2012年7月15日

ベースボールとエルビス・プレスリー

最近よく、30~40代の人々や、所謂「団塊ジュニア世代」の人々は、この街ではドコに行るの?と尋ねられる。うん、どうも周りには見当たらない、と答えたのだけど、最近、居るところには居るようだと気付いたのよね。

渋谷系のようなもののお陰で僕は、自分のルーツに気付くことは出来たけど(過去のエントリ → 岸辺のアルバム)、しかし、実は、ぶっちゃけて言うと「渋谷系」というもの、そのものは自分は好きではなかった。発想はよかったけど、曲が水準に達してないので(また主観だろと突っ込まれそうだがw)、なんだこれ、って思ってて、それは僕だけじゃなく、周りの友人の反応も同じだったから「自分とは別な世界の出来事」と思って過ごしてた。

ただ僕の場合、昔のエントリで書いたように、自分のルーツである、と気付いたこともあって、これをヒントに似た路線でもっと自分は極めたことをしたい、と思い、それが僕の初期のスタイルになった(それぞれの夏休みとか)。だからあれらは、渋谷系の人たちにも受けはよかったよ。それで自分は溜飲を下げた感じ。

渋谷系の音楽は一貫して「出来損ない(いい意味で)」が売りだったが、ひとつだけこれはすごくいい、と思ったのがあって、それが Chocolat だった。彼女も歌は上手いとは言えなかったんだけど、それよりなにより、ともかく「楽曲とアレンジがちゃんとしてて」、これこそ「渋谷系の完成形!」だと、僕は思った。ヘタウマで出来損ないで、しかし楽曲とアレンジの完成度は高い、という双方の「いいとこ鳥」、つまりこれこそ「渋谷系の最終形」だな、って思ったのね。だから、ショコラは今でもよく聴く。というより、僕は渋谷系はショコラしか聴かない。と言ってもいいかもしれない。

渋谷系やサブカル系の雑多な感じ、つまみ食いで多趣味な感じは、思えば、この街の雰囲気にも似ているのだ。細かい魅力がたくさんあり題材に困らない、街にあるいろんなものをつまんで歩いてるだけで、じゅうぶん楽しい。これは実にサブカルに向いているのではないか、と思ってる。

そうして、そういうムーヴメントの原動力となってる、30~40代や団塊ジュニア世代も、そういうところに集まってるのであろう。と思った。

目立つ部分での「渋谷系」は、もう終わっているだろうが、各地で小さなムーヴメントとして生き続けてるんだと思う。それがクラブイベントやマニアックなDJイベントとなって、小規模で毎週末どこかで行われていて、そういう場所に、そういう年齢層の人々が、ドコからともなく集まってくるのだ。

町を歩くと、小洒落た道沿いの店の片隅に、小さなグッズが売ってあったりする。手書き風のイラストカードだったり、アクセサリーだったり。そういうものすべてに、どこか渋谷系の雰囲気を感じる。そして、そういうものを作って並べてる人々こそが、「どこにいるんだかわからない」と僕が言った人々の、所在なのだ。


先のエントリで書いたように、この「最終形」の正統な継承者が、田中ヤスタカ氏だと僕は思っている。最近「きゃりーぱみゅぱみゅ」のアルバムを聴いたが、その完成度は寸分の狂いも迷いもなく、継承されていた。これこそ、前回書いた「メソッド系」の到達地点でもある。渋谷系の最終型は、メソッド系の到達地点でもあるのだ。

ちなみに、渋谷系とメソッド系とオルタナ系が合体して完成したのが、椎名林檎の「正しい街」である。

沈まない船は、こうして着々と創られている。安心してはいけないが、かと言って悲観すべきものでもない。未来は、そういう人々のものであるのだから。


【追記】
2012年12月。
ベスト盤「NO REGRETS / Chocolat」リリースされました。
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Chocolat

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2012年6月23日

「冬のソナタ」に見るバブル的なもの

ホテル時代末期、だんだんやりたいことがハッキリしてきて、なんか職場も居づらいなーなどと思ってた3年目の冬。
僕を慕ってた職場の後輩が「父の会社が持ってるリゾートマンションが湯沢にあるから、スキーがてら、みんなで遊びにいきませんか」と誘ってきた。その後輩、みんなを誘ったんだけど誰も乗ってこず、結局、僕と2名で行くことになった。なんか、ハブっぽくされたのが昔の自分を見るようで(笑)、僕は付き合ってやることにしたんだよね。

