしなさい、って言われても、下手な奴と一緒に居てもお荷物で邪魔なだけじゃん、と思っても、ばかとかぶすとか言っちゃいけないのと同じように、下手だから嫌だ、と言っちゃいけないような空気なんだ、と。そういうことなんだね。
淘汰がないから悲劇が生まれる。これが東京だったり、あとはネット上もだけど、淘汰がある。淘汰があるのはすごくいいことなんだよね、お互いにとって。でも例えば、淘汰するのが僕しか居ないという状況だったら、淘汰した側の僕が嫌われます。そうしてこのように愚痴っても、ねちねち言うなとか糾弾されますね。それは悲劇だと思う。それはピアノ奏者の彼女と同じ徹だね。
いま音楽について話してるけど、似たようなことはどんな仕事でもあると思うよ。たとえば、何かの飯屋やってて、明らかに不味いわけだが、あそこの食い物はまずい、とか言っちゃいけない雰囲気、ってあるでしょ。それはただ単に好み、ということでなく、同業で飯屋やってるヒトが味見すれば、明らかに「本来すべきことを怠ってるが故、マズイのだ」ってわかるでしょ。でも、周りのヒトが、別にこれでいいじゃん、って言って擁護したら、まずいって言った方が悪者になる。楽器は下手だけど、でもいい奴だし、とか、トルコライスはまずいが、いいヒトなんだよ、とか、そういう価値観の世界では、真面目な追求型のヒトは生きられないんじゃないか、っていうか、孤独になるでしょう、ってことね。
正英さんに突っ込んだヒトは、上手いとか下手とか、いいとか悪いとか、それアンタの主観だろ?って言ったわけだよね。でも違う。ちゃんと決定済みの「絶対値」として「上手い、下手」、という評価があるんだってことだよね。
ご飯なんか、それらしい味がしてて適当にカタチになって出てきたら、別にそれでいいじゃん、美味いまずいって主観じゃん、というけど、ちがうんだ、例えば、そこは「ちゃんと水切りしなくちゃいけない」、とか、そこは「何分、冷まさなきゃいけない」、とか、「そのまずい部分は丹念に除ける」、とか、そういう基本を怠ってるから、不味くなるんだろ?って指摘しても、そういうこだわりの飯なんか、こっちはイラネエんダヨ、と言われたら、そこでおしまいなんだよ、ってことなのね。

こういう話を考えてるといつも思い出すのが、有名なドラマ「北の国から」の「初恋」ね。あれで、大里れいちゃんの父が頑固な設定なんだけど、レオナルド熊に説教するシーンが出てくる。「おめえの土の盛り方はだめなんだ、だから些細な雨でも流されるんだ」みたいに言うわけ。いままで何度も指摘したが直さない、だから自分はもうオマエに協力しない、って冷たく言うんだよね。
そんで、田中邦衛とかが、まあまあ、百姓は助け合いなんだから、とか言うわけさ。でもれいちゃん父は、冷たく去ってしまう。そういう世界。
でも、みたヒトなら知ってると思うけど、この話はオチがあって、大里父がその後、ミスで仕事をダメにしてしまうのね。で、黙って夜逃げしてしまう。自分がヒトに助けられる、ということを良しとしなかったんでしょうね。田舎でひとり突っ張ってると、倒れたときにそうなる。そういうことなんだな。
さっきも書いたが、いろいろ文句言ってるけど、普通のヒトが趣味や手習いでやってることに対しては、僕はそんな非道いことは言わない。そんなこと言ったら、それこそ嫌な奴。笑。そうでなくて、僕が言っているのは、その技術でお金稼いだり、そういうものを目指して行きたいと口で言ってたりする人について突っ込んでるわけですね。
そうして行きたいなら、理想があるなら「今のあんたのそのやり方はダメだ(by 大里れいちゃん父)」と突っ込むってことだよね。本職のヒトからみれば、そいつが、ドコを端折って怠慢で、結果が伸びていないか、判るわけでしょやっぱり。そんで1年経っても変化がない場合、そこは容赦なく突っ込むでしょ。そういうことを言っちゃいけない、って言われても、大里父タイプじゃ、そこは黙っていられないでしょ。
