2011年8月 1日

音楽について「語る」と言うこと

過去ログも佳境になってきている。ちょうど半年くらい前に、とある「強力な出会い」があったからだね。

この土地に来てからというもの、たくさんの「音楽家」に会ったけども、ちゃんとした音楽の話が出来たためしがなくて、こっちには、そういう話が出来る相手なんか居ないんじゃないか、と半ば絶望してた4年だった。そんなこと思ってた時に、すごい偶然で出会えたので、これはもう運命だったとしかいえないだろうな。

ということで今回は、作曲家ツツミさんの事を語っている。


ツツミさんはウタダをすごいって言ってたらしい。僕はどうだったか?と尋ねられたので、単純に歌をコピーして歌おうと思って出来なかったので、難しい悔しいと思った、と応えた。

ツツミさんは完全に仕事と割り切り「自分の音楽」というものをした事がない、言っていたらしいのだけど、僕が聴くと全部ツツミさんのメロでコードなんだよなあ。それを「計算で」やっていたと言うなら、じゃあなんで全部好みだったんだろう?という疑問がわく。僕の好み=大衆の好みだったってこと?

ぜんぶ狙って、あのコードとメロだったとすると、それはそれですごい。「気持ちいいから」ではなく「これが受けるから」やってたってことだよね。ポテンシャル高すぎだよね。

僕は自分が気持ちいいことしかやってない。そういう意味では僕は、職業作曲家が計算で生んだ音楽を気持ちいいと感じ、再現して浸ってるってことでしょ。結果的に、自分は気持ちいいが作品として職業的に成り立ってもいる、という音楽になってると言う、不思議なことなわけだな。面白いよな。

そうすっと、以前ここで言った、作家の気持ちにリンクする、というのも勘違いって事になるだろう。ただの片思いだ。でも表面上は違いが判らないのだ。

まあただ「気持ちいい」にも種類があるからね、音として気持ちいい、仕事として完成度高くて気持ちいい、人が簡単に演奏出来ないの書いてざまみろと思って気持ちいいw とか。どれでも「気持ちいい」ことにはかわらん。

話変わって、レノンブライアン流派、マッカ筒美流派、というのがあるって話があって、それは拓郎流派と陽水流派との違いにも通じて、というような、暗号のような会話もした。

ツツミさん、拓郎のこと一目置いてたらしいのだけど、それは同じ流派だったからか、違う流派だったからなのか、ぼくらは意見が分かれた。


意見が分かれた、で終わりになってるけど、この後ちゃんと本人の話を発見して結論が出てる。私も意地悪だから、ここには書かない。読んだ皆様で考えてみてはいかがでしょう。笑。

作曲と言うものは、もちろん仕事でもあるけど、ある種の美学だと思っていて、それはある領域まで達することが出来た者だけが、楽しむことの出来る「至高の嗜み」みたいなものなんだよね。優れた職人芸であり、計算しつくされた仕事であり、極めて数学的なものである。声を出して何かの啓示を待ってたところで、いい音楽など出来やしないのだ。

もちろん私だって、まだまだ極めてない領域。今後も目指し続けるんだよ。もちろん。

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2011年6月16日

無理解の空しさ

ちょっと昔のポスト見てたら、こんなのが出てきたのでメモとして残しておく。


昨日ステージのあと、ある方と偶然会い深い話をしたのだが、僕の作風とアーティスト性について実に的確に言うのですごいびっくりして、自分の活動や考え方は正しいんだなと自信がついた。

21世紀に入って、僕に迷いが出たのは、マルコポール(ベスト盤)の時にすごい叩かれたのが原因だったわけなんだけど、別に僕のやり方は間違ってない、と言ってくれたのはカナリ大きかったな。そうして到達する考えがまたしても「普通の人は放っておけ」であった。うん。負けへんで。

マルコポールの時に辛かったのは、同世代とそれ以上の人たちからすごい叩かれたことだった。別に若いヒトや普通のヒトに叩かれても叱咤激励に思うだけだけど、同世代には共感して欲しかったから、それをまったく得られず「いい年して何やってんの?」的な言われ方をしたことには本当にショックを受けた。

おまえらこういうの好きだったじゃないか?どうしたんだよ??っていう感じ。あと、メジャーリリースのあとだったのに、いつまでも芽が出ず夢を追って足掻いてるのね…、みたいな哀れみ直言すらあった。この経験以降、同世代以上の人々とは一切付き合わないようになったのよね。

全員にあまり反応なかったなら自分の実力不足だと思える。でも1世代下とか若いコにはすごい喜んでもらったんだ。だから、硬化した心と耳には僕の音楽は響かないんだって、なんか世代に対する絶望感みたいなこと思ったのよね。

まあその叩かれた経験もマイナスばかりじゃないよ。その後、どの方向からどんな叩かれ方をしても大丈夫なように耐性ついたから。これはアーティストとしてとっても重要なことじゃないかなあ。