これ言うと道民「以外」のヒトはみんな驚くのですけど、僕は、北海道人でありながら「生まれてから今まで一度もスキーをしたことがない!」という人間でしたので、スキー場に行く、ということが、そもそもどういうことなのかあまり判っていなかった。
行く場所も、行くまでどんな場所か全然知らなかったし、バブリーなことも全然しなかった僕は、リゾートでスキー、という価値観がいったいどういうことなのか、ということもまったく判らずに、ただ車に便乗して行ったのだった。
練馬から関越に乗り越後湯沢方面へ。カーオーディオからはミスチルが流れてた。僕は加藤いづみを持ってきてたので、ミスチルに飽きたら、これを聴こう、と言ってそれも聴いた。

現地に着いたらびっくりした。バブル的リゾートスキー文化という光景がそこに広がっていた。「うわ、ユーミンの世界だ」と思った。これがバブル(の末期でもう終焉だったけど)か、と。バブルが終わりかけて僕は始めて、そのリアルな光景を辛うじて見れたのだ。

後輩のリゾートマンションもすごかった。湯沢の小高い山の上に聳え立つ、10何階建てのマンション。最上階には展望式の温泉があり、24時間入れるようになっていた。ロック式の玄関を入ると、何組もカップルや家族が、スキー板を抱えて行き来してた。スノボーももうあったと思う。
僕らはたったふたりで、マンションの部屋に行き、思う存分ごろごろして、気が向いたら最上階の温泉に行って、湯に浸かりながら、展望窓から湯沢の雪景色をずっと眺めていた。

夜中に目が覚めて、一人でロビーに降りて行き、今までの3年間のホテルの仕事や人間関係について、ボーっと思いを馳せた。誘ったのに誰も来てくれなかった、そんな同僚のことなどを考えながら、「これは、もう終わりということなのかもしれない。もうじゅうぶんやった。曲もたくさん出来た。これはもう、次、ということなんじゃないだろうか」と、そう思った。ここまでやったら、もういいじゃん、じゅうぶん「普通の人」を楽しんだじゃないか、と。そろそろ音楽に戻ろうよ、と。

2泊して東京に戻り、出勤。そして僕は支配人の所に行き、今月一杯で辞めようと思う、と告げ、「今までお世話になりました。」と言った。なぜか後半は涙声になってしまい、その後の言葉を続けられなかった。支配人は黙って頷いてくれた。この支配人も、あまり社員に馴染んでない立場にいた人だが、僕の立場はいつも理解してくれてた。僕はドコでも、どこか普通じゃない人に愛される傾向にあった。

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それから10年。僕はまた音楽を中断して、TV局関係の仕事をやっていた。夜10時頃帰宅してBSをつけると、見たことないような不思議な雰囲気のドラマをやっていた。舞台はスキー場。僕はそれを見て、10年前、ホテル時代の後輩と一緒に行った、あのリゾートマンションの光景を思い出し、なんだかすごく胸が熱くなって、そのドラマに見入ってしまった。

翌日、仕事場に行って、海外ドラママニアの女子に、BSのドラマのことを話すと、やはりちゃんと知ってて「ああ、あれおもしろいですよねー、韓国のドラマなんですよ。」と。それが冬のソナタだったわけだね。
それからは、毎週木曜、楽しみに見た。その話を職場の子達とするのが楽しみになった。

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冬ソナの風景、スキー場とかのあの感じって、当時リアル放送時でも、日本の10年前?くらいな印象だったと思う。あのドラマにハマった人は、そういう「懐かしい日本の感じ」もあいまって気に入ったのだけと思うけど、まさに僕も、「10年前のあのときのリゾートマンションの風景」を思い出したから、引き込まれたわけで、ある意味ふゆそなファンのオバサマたちと似た感覚で接してたんだと思う。

それからこれ重要なんだけど、僕はバブル的リゾートスキー、というものの経験が「まったく」なく、その後輩と行った、あのときが、たった一度の唯一の経験だったから、今ドラマでそういう風景を見ても、あのたった一回の出来事しか思い出せない。そのことは、とても幸福なことだった、と今になって思ってる。どこにでもあるような風景でも、僕にとっては「たった一度」の思い出なのだ。

そういうことはきっと他にもよくあるでしょうね。人生で遊園地に行ったのが、父に連れられていった幼児期の「たった一度」しかなければ、それは唯一無二の思い出になる。何度も経験できることもいいと思うけど、たった一度、というのはすごいことなだな、と思うんだな。