北の国からで、大里れい父が怒ったのは、連帯責任になるからだよね、レオナルドに、オマエちゃんとしてくれ、と。お前がちゃんとしないから、みんなの生産性も下がるし、経済的負担も増えるんだから、と。しかし邦衛は、それを助け合うのが百姓だろ?って言う。
僕が経験したこともすごく似ていて、面倒みてる僕だったり、町全体の印象だったり、関わっている他人にも迷惑をかけるんだ、と。オマエが怠けてるせいで、素行が悪いせいで、こっちにしわ寄せが来るんだ、と言っても、町全体で「そこを助け合うのが、こういう小さな町だろ?」と言われたら、それはこっちが孤独になるでしょ。という話だね。
そんで、世の中的にも、れい父みたいなヒトは正論を言ってるのに、変人扱いされ、レオナルドは(レオナルド、という配役が絶妙)は、人間味があってなんかいい、ってなる。実際、どこでも後者の方が人気があるよね。
れいちゃん父のようなヒトが集まってる場所、例えば正英さんの居る現場や業界では、彼の言うことは正しいかもしれない。少なくとも正論ではある。しかし、そのような発言が、田舎だったり、例えばフラットなネット上でされたとしたら、邦衛みたいなタイプから突っ込まれたり、そういう時代じゃねえんだよ、恐竜乙、と言われたり、どどーっと反応が来るわけだよね。どこかのネット音楽家と正英さんじゃ、まったくレベルも違うわけだけど、そこを同じに並べられて批評されるわけだ。
こうなると、芸術とか研究っていうのは、この時代は生きづらいよなあ、と思う。正英さんも文楽のヒトも似たような立場なのかもしれないよな。と。
でも、適当にでっち上げたゴハンでいいなら、殆どのヒトが、べつにこれでいい、と言ったら、それが正しい、ということになってしまう。不味くても、変わった外観で客寄せして繁盛する店、みたいなことになる。そっちが生き残ったんだから、それが正しい、となる。大里れい父は夜逃げする、と。そういうことでしょ。
しかしね、その突っ込みの意味も一理ある。つまり「そんなやり方じゃダメになる」と嘆く前に、自分が所属する世界の矛盾や不合理について、今まで何か言ったか?してきたのか?ってことになると思うのよね。DL罰則化にしても、杉良ずるい、とか言う前に、正英さんなり誰か偉い人が、杉良アンタちょっと待ってよ、とか言うべきだったわけだよね。しかし言えない。だから自業自得みたいな部分があって、結果的にみんな食いっぱぐれても、よそのヒトには余計なお世話だろ、って話になる。文楽とか、恐竜音楽を守りましょう、って言っても、いや守れない、滅びるんだよ、と僕は冷めてしまう。だって今まで何もしなかったじゃないか、って思っちゃうからだよね。
思うに、世の中のヒトは圧倒的にレオナルドタイプなんじゃないだろうか。正英さんは面倒見がいいタイプだと思うけど、大里れい父は、そうじゃなかった。彼がホントに自分が所属する仲間全体を救いたいなら、レオナルドに必死に個人指導とかすればよかったんだよね。でも、そういうタイプじゃない、自己追求派だったんでしょ。サボってる相手に何を言っても無駄だ、っていう。僕もそういうところはあるだろうね。愛が消えたら、その相手はどうでもよくなってしまう部分がある。僕は「賢者タイム」が長いのだろう。
そうやってゴタゴタしてる隙を縫って、全然別なところから、適当に作っても「ちゃんと」美味い飯を作れる才能が生まれてくるだろう。作り方は適当で常識破りだが、これは美味いじゃねえか、と職人を唸らせるような食い物がね。そういう時代がすぐそこまで来てるんだから、僕は悲観はしてないし、同時に「外観だけで惹き付ける様なマズイ飯屋」みたいなものは、いよいよ淘汰され本当に消えていくだろう。僕はそこまで見えてしまったので、去年あたりまで厳しく言ったわけだよね。でも直らない。だから見込みない、と。知らんと。そういうことだろうね。恐竜の上に乗って楽をしてたような人は淘汰されていく。