Zeppelin研究もスペクター極悪人論文もそのためにある。自分の周りに要塞を構築したわけだよ。てめえらなめんなよ、が全ての原点。今ラジオ二つやってたりするんも全部同じ。全方向からの攻撃に備えてるわけだね。

その深い話をしてくれたヒト、ストンズと僕を比較してたのが結構面白かったなあ。80年代頃ヒヨったりワンパターンな事を揶揄するヒトもいたが今はそんな人いないでしょ?って。僕のことも、そういうことでしょ?と言ってたんだね。うむ。

しかもその人は僕と同世代だった。同世代で同意見のヒトに出会えると、すごく心強いね。



いい話だな。
オレにはオレの「一芸」があるんだよ。
負けてたまるかバカやろう。って感じだね。

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2009年10月15日

読者という神からの自立

批判は人を育てないのでしょうか。

しかし、褒め言葉だけありがたがってたら、周りはイエスまんだらけになり
裸の王様になってしまうかもしれません。

山田ズーニーさんのコラムがその辺を見事に書いてくれています。
必読なり。
http://www.1101.com/essay/2003-06-25.html
http://www.1101.com/essay/2003-07-02.html


そんなこんなで最近、この辺のことをいろいろ考えてたとき、

ふと昔のあることを思い出したのです。

僕がドラマーから歌う人になって、一番最初にプロの批評の対象になったのは
ミュージックマガジン誌上だったんです。

僕のインディーの音源がレビューされて、そこで批判されたんですよ。
もちろん、読んだときは凹みましたし、こいつ何も判ってねーよ!

などと思ったんですが、でも言ってることは外れではなかったんです。

それでその後、その批判を参考に、その後も作品を創り続けました。


表現者であり、作品を公に発表した以上、
あらゆる批判も受ける覚悟はいるでしょうけど、
全部を丸ごと引き受ける必要なんか、まったくなくて、
自然のウチに取捨選択して自分の糧にしてるんだと思いますよね。


僕らは「産む人だよ!」と、レーベルの仲間にはいつも言っています。

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2008年8月21日

それを生んでいるのも人間である、という想像力

せっかくの機会なので、この件に付いて記しておく。

これは日本人特有のメンタリティなのかどうか、オレには知る術がないが、確かに、ある時代までは、自分の好きな対象を「貶しながら褒める」という評価の仕方があったと思う。それは例えば親しい友人に対して「こいつはもう変態だからさ」とか半分からかいながら人に紹介する、といったものだ。それは実際は褒めたいのに素直に言えない、というような照れ隠しだったり、親しい仲ならではの遠慮のないやり取りだったりするのだが、そういう価値観って一世代前の感覚だよなあ、とも思う*1

一昔前までのポピュラー音楽評論にも、このような風潮があった。音楽家の、表面上にみえる何かの行動の奇抜さや、作品の中に見出す不整合性などといったものを抽出し、それらを晒しながらも「だがそれがいい」と表明するやり方だ*2

こないだの鬼束さん記事を見たとき、オレは即座にブライアンウィルソンを思い出した。言うまでもない。ビーチボーイズの創立者だ。彼はロックスターとして生きるにはあまりに精神が繊細だった。ゆえに、あのような死ぬほど美しい音楽を生むことも出来たのだが、引き換えに精神に破綻をきたしたのだ。彼の危行は虚実ない交ぜにされまことしやかに語られた。数々の文献を読み返すと、それらの原因は、回りの無理解にあった、と今になって判る。繊細な芸術家であるが故の発想や危行(と呼ぶのも好きじゃないが)を、正面から向き合い理解しようとせず、「さすが天才は考える事が違うわ」と、ある種、紙一重的に扱い、決め付けることで、こちら側への侵食を阻止する。それは実質的に受け入れ拒否でもある。それによって、どれだけその相手がダメージを受けるか。また、その決め付けは、自身の思考停止でもある。考える事が難しいから、「こうである」と決めることによって、その先の深追いをやめてしまうのだ。

一般的音楽ファンにまで、それを背負わせる必要はないと思うし、音楽などもっと気軽に楽しむべきものだ。しかし、音楽に携わったり、それにまつわるメディア、という、クリエイターに極めて近い位置に居る方々が、そのような排除的な発言を行う、ということは、個人的には、不用意で配慮に欠ける行為、とやっぱり思う。彼らは一般人ではない。選ばれて、あるいは、自ら選んでその職に就いている。つまり、そういう立場の人間であることの責任と義務が生じるってことなのだ。

音楽家も芸術家も一人の人間である。自分も同じ人間であるなら、すこし想像力を研ぎ澄ませれば、その相手を理解できないはずがないのだ。いや、結果的に理解できなくても良い。でも判ろうとした、という努力の痕跡は示すべきじゃないんだろうか。