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冬のソナタに出てくるスキー場の場面は、今でも僕にとってエヴァーグリーンだし、貴重な「バブル実体験」の思い出でもある。そして、新しい道を歩き始めたばかりの頃の、自分の気持ちを蘇らせてくれる装置なんだな。

ヨン様なんか誰も知らず(そんな呼び名もなく)、韓流ブームでもなんでもなかった頃のお話。

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2010年10月 6日

岸辺のアルバム

僕の家は明るくも楽しくもなく、幸せな家ではありませんでした。おおむかし偶然見たこのドラマ。ここで描かれた、表面上だけ繕って内実が崩壊してる家庭と、頭でっかちでひね曲がった性格の長男が、自分と自分の家庭そっくりで、本当に自分を投影して見ていました。オープニングにちょっと出てきますが、最後に多摩川が決壊して家が流れるんですね。本当に。あれがすごい印象的で、自分の家もああなればいい、って思ってたくらいです。

あの洪水で家が流されるのは実際の災害なんです。その実写映像をドラマで使用許可を得て実際に使ったんですね。長崎洪水のことなんか考えると、今じゃ考えられないですね。ずいぶん後になってから、この流された場所は、東京の狛江市で多摩川の土手だと知りました。それを聴いてから、いつか狛江に住んでみたいと思うようになりました。なんでだかわからない。何かが見つかるかもしれない、そう思ったのかもしれないし、過去の自分を引きずってたからかもしれない。

僕がドラマーから作曲家に転向して、亀田誠治師匠アレンジでリリースとかされてた頃、僕は船橋の一軒家に住んでいました。そこが大家さんの都合で立ち退きになり、急に転居先を見つけなければならなくなったんですね。その時に、ふと「狛江に越したいな」と思ったんです。そうして僕の21世紀は狛江市から始まったんですね。

念願の狛江に引越ししてから、この辺の風景はどこか懐かしさがあるな、と思い始めました。でもその理由がそのときは判らなかったんですね。そんな懐かしさに誘われたのか判りませんが、この土地の空気が気持ちよかったので、僕は毎日チャリで多摩川土手を走る(見回り)ことにしたんです。狛江から上流に行くのは調布のほうに行きます。見回りするようになって知ったのですが、有名なドラマのロケ地が、この辺はたくさんあるんですね。

僕は「戻る」という行為が嫌いなので、帰りは同じ道を戻らずに、必ずグルッと円形ルートで帰りました。なのでどこかで対岸に渡らないとならなかったのですが、是政とか府中とかいろいろルートはあったのだけど、最短の橋が矢野口のところで、それが一番多かったですね。そこで多摩川を対岸の稲城に渡ります。帰りは府中街道、もしくは川崎街道というのですけど、そういう幹線道路を下るんです。たくさんのお店が沿線にあって、いろいろ寄りました。渡ってすぐ、矢野口の交差点にリサイクルショップがあって、そこで見つけたのが遠藤響子さんのカセットでした!もちろん即買い。その店はいつも大音量でFMが流れてて、aikoのおやすみなさいと、ポールマッカートニーのドライビングレインはそこで初めて聴いた。日曜に、たまたま行った時、平日見かけないバイトが居て、若くてヒョロッとした草食系のやつ。んで、なんかレゲエみたいの流れてるんだけど、なかなか、いい感じなので、コレ誰?って訊いた。それが MOOMIN でした。ちょっと下ると、稲田堤にディスクユニオンがあって、そこも毎回寄りました。

その頃僕は、長崎ちゃんぽんをよく食べてたのだけど、それも、稲田堤のリンガーハットですね。そのちょっと先に古本屋があって、時々寄ってました。そこで偶然聴いたのがカプセル。曲は happy life generator。すごい衝撃的だった。でもその時は、カプセルだということも曲目もわからなかった。そんで古本屋から中野島に抜けて多摩川土手に戻る。その道で歌詞とかメロとかコードとか脳内で構築して新曲考えながら狛江に戻る。それを毎日やっていました。

初めて happy life generator のサビを聴いた時のショックは、ほんと計り知れなかったです。いろんなこといっぺんに思って、聴きながら、あー終わる終わるー!って思って、もう一回聴きたくて翌日も翌日も同じ時間に古本屋に行ったわけ。確か2回目の時にコードとメロを簡単に憶えて帰って、どうなってんだー?って家で弾いてみたんだけど、なんか違うなコレって。でも方法論だけでもすっげえので、それは忘れないって思って。
その後、なんで曲目が判明したかっつうとですね、2年後に新百合ヶ丘のビレバンで買い物してた時に、いきなり曲が流れてさ、あーーー!!!って。そんでCDのところに行ったらカプセルってあったんだ。今でも僕にとっては、中田ヤスタカはこの1曲で神ですね。