淘汰されるのは東京だけでない。ネット上でも。 だから恐竜はネット上で一番最初に追いやられて、生きられなくなっていく。 ある意味、判りやすいのだ。
今までの、というかミリオン時代からの音楽界の感覚。
Led Zeppelin の伝記に出てくるんだけど、詐欺師は、可能なうちに可能な限り早く、たくさん金を集めてしまうのがコツだ、というのがあって、それがロック大産業のマネージメントのやり方だ、みたいなことだったんだけど、つまりどの場合も、逃げ切り型なんだよね。自分がさっさと評価されて、稼いでしまって逃げればいい、と。誰も過去のことは遡れない。「昔の自分はこんなだった」と思い出(自慢)話するとき、それを聴いてる若い人々は、誰もその「過去という現実」を確認することが出来ない。ハッタリで騙した飯屋にしても演奏者にしても、逃げ切ってしまえば、「あの頃の自分はすごかった」と自己申告できる。そうやってみんな生きてきたんだと思うね。儲けた勝ち。逃げたもん勝ち。「三丁目の夕日」生々しいバージョンみたいな。
だからこそ、記念写真のように、実際はどうであれ、綺麗な記録だけ残ればいい、ということなんだろう。僕はそういう写真屋というか、フォトショ屋みたいな商売が向いていなかったんだな。
もっとも「フォトショ屋みたいな商売」というのは、実は元々僕がこっちで目指してた商売だったのよね。結婚式の写真みたいなもの。あるいは、記念にヌード撮る人とかも居るけど、そういう感覚だった。それだけ取ってみれば、それは別に悪いことではない。「記念」だから。いい仕事だと思う。
それをね、悪用されて、悪く言えば詐欺商売みたいなものに使われる、っていう発想は、僕にはなかったのよ。世間知らずだったけど。あくまで「記念」だからそれをやってあげたのであって、その完成品を持って「自分はイケてる演奏家」って吹聴しながら営業始められる(ホントにそう言ってたらしい)ということは考えてなかったの。だから僕は、極端に言えば、詐欺の片棒を担いだことになるわけだね。これは取り返しの付かないことをした、と思った。実際みんなが騙されて、スポンサーになったヒトとか、お客さんとか、みんなが参入してきたわけ。その時点で、これはマズイ気がする、って気付いたけど、もう遅かった。
アメリカのロックビジネス、可能なうちに可能な限り早く稼ぐ。逃げ切る。そういう商売の、すごいミニチュアな稚拙なバージョン、それをされてしまった。その自己嫌悪感が自分の中ですごくて、ダメージが大きかったのよね。そういうことだったと思う。
ただ、ひとつだけ補足しておくと、こういう先行投資なやりかたは、みんながある程度まだ意識が高かった10年位前までは有効だったと思う。最初は「フォトショ詐欺」でいいのよ。そうして時間稼いでおいて、その1年くらいで、詐欺したレベルまで自分が上達すれば、1年後には実態も詐欺のほうに追いついて、詐欺じゃなくなるわけ。例えば、素材がよかったり、素質があったりする子だから、長く面倒みたい、と見込んだ場合、最初のうちはそうして誤魔化しておいて、いつか追いつけばいい、と思ってるわけね。実際、デビューしたてで、すごい下手だったり、垢抜けない子でも、1年2年って経つうち変わってくる、っていうのはよくあったでしょ。お金があるうちはこういう風にやっていた。でも今は出来ないのよ。そこまで待てないし、された側、というか詐欺した方の素材にされた子ね、こういう子も、自分はこれでいいんだ、って思っちゃって伸びなくなっちゃった。それを注意するヒトも居なくなっちゃった。だから、全員詐欺時代。詐欺のまま終わり。それが今だよね。
ホントならそれは、デビュー前にちゃんとしておくことかもしれない。正英さんの時代ならそうだっただろう。そう考えると、先行詐欺でデビューありき、というのは、既に衰退の風潮だったんだろうと思う。