もうひとつ。「作品」というのは、その辺の石ころみたいに最初からそこに転がっているものではない。たとえば、しつこいようだが「サンマは漁師が採って来る」というのと同じ。作品を産んだ人間がいる*3。人間である、ってことは自分と同じように傷ついたりするってことなのだ。人は常に理解者を求めている。自分は誰からも理解されない、と。そうして孤独になってゆく。そういった気持ちが良い作品を産んでゆく原動力になる、というのは、それは確かなことではあるんだが、それでも、いま自分の目の前に居る記者なりインタビュアに「壁を作られた」と感じ取ったときの、この疎外感はどれだけのものか。また先に書いたような、落として持ち上げるようなやり方が(たとえ善意であっても)、どれだけアーティストを傷つけるか。そして、そこから生まれた感情は当事者間だけでなく、あらゆる人に伝わってゆくのだ。何故なら、それは誰もがみんな共通して持っている感覚だからだ。

少なくともそこまでの想像力を働かせる事が出来る人でなければ、メディア関連の仕事に携わる事などできないのではないか、と強く思うのである。

今のブライアンは、幸いな事に正当に評価されているし、理解してくれる友人仲間に囲まれて穏やかに精力的に過ごしているようだ。しかし、ロックポップス界全体を思うとき、そういった例は少ないほうだと判るはずだ。ブライアンはあれでも、愛される人に恵まれていたほうなのだ。60年代のアメリカ。そして今の日本*4。同じ轍を踏まないよう、日々心がける事は出来ると思うよ。


関連エントリ

「悪気はない」ことの罪深さ

*1:この系列で、オレが個人的に一番嫌いな言葉は「愚妻」である。「亭主」が「嫁」の事を「うちの愚妻が」などという。へりくだってるつもりなのかも知らんが、この極めてデリカシーのない表現は、現在最も通用しない価値観だろうと思う(同じような理由で「俺の嫁」という表現もあまり好きではない。ネタならまあ目くじら立てないけど)。
*2:このような評論の仕方が、いったいどこから始まったのか、昔いろいろ考えた事があるのだが、音楽がジャズ→ロックンロール→ポップスと進んでくる段階で増えてきたように思う。クラシックが見事な職人芸&高度な専門芸として成り立っているのに対し、ジャズ→ロックンロールっていうのは大衆音楽なので、確かに稚拙だったり親しみやすかったりした。要するに突っ込みどころが有ったのだ。新規参入評論家の付け入る隙ができたということである。評論のハードルが、上記で示した矢印の流れに沿ってどんどん下がったのではないかな、と。
*3:この件は以前ここで書いてる。正確には「産んだ」という風にはオレは捉えていないのだが、ここでは便宜上そう書く。
*4:岡村ちゃん…

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2008年3月30日

歌なんだから語りかけるな。

これはもう昔からの僕の個人的趣味なので、しょうがないので許してほしいんだけど、ともかく、歌とか音楽というのは、歌や音楽である以上、音楽として成り立たなければ存在の意味がないと考えている。

だから、語りかけるように歌う、とか、言葉が染み渡る、とか、そういうジャンルの音楽(って言えるのか?)が大嫌いだ。よくいるでしょう。どっかの田舎に行って大自然の中でアコギで歌ったりする人*1

たとえば歌を歌っている人に対して、詩がいいとか言葉がいい、という褒め言葉は、それはイコール曲はつまらない、と言われてるのと同義だと捉えるべきなのだ。そんな褒め言葉は文芸の分野なんであって、僕にとっては音楽に対する褒め言葉ではない。
そういう事を重視するなら、例えばトラックだけ流して朗読とかラップにすればいいだろうと思う。その言葉にメロディが付いてる理由を考えてほしいのだ。歌というのは総合芸術。言葉とメロディと和声進行による感情の動きが、すべて見事にリンクしたときにだけ起こる相乗効果のリアリティ。そのどれが欠落しても音楽とはいえない。

音楽を創っている、と自負するならば、言葉に費やす時間とエネルギーを、ちゃんとメロディと和声進行のほうにも費やせ、サボるな、と言いたい。そうしてサボった結果、完成度の低い楽曲になってもそれ自体は自己責任でしょうがないけど、それを持って歩いて、路上だの慰問だので、弱者に媚びたり押し売りするなと言いたい。

アーティストみたいな人を見慣れていない、そういった音楽弱者な人々は、目の前で目を見つめられながら「語りかけられる」ように歌われると、「素敵…」って騙されてしまうだろうが。極めて卑劣なやり方だ。

なぜここまで厳しい事を書くかというと、それは、その手の方々が絶対に手を抜いていると確信するからである。何度でも書くが、これは「音楽」なのである。朗読ではない。歌詞に費やすのと同じだけの努力と時間を、音のほうになぜ割かなかったのか。それができないのなら、なぜコラボレーションなり共作者を見つける努力をしなかったのか。それはメロとか音楽というものを舐めてるのではないか。適当に音程の高低が付いていて、あとはパフォーマンスや歌声でごまかせば、楽曲「風」なものになるだろう、的な傲慢さがなかったか?