そんなわけで、町や川やいたるところで音楽があって風も匂いもあって、そういうの毎日、集めて走ってたんだな。
その時は、それがなんなのか気付かずに。そして、この時の経験が去年のシティFMの特集「僕の渋谷は多摩にあった」となるわけです。深いね。

自転車で土手を走りながら、自分の曲のメロやコードやアレンジ歌詞なんかを毎日考えていました。全行程1時間から2時間、途中で寄り道することもあったし、行きの昇りで、何か思いついたら急いで帰ろうと思うから、その時は直帰で1時間くらいかな。その時は帰りも川崎側の土手を下りました。水門や団地を見ながら、すっ飛ばすのは気持ちよかったです。下りだからね、スピードが出るんだね。そんな感じでチャリで作ったんは、ドライブの追っかけコーラスのアレンジ、曇り空、思い出の切れ端とかかな。キタノマルもそうだったかもしれない。
ドライブの、あのコーラスアレンジは走ってる最中で脳内で完結させて帰ってきました。うちに帰って、そのとおりに歌っただけ。(ココにいろいろある。ドライブは真ん中辺りにあります)

思い出のきれはしはすごい時間かかった。何日も出来なかった。どう展開させればいい曲になるのかって、Bメロとかイントロとか5種類くらい考えた。結局イントロは全部ボツになって、最終的には売ってるテイクのグリッサンドになった。あれは元々ふざけて弾いたんだけどね。そのまま使っちゃった。正規レコの時に、本当は弾きなおしたんだけど、元の雰囲気がどうしても出なくて、だからグリッサンド部分だけデモからコピペしたんですよね。歌詞も苦労して、前にココのブログで書いたけど、相鉄線の緑園都市で、仕事の合間に書いたんだ。コウ思い返すと、やっぱり苦労したのはFUSEKIアルバムの前半だよね。だから苦労した思い出が印象強く今も覚えてるわけだよね。それに比べると後半は楽だったと思います。勘が戻ったんだろうと思う。

その後僕は、また仕事が忙しくなったというのもあったし、そうやって何かの力を借りなくても勘が戻ったので、そうして振り返る事はしばらくなくなりました。まあでも、そのときの感覚はたっぷり作品や仕事に反映はされました。
それらの断片はここで聴けるし、完成品はCDやCMになりました。

その後いろいろあって、長崎移住となります。その際に、まあちょっと事情があってですね、最初はナント!野母崎半島の三和!に住んだのですよ!あの山奥で何もないところで、僕は幽閉されていました。楽しみといえば唯一ケーブルテレビがあったことくらい。ケーブルにはいろいろチャンネルがあるんですけど、たまたま見た、NECOとファミ劇というチャンネルで放送してた昔のドラマを見て、僕は驚いたのです!そこでやってた70年代の青春ドラマとか刑事ドラマとかあと、ウルトラセブンとかですよね。そういうのでロケで出てくる景色が全部!狛江と多摩川なんですよ!!これは、東京に住んでない人は判らないと思います!
でも、当時のドラマ、そしてこれは今でもそうなんですけど、CMとかも含めてなんですけど、川の土手とか遠景のマンションとか公園とかそういう景色のほとんどが、多摩川とか調布とか狛江なんですよ。それで気付いたのは、そういうドラマの風景を子供の頃からずーっと見てるでしょ。そうすると、ドラマの風景が刷り込まれて自分の原風景のような感覚になるんです。
それは業界の標準として、ドラマのロケはあそこがいい、とか決まってるわけでしょ。だから必然でそうなる。それは撮影所が調布狛江に多いというのもあります。円谷プロダクションもすぐ近所の世田谷なんです。
そうして僕は昔のそんなドラマを見ながらああ、僕にとっての郷愁がここにあった!と。そう気付いたんですね。それまでは、何故僕が多摩川や狛江の事を自分の故郷のように感じるのか、はっきりわからなかったんです。それが、三和でケーブルで昔のドラマをたくさん見てそれで気付いたってことですよね(余談ですが、後にこのケーブル料金をめぐって裁判になりました。僕が絶対に譲れなかった理由が、これで判るんじゃないかと思います)。