詐欺が詐欺のまま上達せず終わってしまったのって、例に挙げるのもアレだけど、鈴木亜美とかそうだよね。みんなああいう感じになっちゃった。まともなのは「CDで」だけ。っていう。僕はそういうことに加担してしまったんじゃないか、って思ったわけですね。そういうつもりじゃなかったけど、結果的に、ってことね。迂闊だったですね。
まあでもね、こういうことはどこの世界でもあるわけですね。オマケに今は消費者の方が、そんなもんだ、と悟ってしまっている。完全にバカにしてる。だからCDだって売れない、どうせこんなのインチキ、と思ってるか、AKBみたいなもんに嫌悪感持ってるかだから、もう「嫌悪感」って時点で、夢とか売るような音楽の商売はおしまいなのよ。ネタばれしても見に行きたいもの、なんかそうそうないじゃん。相当レベル高くないと。結末知ってるけど、それでも面白いから観る映画、とかってそうそうないじゃん。いまの業界というのは、そういうことになってしまっている、ということだよね。
東京時代のまだ若い頃、同業の友人に、ちょうどこんな風にいろいろ愚痴ってたことがある。そうしたら「あんたは志が高いから、適当でいい、っていってもそれなりに仕上げちゃうけど、他のヒトはそれができないんだよ」って言われて、すごいびっくりした覚えがある。
何度も言うけど、僕はクォリティ主義でもないし、テクニック主義でもない。曲が良ければ、演奏の質や音質なんか問わない、と言ってはいるけど、しかし自分の中の理想レベルが一定ラインあるから、自分はそういう手抜きのつもりでやっても、よく仕上がってしまうんだよ。と。なんか褒められたのかどうなのか、よく判らないことを言われた。
確かに、自分の想像範囲でだけ考えて、自分の好きなようでいいんだ、何でもやりたいことやれ、って相手に言って任せちゃうと、とんでもないことになってしまうことがある。人間は誰でも、自分と同じようには見えてないし、聴こえてないし、考えてないし、歩けないし、ってことなんだろう。僕はそこが、最初のうちはどうしても理解できなかった。おもしろいよね。
ユーミンの「悲しいほどお天気」という曲があって、歌詞がそういうことを歌ってるんだよね。最初内容の意味が判らないままずっと聴いてたんだけど、ある日突然理解できて、背筋がぞぞぞーっとしたことを覚えている。これは恐ろしい歌だって思ってさ。残酷だね。
結局、何か新しいことするんだ、したいんだ!って言っても、「恐竜メソッド」に副ってる限りは、ある一定のレベルまで達してないと「出来損ない」って言われるのよ。自分達は若者で新しいことやってるつもりでも、実際は恐竜メソッドから逃れてない。それでも適当にすればいいんだってやってたら、粗悪品だらけになってしまう。そういうことなの。好きにやればいいって言っても、メソッドにはルールがあるんだってこと。だからそれが嫌なら、新しいことしたいなら、恐竜メソッドに副わなきゃいい。
恐竜メソッドしたいくせに、時間も機材もあって、今なんでも安いし、どんなことでも出来るのに、そこ怠けて出来損ないばかりやってたら、それは突っ込まれますよってことね。
逆に言えば、もっと僕なんかより、はるかにすごく個性と才能があって、恐竜メソッドにも副ってなくて、ある程度の自分の中での理想値を追求できるポテンシャルも持ってる人が、どんどん出てくれば、世の中は変わっていくだろう。そいつらがきっと「別な船に乗ってる」んだろう。
そういえば、有名な「千葉のジャガー」って人が居るんだけど、なんかお金持ってるらしくて、千葉テレビの枠買い取って自分の番組放送したり、音楽創ったりしてるのね。そういうネタみたいなこと、誰でもお金あれば可能になっちゃうでしょ。僕の場合は、それを大真面目にやろうとしたヒトに、その協力者として抜擢された事例、みたいな感じだったんじゃないかなあ。