そういうことは中高生にのみ許される事であって、いい年をした大人のやることではない。音楽と言うのは、そういった傲慢な人を惹きたてるための道具ではない。そういう行為を日々犯しながら、「音楽とは音を楽しむ事だ」などと詭弁をほざく人は、全員音楽の前にひれ伏すべきだ。

*1:一応断っておくけど、そのジャンルでもプロの人はちゃんと、それなりの完成度あります。

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2008年1月18日

「萌え」でオタクが「イタリア人」化される件

ちょっと前だが、id:ymScott氏界隈で「萌えってのはつまり性的に欲情しているってことを言い換えてるだけでは?」みたいな話題を読み、なるほどと思っていた*1

僕が思うに、「萌え」っていうのはオタクジャンルの人たちに与えられた、初めての「欲情語彙」だったんじゃないかなと思う。

以前ちょっと九州男子の事を書いたけど、古来「男」という動物は、異性を見れば欲情するものなのであって、街角だろうがバイト先だろうが、良いと思ったら「よーネエチャンいいねー」とか言うのが男らしいみたいな風潮が確かにあったよな。

最近ケーブルで昔のドラマたくさん見れるじゃん。「俺たちの旅」の中村雅俊氏とか「探偵物語」みたいなのとか観てると、なんか主人公みんな普通に、街角の女性のオッパイや脚眺めて「イイね~」とか言ってるんだよな。今じゃありえんよな、と思ってちょっとびっくりするよね。中村雅俊氏の視線ってのは普通にエロいんだけど、まぁ個人の好みとは思うけど、彼のキャラのお陰で、それほど不快感も感じないように上手く作られてた気はする。

こういう風に単刀直入に欲情するのって、昔はある一定のキャラ以上の人とかに許された行為だったと思う*2。それがだんだん普通の人でも、そういうこと冗談で言ってもいいんだ、という風潮になってきて、そんでセンスのない人が大量流入、冗談と思えないような引かれる言い方をしてしまい、結果セクハラみたいになってるんだろうと思う*3

「足を見るオジサンはチカン」

この事件なんか、それをもっとも端的に表してるじゃん。

所謂オタク系の人って、そういうことを本来いちばん言ってはいけないジャンルの人たちだった。これは自分もそうだったから判るけど、なんか生理的にキモイんだってうのはよく判る。オレも中学時代とかはよく言われたよ。気持ち悪い、観るな、触るな、とかですよ。「あの子かわいいよね」とか言ったらクラスじゅうドン引きですよ。可愛いと言われたほうはその日から同情の対象ですよ。何にも悪いことしてないのに、ってw


「おーネエチャンいいねー」という言葉を持たず、ヒュ~ヒュ~と口笛も吹けず、ジトーーっと眺めるだけで行動もせず、その不気味さに気持ち悪がられる、という不遇な市民生活を強いられてきたジャンルの人々に、初めて与えられた言葉「萌え」。やっと独自の言葉が生まれたってことか、と。感慨深いわけです*4

こうして、キモキャラの人でも、とりあえず「萌え」とか言っておけば、いくらジトっと脚見てようが何してようが、その場は取り繕えるようになる。挙動不審がられることも少なくなる。そんな、新式の処世術みたいなものだろう、と。

こうなると10年後くらいの会社の宴会がたのしみですね。空気読めないおっさんが、若い子相手に「き、きみって萌えだよね、ッヒッヒ」とか言ってセクハラで訴えられてる場面が、ものすごく想像つくんですが、どうでしょうか。



関連
:「足を見るオジサンはチカン」…アイドル「AKB48」大島ブログが大炎上

追記。
発信元のほうで話題が広がっていましたのでリンク。

・・・何でオレが「萌え」について語ってんだ。 - Scott’s scribble - 雑記。
「萌え」って何?という話 - 5100度の炎

確かに元々はこういうことだと思います。フェチと紙一重な感じではありますよね。

*1:始まりは初音ミクの話題からだった
*2:スケベをエロに見せる才能とか、或いは元々かっこいいとか、或いはイタリア人であるとか
*3:それをセクハラと感じるか否かって言うのは、やっぱり「そのやりかた」だと思うから(2015年追記。当時の見解です)
*4:2次元のことについては今回敢えて触れなかった

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2007年12月15日

音楽にも読解力

たまたま昨日、某所でこういう議論をしてたところに今朝になってこれ。ちょっとびっくり。

リアルとかリアリティとか - 玄倉川の岸辺

ここでも過去ログでも散々書いてたけれど、何かの情報は誰かの口を通して聞いたという時点でオリジナルではありえなくて、だからこそ「元はどれだ?」と探し続けるのである。


そしてそれは音楽も一緒である。何らかの曲を書く場合、その進行やらメロディは、もちろん作家である自分が構築するのだけど、「こう行くべきである」という、それこそ「空気」というものがあって、その音楽の空気に沿って構築されるのがいちばんキモチイイのである(それをあえて裏切る展開もまたキモチイイのである)。