今だからこうして文句言ってるけど、みんな最初はよかったの。でも1年経っても全然上達もしないし態度も悪くなってくるし、ああダメなんだなこれは、っていうことね。僕もバカなので気付かなかった。そこが僕も舐めてた部分ね。ちゃんと成長して来るんだと思ってったのよ。でも違った。成長したのは天狗意識だけw そういうことだったのね。それで、こういうことは今後、忘れないようにしないと、同じ間違い繰り返すと思ったし、どこかにメモしてちゃんと提示できるようにしておかないと、って思った。こっちのヒトが嫌がっても、それくらいはさしてもらうから、って。言えるのは僕しか居ないからってね。
たとえば今、Ust とかでも、サウンドクラウドでも、一般の若者とかでクォリティの高い音楽するヒトはたくさん居て、そういうヒトは欲もなく「自分のペースで好きにやってるだけっすから」などと言いながらプロ顔負けの曲創ったりするでしょ。そういう人たちが居る一方で、僕の関わった人たちの一部のように、自分らは全然、レベルに達しても居ないのに、町一番イケてるんだとか、すぐにプロになりたいんだとか、そういうタイプもいるってことなのね。そういうことを、僕らのほうも、今後はしっかり見極めないと、ただ利用されてしまいますよ、ってことでしょうね。
正英さんの話以降、こうやっていろいろ考えてるけど、結局、お金ってわけでもなくて、意識なんだよね。
でもじゃあ、その「意識」は誰が育てるのか、って話。
正英さんがこだわってるのは、僕が出来なかった部分、つまり、放っておいても延びるんだ、と僕は勘違いしてたところを、彼の場合は「若者は天狗ですから放置したら伸びません!」とちゃんと判ってて、その指導に時間とお金をかけたいってことだよね。それが師弟制度っぽくもあるし、恐竜メソッドでもある。しかし、若者で天狗だったとしても、才能ある奴や、周りにいい奴が居たら、それは自分で気付いて直せるんだよね。実際そういうヒトもたくさんネット上に居るわけだから。
僕はよくココで、楽器の上達は性格が一番関係ある、て言ってたけど、よほど天才か、幼少時から鍛えられてるヒトを除けば、スナオさとか読解力とか、そういうことが優れてるヒトが、楽器も上手くなるし上達も成長もする気がするね。それは、コミュニケーション能力、と言ってもいいよね。だから、コミュ障は、楽器とか上手くならない傾向が多いかもだね。楽器やってるヒトで、自分がなかなか上達しないと思って悩んでるヒトは、自分の性格に何か問題ないか、今一度見直してみるといいと思う。
感情のない演奏、自分の意思が反映されない場合は、ロボット的に上手くなれるかもしれない、でも、それはヴォーカロイドと一緒じゃん、ということになるねっていう。スクリーンは映されるだけで本音を言わない。ヴォーカロイドは自分の意思で歌わない。そういうことだ。
正英さんは、それでも、そこに一筋の光のような「能力の種」を発見できたら、それを時間とお金をかけて伸ばしたい、そういうシステムを続けたい、と言ってるんだよね。そういう意味では、恐竜産業の終わりは、弱者切捨てでもあるのかもしれない。コミュ障は自己責任でオチこぼれてください、というような。
でも僕も、コミュ障で、性格にも大いに問題があり、キャバレーとホテルを経験するまでは、それは直らなかったんだから、ヒトはどんなきっかけで、どうなるかとか判らないんだよね。だとすれば、恐竜システムの維持に必死になるよりも、もっと別なことも出来そうな気はするよね、というのが、思ったことかな。
ちょうど、正英さんと対談した漫画家さんが、こういうエントリをアップしてた。
http://www.facebook.com/masahidesakuma/posts/341072452635686
考えさせられるよね。
僕の場合、順調だったいろんな計画がつまずいたのは機材が一式壊れたことが大きかったんだった。そのせいで、半年作業が止まったし、請けてた仕事も当然半年出来なかった。これがなければ、もっと言うと「この弱み」がなければ、天狗若者にも、もっと強気で接することが出来たと思う。あれは大きかったよ。作業が止まっただけでなく、それの修理費と新規購入で、数十万吹っ飛んだ。その年、CDの全国リリースもしてたからさ、それも合わせて資金がまったくなくなって、どうしようもならなくなった。
そういうときにね、責めてくる奴も居たりして正直きつかった。外部の依頼のヒトは、しょうがないね、って待ってくれたんだけど、そうでなく、面倒看てた歌手とか知り合いが、いろいろ急かすようなこと言って来て、ただでさえ落ち込んでたところに、追い討ちでさ、オレはなんでこんな奴らの面倒を看なくてはいけないんだ?…って本気で思ったよね。
ディナーショーのオファーもそのときね。これも嬉しくて、これでなんとかCD売って、名前が売れて、還元できればいいと思って必死だったけど、そんでツアーから帰宅したら、あるバンドの裏切りが待っていて、本当に全員「あたまおかしい」と思ったんだよね。
あの1年は、表向きは華やかだったけど、機材は壊れるわ、マックもウィンも飛んでデータ飛ぶわ、内側では最悪だったわけだね。オマケに知り合いの放火事件があって、それまでの交友関係も、チャラになってしまった。人間の本性が見えた1年。
あと、その年は父も倒れたからね。これの精神的な痛手も大きかった。みんなには正直にそれ言ったんだけど、まあ僕自身、そういうことが重なって、それまでみたいな「道楽商売」は出来ない、って思って、伸びない相手のことは「お荷物」に感じるようになってしまったのかもしれない。そうなるともう上手く行かないからね。一方的に相手を責めるつもりは今はないけど、当時は、散々世話したのに…っていう意識はすごくあったよね。むしろ、自分よくやりましたよ、と、当時の自分を褒めてやりたいくらい。だから、そもそも合ってなかったんだよね。いい勉強になった。
そういう経験のお陰で勉強になったから、その後は仕事を断れるようになった。相手を見るとだいたいタイプがわかるようになった、というか。私も成長してますねw いろんな目には遭ってるけど、徐々に方向は定まってくる。この仕事始めて3年位か。まあまあかな。
こっちのジャズ系のヒトとといろいろやってる頃に「恐竜」という概念が生まれてきたわけだけど、自分のネットの文章を見返しても、何故そういう感覚が生まれたのか、今ひとつ具体的に書いてなかった。
たとえばCDリリースの件で、僕がいろいろ出した提案について、相手に提案しながら「こういうのって、キャリアのある人向けじゃない、若者向け、というか、もっとフットワーク軽い人のやりかただよな…」と自分でも思ってた。
やっぱりそれはプライド、というか、一度やったスタイルはランクダウンさせにくいだろうな、と。キャリアがあって、何十年かで確立された、自分ならではの「ちゃんとしたリリーススタイル」つまり、プレスしてキャラメルしてCD店で売って、っていうルーティンを、一度やったヒトは踏襲して続けていくしかないんだ、っていうことだよね。なかなか変えられないんだよ。
僕の12年前のCDにしても、あれは作るのは本当に大変だったし、お金もものすごく掛かったし、12年前だったというのもあるけど、かなりの高いハードルだったのね。で、作った後「今後もこれを毎回しなきゃいけないのか…」って考えたら、ちょっときついよなあ、って正直思った。当時。
幸い時代が変わって、そのすぐあと僕はネットを始めちゃったし、配信でもいいじゃん、とか、CDRでインクジェットでいいじゃん、みたいに思ったりした。でもやっぱり、12年前に一度プレス販売やってるからね、次がCDRとかだと、さまにならない、っていうか、正直カッコ悪いみたいな感覚は最初あったんだよね。そこはジャズ音楽家とやっぱり似た感覚になってしまう。