ほとんどのコード進行とメロディと歌詞が出尽くした今。純然たるオリジナルなどありえない。ほとんどの今の音楽はその構築美とか並べ替えの技を競っているものだと思う。

そんな既製のコピーばかりの音楽など意味があるのか?と言われるだろう。

オレにとっては意味はある。

作家がどのような音楽環境に育ち、今どのような気持ちで音楽を発してるのか。作家が構築したその音楽を聴くことにより、それがリスナーに伝わる。メロや歌詞の中に「ニヤリ」とする部分を発見し、ははーなるほど、と思う。もっと判りやすく言うと「こいつ、あれのファンだな?」と判ってしまうことが楽しいのである。

音楽にとっては、シンガーやプレイヤーはメディアである、と何度も書いた。作家の構築したメロを他人が歌う、というその時点でシンガーの主観や癖が含まれることになり、既にオリジナルではなくなる。プレイやアレンジにも解釈が加えられる。そうすると、作家の意図したままのオリジナルで公開されるということは不可能になるのだ。それはしょうがないことなのであるが、だからこそ「より優れた再生力を持つメディア」であるシンガーやプレイヤーを探すわけだよね。その音楽にとってその表現は明らかに不要、と思われるような蛇足的表現を加えるシンガー、プレイヤーは音楽にとっては邪魔なだけである。

これは実は作家でも一緒で、何かの曲が生まれる場合、その根底には必ず何らかの「デジャヴュ」があるのである。音楽は全て既存の音列の組み合わせで出来ている。作家の脳内で舞っている、それらの音列を、その時の気持ちで掴んでゆく。ポンと掴み卓上に置き、またポンと掴み、卓上へ。数が揃ったらパズルのように並べ替えて磨き上げる。その際にだ。そもそも今回脳内に沸いた音列はどうなりたかったのか。「きみ等はどうなりたかったんだ?」と厳しく自問自答するのだ。そうしてあるべき姿を再構築してゆく。「あるべき姿」ってのはね、どこかに必ずあるんだよ。自分の脳内かどこかの本の中か、或いは街の商店街の通りにか。そうして本来の姿に戻してあげる。それが作家の役割だと思う。

何かの表現には何らかのデジャヴュが必ずある。だからこそ共感や反感があるのだ。全ての場合において、オレが聴きたいのは、見たいのは、読みたいのは、そのデジャヴュの裏に隠された「本当に言いたいこと」である。それそのものは創作だろうがネタだろうが一向にかまわないのである。言葉の裏、言い回しの尻…。眼に見える情報の全てから、五感を最大限駆使し、オリジナルの書き手が脳内で描いていたオリジナルのしっぽを掴む。その表現されたものに準えて書き手が本当に言いたかったことを探すのだ。

だから、それが何も感じられないものに対しては激しく嫌悪感を抱く。たとえば文章を書くための文章とか。てめえ指の運動でドーパミン分泌させてんじゃねえよ、みたいな文章。

オレの15年前のアイディアメモノートにこんな言葉があった。「あなたとわたしの脳が直結してたら」表現で悩むことはないのに。

永遠のテーマだな。

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2007年11月11日

本当の言葉を見抜く

長いことメディアを見続けて、なおかつ言葉を紡ぐような仕事に携わっていると、言葉の裏や奥にある本音を、自ずと求めるようになってくる。

勝手な自論だが、80年代中盤以降産まれの若者は、自分を一番魅力的に見せられる「決めフレーズ」に長けている気がするな、と思っている。生まれたときからビデオカメラが身近にあったので、動画の被写体として撮られ慣れているからだろう、と理由を勝手に想像している。

ビートたけしはツービートで、それまでのメディアや世間の「お約束」というやつを片っ端から破壊した。刑事ドラマも青春ドラマもすべてパロディやお笑いのネタになり、真面目に捉えられなくなった。しかし、80年代中盤のバブル文化で、また別なスタイルの「お約束」が生まれてしまった。クリスマスには彼女とホテルで、とかそういうやつだな。

現在の文化は基本的にその流れの延長上にあり、誰もが知らずのうちにその「お約束」の下で生きている。その場その場で、その空気を読んで行動している。たとえその場に自分以外誰も居なくとも、まるで上から誰かが見ているかのように、あるいはひょっとしたら「ドッキリ」なんじゃないか?と疑うかのように、いつも誰かの視線を気にし、客観的フレーズで行動し続ける。自分の行動を他人の行動のように、人に説明する。

オレが人に求めるのは「本心かどうか」だけだ。装飾過多の言葉など要らない。何度も言っているが、意味があるのは「たとえ稚拙でもオリジナル」なものだけだ。言葉でも音楽でも同じだ。スカウトとして人を見つける際も重視するのはそこだけだ。言葉だけは決して嘘を付かないのだ。


ということで長くなったが、これの件でちょっと書いてみる。

まずここから行こう。久々の「玄倉川の岸辺」氏だ。彼のブログと出会って3年ほどになるだろうか。休むことなく書き続けていた。そして今回、久々に琴線に触れるエントリがアップされ、思わずコメントした。読んでもらえれば判るが「久々の玄倉川節」だと感じた。さらに、彼が被TB先で残したコメントも紹介する。まずこちら

それならなぜidiotope氏に批判の矛先を向けたかといえば、上に書いたように単純に不快だったからです。

それからこちら

私が嫌いなのは自意識過剰な誠実ぶりっ子です。それをjo_30さんが「妬み」「いじめ好き」と見るならそれでもかまいません。

これはまさしく彼の本音だ。内容の是非ではない。本音かそうでないか。それが重要なのだ。ネット上というかブログで、ここまで単純明快に本音を述べた文章ってのは久々に出会った。それが玄倉川氏だった、というのも意外というか嬉しかったというか*1

付け加えておくなら、騒動の勃発点、というのも失礼なのだが、hashigotanさん(現在閲覧不可になっている 復活したので参照記事変更→)のこのエントリも満身で本音を訴えている*2。これも是非ではなく、本音であるかそうでないか、が重要。

ということで、ここに戻る。正直な感想を言うぞ。「なにこれ??」。

支離滅裂でも文脈破綻でもいい。その嬉しさを満身で、率直な言葉で表現していたらここまで叩かれてないと思うがどうかね?

ある年齢以上になると自分は冷静沈着でなきゃいけない、とか思うのか知らないが、過剰に客観的になる傾向がある気がする。日頃ベランメエ口調なくせに喧嘩になると急に丁寧語になったりする奴がいるが、いや、実はかつてのオレもそうだったが、そんな客観的言葉なんてのは今どき人の心など打たないのだ。


以前ここでさりげなく書いたが、「なかなか自分を解放できない、というこの自分の特性は、音楽家としては致命的欠陥のひとつではないだろうか?」、というコンプレックスを長年持っているオレは、本音全開で感情をぶつけている表現に出会うと、内容はともかく、無条件にリスペクトしてしまう傾向にある。
この一連の出来事で、いちばん無責任に楽しんでる人間はこのオレである。誤解を恐れず言うと、個人的には誰が傷ついたとかほとんど関係ないのだ。ただ、表現として優れているか、オレの琴線に触れたか、それのみで捉えている。

オレはかつてバンド仲間に「アンタは恐ろしく冷たいな」と言われたことがある。対象への興味が冷めると、さっさと離れてしまうからだそうだ。バンドメンバーも、バンドに不利益と思ったら無条件に切った。情などない。常に優先するのは「自分の音楽の成就」のみ。それを阻害するものは悉く排した。今のオレのレコーディングは、打ち込みも含め、ほとんどが自分による演奏である。人を使うということはメンドクサイ。説明して理解を求めるより自分でやったほうが早い。それでも、非常に優れてたメンバーとの出会いも、少ないもののいくつかあり、今でも彼らには「ここぞ」という際に手伝ってもらう。彼らはありがたいことに、気質もオレと似ており、お互い距離を置くことに非常に長けている。お互いを繋いでいるものは何か、ということをちゃんと知っている。お互いに甘えたり寄りかかったりしない。超インディペンデントな表現体どうしなのだ。

エントリに頂いた、

彼のために一生懸命弁護したり怒っている人がいることを「いいことだ」と思ってます。

というコメントを読めば判るように、こんなオレに比べるとid:kurokuragawaの人ははるかに良い人だ。そしてブクマコメントにあるように、

「hashigotan 被言及 kanimasterさんへの記事は今は言い過ぎたなあと反省しています。いい親父さんのようですからね」

hashigotanさんの人も良い人だ。どちらのコメントからも、その攻撃的言葉の裏にある本来の優しさみたいなものが垣間見れる。

これらコメントで判りやすくはなっているけども、前回取り上げた、オレが「これは本音だ」と言ったそれぞれのエントリでも、言葉だけでは一見そうは見えないかもしれないけど、この方々の優しさというものが、それとなく伝わって来た。玄倉川氏のほうはどうだか判らないけど、hashigotanさんは、あの文章を、或いは騒動の発火点となったこちらのほうも、恐ろしい速さで打ったのではないか、と想像した。だから躊躇とか一切感じられない、直球な言葉になっていて、だからこそオレの琴線に触れたのである。

6年ほどネットや電子掲示板界隈をウォッチしているオレだが、最近の「美談」「美文」を絶賛する傾向は、別な意味でのウヨ化なんじゃないかと思って、非常に危惧している。まだ「全米が泣いた」と半分茶化してるうちはいいが、本気で「泣いた」とかいうコメを読むと「じゃあその顔アップしろや」と確かに言いたくなる。「お茶吹いた」と同じで、実際には吹いてないのだろうが、「お茶吹いた」には素直に笑えても、「泣いた」には騙されない、と逆らう自分が居る。
荒唐無稽なことだろう、と思いつつ、実は誰か黒幕がいるのではないか、と疑心暗鬼な自分が居る。「電車男」は壮大な実験だった。これでネットの奴らは簡単に騙せるな、と味を占め、奴らは次の段階に進んだ。「美談」で愚民を掃除してしまう作戦だ…。