ジャズのヒトたちの場合は、それがもっと保守的だったというか、新時代のメディア展開や小売スタイルについて、「そういうことは自分の世界の話じゃない」っていう感じがあって、年齢こそ僕と近いけど、そういう考え方とかについては、一世代くらい僕とは違うなあ、って思った。そこをもうちょっと僕も、こうしたほうがいいデスヨ、みたいに引っ張れれば「リニューアル恐竜」みたいになれたかもしれないけど、そこまでのエネルギーと愛情は、正直、あの人たち相手には注げないな、って思った。だから結局、僕は「便利屋」になってしまい、一方的に請け負うだけになってしまって重荷になってしまったわけだよね。そこでお互いが提供しあえるような、コラボみたいな形で組めれば、そうじゃなかったんだろうけど、それは出来ない、と思ってしまった、と。「ゴメンけど、恐竜やん?」みたいなことを思って、自分は抜けさせてください、みたいな結果ね。残念だった。
そう、だから生きてる世代自体が異なるヒト、だったわけ。年齢じゃないんだ、感覚なんだ、っていう。どっちがいいのかね。それは僕は僕のほうがいいと思うけど、むこうにしてみりゃ「子ども相手の商売やってる」ってバカにするのかもしれないし、でも、そのままだと、そっちの船沈んじゃうんじゃないの?って思ったりしてさ、そういう感覚だった。
ジャズもそうだし、いま全体的にもそういう風潮に戻って来つつあるけど、音楽はナマだぜ、ジャズはライブだぜ、とはいうけど、僕としては、レコード(音源という本来の意味での)創れないのは、やっぱり損失だと思うよ、と強く言いたい。しかし「レコーディングよりライブ派」の音楽家が「僕らの仕事の意味」を本当に判ってるとも言いがたく、その深い溝は埋まることもないのだろうという気もする。
結局、正英さんクラスのクォリティでやれないなら、創らなくていい、ライブでいいや、と思うのか、宅録でもじゅうぶんだからこれでいい、と僕みたいに思うのかは、それは個人の価値観だからね、でも沈んじゃうよ?いいの?とは思うけどね。とか言って、こっちが沈んだりしてw まあそこは、頑張るしかないけど。
まあでも、こっちが沈んだら沈んだで、実力主義の時代に完全に戻るんだから、それでいいけどね。僕らみたいな「野良アーティスト」は、そもそも、本格派からは白い目で見られるところから始まってるので、主流になっちゃうと、逆に落ち着かない。いつまでも亜流で居ることの方が「ロックとしては正しい」気はするんだよな。
ただ、ひとつだけ警鐘を鳴らしたい部分は、僕も経験したけど、時代が変わって子弟制、恐竜制でなくなることはかまわないのだけど、そういう垣根を取っ払うことで、それを利用しようとする商売ってのが必ず出てくるからね。
たとえば、稚拙な演奏でも味があっていいねえ、という風潮になると「ああ下手でも構わないのか」と、練習しない連中が出てくる。あるいは、それまで技術不足で水面上に顔出せなかったようなヒトが、出せるようになってしまう。ヘタウマとホントに下手の区別が付かない人々がのさばるようになる。そして、もっと曲者なのは、そういう演奏者を利用して商売にしようという第三者が現われること。これが一番多いかもしれない。炊きつける輩が居るんだよ。そういう輩に乗せられないように気をつけないとね。一瞬の夢を見られたからいい、って割り切れるなら構わないけど、でも、そういうの買わされるほうの気持ちも考えないと。生産者には責任があるんだよ。
結局どの場合でも、理想論が現実として成り立つのは、都会に限る気はするよね。地方には、それを利用したハンパ物が表に出やすくなってしまうだけなんだよね。そういうのを僕は「劣化コピー」と言ってたんだろうね。
結局は淘汰と意識。結局「自分」じゃん。っていう。
ロバートフリップの言う「小さくて小回りが利く個体」の時代が、もう来てるんだろう。