はは。まぁオレの想像であってくれることを願うよ。

ともかく「全オレが泣いた」→「全ネット住民が泣いた」→「全日本人民が泣いた」にならずに安心した。

そして、未だ自分に、こんな感性が残っていたことを気付かせてくれた玄倉川氏hashigotanさんには感謝したい気もするし、叩かれること覚悟で、ブログというメディアで本音を書いてくれた、その勇気、というか、その「空気の読まなさぶり」にも敬意を表してみようかな、と。


追記。
似たような視点の方が居られました。

2007-11-09 - 萌えるローマ帝国HAPPYMAX

なんだか救われる感じがしますね。


*1:「私の気に触ったのは、idiotape氏の語り口が「誠実さの衣をまぶした武勇伝」になっていったからです。」これもいいね。
*2:まさにロックだ。

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2007年7月10日

人生は言葉に引っ張られる

オノヨーコ氏が昔言った言葉の意訳です。

暗いこと、悲しいこと、ネガティヴなことを口にすると、
実際にそのような世界になってしまうから、
極力言わないようにしている、ということです。

たとえば、とっても疲れたときに
「疲れた」と実際口にしてしまうと
本当に疲れてしまった気がする。

言わなければ耐えられる気がする。

つらい、も、悲しい、もそう。

逆に嬉しいとか楽しいとか。
こういうことはどんどん言いたい。



昔ここで書きましたが、
歌詞を書くときにはそれを強く意識してる。

言葉を選ぶ時に否定的な言葉とか
あとは、断定とかも避けるかな。

し、

あとは、自分の言葉で書くようにもしてる。

たとえば以前書いた例では
なんとなく「年の瀬」と書いてしまったが
嫌だったのでリメイクで「年末」に直した。とか。

歌だけで使うフレーズとか、
小節めいた言い回しとかなんか嫌なんですよ。

自分が実際に話すみたいに歌詞を書きたいわけです。

どっかから引っ張っては来ない。
自分が実際にそう言うかどうか。

これが大事なのです。

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2007年4月10日

遠まわしな自分語り

直感を信じる

自分を信じる

好きを貫く

人を褒める

人の粗探ししてる暇があったら自分で何かやる


直感を信じろ、自分を信じろ、好きを貫け、人を褒めろ、人の粗探ししてる暇があったら自分で何かやれ。 - My Life Between Silicon Valley and Japan

梅田望夫氏の記事がきっかけで盛り上がっている最近のポジティヴ談義でひとつ感じることがあるのでメモ。

堀江氏の話題の時に少し触れたが、オレの父親は大変厳しく家庭内では絶対君主として君臨しており恐怖政治を行なっていた。理不尽だと思っても、逆らうことも口答えも言い訳も許されなかった。「父親」、そして「大人」という立場を最大限利用し権威への盲従を強制した。
それでも、こちらが成長してくると父親の言うことの矛盾点などに気付くようになる。また、そんな家庭内の状態は異常である、ということにも気付く。しかし自分の言動だけでは相手を屈服させることは不可能だった。相手を言い負かすには、それ相応の説得力や裏づけや確固とした信条が不可欠だったのだ。そこでオレは音楽やら書籍やらの中から、そうした確固たる裏づけに役立ちそうな文脈とか発言などを、自然に探すようになった。自分は間違ってない。間違ってるのは相手である。でもそれを証明できない。自分の拙い意見だけでは相手を納得させられない。
だから人の手を借りたのだ。ほら。こんな人もこんなことを言ってる。彼もそう書いてる。さながら当時の自分は「アンチ権威ポータル」化された存在となっていただろう。それはもちろん父親だけではない。似た気質を持った知人、教師、上司など、様々な交友関係に及ぶ。このような人間は自分だけではない。似たような厚遇の人間は他にも居る。似たもの同志は群れる。アンチ権威の徒党状態。こうして20代になった。 そこで、かのジョンレノンの発言「泳ぎ方を習ったのなら泳げばいい」にぶちあったのだ(真意は「水泳のコーチは泳ぎ方を教えただけ。習ったなら泳げばいい。コーチを崇め続ける必要はない」という感じ。暗殺直前のラストインタビューで発言。~補足。アーティストを崇拝し追いかけたりするようなロック界の風習に憂慮したと思われる発言。重要なのは音楽や言葉そのものであって、それを発した人間のほうに気を取られるべきでない、ということ。)。
必死になって探し集めた「アンチ権威アーカイブス」。その中に答えはすべて書いてあり、その後の自分の行く道のヒントも呈示されていたのである。オレのやることはこれらを人に広めることではない。そこに書かれた数々の至言、名言、方法論を元にし、自分の道を歩むことなのだ、と。そうしてオレは「アンチ権威ポータル」の管理人的状態から開放された。オレにとってそれは宗教であり、自分の意見に箔をつけるお守りだった。そばに居てくれると安心する「アンチ権威」用心棒だった。他人の意見に乗っかり、それを振りかざして相手を言い負かす。自分もいつしか権威を求めてたのだ。今こうして「ポジティヴ」談義が盛んであるのも、日々自分の日常がポジティヴではないのではないか、という恐れがそうさせるのであろう、と。じわじわ押し寄せる「ネガティブな誘惑」との戦いと葛藤。そんな日々に疲れた彼ら。そんな彼らが梅田氏の「ポジティヴ論」という絶好の味方を得、逆襲に出た、と考えると面白いではないか(僕自身の葛藤はこちらのコメント欄で。→Scott’s scribble - 雑記。 )。


さて続き。オレが音楽で誰かに何かを伝えたいと思ったとき、その対象はやはり自分に似た人ということになった。彼らは(即ちかつての自分も)他人の言うことなど滅多に聞かない、ということが特徴。正しいのはすべて自分であり、下らんお前の意見など聴く耳持たない、という一貫した態度。こんな人に自分の意見を聴いてもらうのは容易いことではない。しかし伝えたい。多数の習作、駄作の製作を経て辿り着いた、オレなりの歌詞推敲の方法論。

命令形をつかわない。

必要以上の要求もしない。

押し付けない。

人称代名詞を極力使わない。

そして。自分語りをする。

…だった。

ここで何度か言って来たこととも繋がってくる。読めとか聴けとか言わない。人は自分が何か欲してる時には自然にそれを見つけるものである、とよく言うけれど*1、つまり、普段から目に入っているものでも、それが自分が欲しいものでなければ、その存在に気づかないということ。だからいつ気付いても良い様にさりげなく置いておく。準備も整ってないのに「読め」と言ったところで拒否反応を起こすだけだ。オレが過去よく使った言い回し「遠くにボールを投げる」もそういう意味。目の前の相手に対しては言わない。今投げておけば将来誰かが受け取るだろう、と。公開された文章はいつでもどこでも閲覧可能状態であるのだから、誰か彼か読むだろう。それで良い。ストレートでなくボディブロウのほうが効くってこと。

そして。最後の「自分語りをする」。

お前の下らん「うち明け話」など読んでどこが面白いか、という意見もある*2。ブログの日記文章などもその類。しかし。自分自身の言葉で書かれたものは、ひとこと写真日記でも恋愛日記でも、その人が反映されている、とオレは考えている。受け売りの寄せ集め文章でなく、本当のその人の選択による言葉*3。くだらん恋愛の歌が多い、とよく嘆く人が居るが、作者は、その恋愛の歌に準えて、実際は自分自身の人間観とか人生観を(知らずのうちに)歌っている。つまり、今この歌の対象は目の前の異性だが、それを友人とか親に置き換えても、多分違和感がないはず。フロイトではないが、何らかの表現物があった場合、そこからすべて読み取ることができるって感じ。もちろんオレの文章も、である。だから自分語りは面白いのだ。そこに見えるのは裸の相手の姿なのだ。


さてここでhankakueisuu氏。
梅田望夫を信じるな。梅田望夫を疑え。梅田望夫を罵れ。梅田望夫の荒を探し全身全霊を持って叩け

これを読んで気付いたこと。
「梅田氏も自分語りをしただけなのか!」

梅田氏の言葉はすべて自分自身に対して言っている。そう考えると納得がいく。がしかし、彼が本当に伝えたい相手には受け入れられなかった。おそらく彼が本当に伝えたい相手は、彼らを賛辞した人々ではなかった。むしろ彼の発言に拒否感を示した人々に対してであったと(オレは勝手に)想像する。あまりの言い切りっぷりに彼の本音が見えなくなっていたが、hankakueisuu氏の指摘により、幾分見えやすくなった。あのエントリは実は弱音だったと捉えれば、受け入れやすい気がした。オレの父親もそうであったが、実は弱い人間ほど権威的に振舞うものだ。

前掲したオレ独自の方法論。
これで書き直してみたのがトップに書いた文章だ。

直感を信じる

自分を信じる

好きを貫く

人を褒める

人の粗探ししてる暇があったら自分で何かやる

梅田氏を代弁者にしたい向きにはなんだか弱気で頼りないだろうが、オレにとっては、このほうが、なんだか彼の本音が垣間見れた気がして共感できる*4。本当に相手に伝えたいと思ったら全身全霊でその表現方法を磨くべき。くわしくないけど、プログラムだって1字の間違いで動かないんじゃないの?人の感情だって同じなんだよな。


追記と補足

直感を信じたい

自分を信じたい

好きを貫きたい

人を褒めたい

人の粗探ししてる暇があったら何かやりたい


これもおもしろい。より本音っぽい。でもなんだか似非JPOPみたいで笑えます*5。やはり最初に書いたほうが、颯爽としてて良いかな。

*1:水を飲まない馬の格言も有名
*2:既にここで取り上げられている
*3:その際たるものがキャロルキングであろう。
*4:奇しくもジョンレノンのGODみたいになっている
*5:なんか鈴木a美さんっぽいな。同じことを桜井和寿氏が言ったらどういう表現方法になるか。とかいろいろ想像すると面白い。

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