この日記の最初のほうで、僕は、自分の家庭が温かい場所じゃなかったと書きました。共働きで両親は家に居なかったので、学校が終わったら、誰も居ない家にいつも帰っていました。その「誰もいない家」が僕にとって一番居心地の良い家でした。その家で、夕方の再放送のドラマを見ることだけが唯一の幸福だったんですね。だから僕にとって、そういうドラマとその風景が故郷なんだと気付きました。もうひとつ楽しみだった事があります。それがラジオで当時のヒット曲を聴くことですね。その二つの要素が結びついて今の僕の形になったということですね。

そこで前に紹介した、シティFMの渋谷系音楽の紹介特集。ここで言った、僕の渋谷は多摩に有ったんだ、という話は、僕自身の郷愁が多摩にあったんだという話だったんです。

僕は、自分が音楽をやる時に、何か借り物の音楽をやるというのが嫌だったのですよ。何かの受け売りとかじゃなく、ちゃんと自分自身の根底にあるものをやりたいのだ、と。そう思っているんです。しかし、どうも自分の根底に無さそうな音楽に惹かれる自分がいる。それはなんでなんだ??とずーっと悩んでたんですね。それが、ここで全部解決したってことなんですね。誰でもそうだけど、本当の自分自身は自分の中にしかないということです。何かに反応する、ということは自分の中のその要素が反応してるってことですね。しかし案外、自分は気付かないもんです。でも他人は意外に、そういう部分を「魅力」として見つけてくれたり好きになってくれるんですね。だからと言って、そんな自分は嫌だ、という拒否反応もある。自分は自分の理想もあるからですね。だから、多分その人にとって一番いいのは、本人が気付くまで放っておく、ということです。それは永遠に続く戦いなんですね。それでいいんじゃないかな。

狛江の多摩川土手崩壊災害の話から、長ーい旅の後、こんなところに到達した。でもまだゴールじゃない。また明日になったら全然違う事を言ってるかもしれない。そういうもんだね。

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2009年4月23日

軍艦島なう

引き続き4月22日の上陸解禁初日の模様です。
前編はこちら


さーて。
遂に。遂に。遂に!上陸なんです!!

トンネルのような通路をくぐり最初の集合場所に。
そうです。
上陸したら常に集団行動!
僕らは団体おのぼりさんなのです。


Plate
上陸者の証。
船内で配られたこのプレートを提げて歩きます。


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いきなり真横がこれ。廃墟に囲まれ、もうどれを見ていいのか。
キョドって、ともかく写真撮りまくるしか出来ない感じ。


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右手遠方。


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そして、最初の説明地点広場に到着。
目の前に聳え立つ崖が。


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上空に報道ヘリ。


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左手がこれ。
軍艦島の歴史やらいろんな説明をボランティアガイドさんから聞く。


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レンガ、というよりここは「煉瓦」と書きたいところですわね。


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次の説明場所へ、みんなで移動します。
個人行動は許されないのですが、
少々立ち止まって見るくらいなら急かされない気がします。


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写真だとゾクゾクしますね。
実際は通路とはちょっと離れてるんです。


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これも遠めです。でもじゅうぶん壮観。
右が第二竪坑坑口桟橋あと。


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パルテノン宮殿かと。第2見学広場。


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軍艦島は周囲を壁で囲まれています。
外からだと、それが壮観なんだけど、
実は上陸してしまうと、その壁のせいで外が殆ど見えません。
周りが海だ、ということは波の音でしかわかりません。

このアナは、その壁に開けられた排水用の穴ということです。
上陸して僕が唯一見れた海は、この穴から覗いたこれだけです。


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壁にも注意書きがあります。


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そうこうしながら第3地点に近づいていきます。


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真髄にキター!


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ウルトラセブンの第4惑星かと。


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日本に於ける最古の鉄筋コンクリート建築。


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第3見学広場。


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プールの跡地です。塩水だったって。


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これが見れただけでも…。
建物のスキマに階段が見えます。
先日の長崎市民参加舞台でも登場した階段ですね。


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左手の海側です。壁です。


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壁で仕切られています。


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名残惜しいですが戻っていきます。
来るときは気が焦って落ち着いて見てなかったのですが、
よく見ると「総合事務所」の煉瓦の壁が良い感じだった。


Gunknjimanow
記念写真を自分撮りしている人がいたので、
僕もここで唯一の自分撮りを。これ1枚だけです。
まあ、また来るし。笑。


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第1広場に戻りました。
こっちも気が焦って見過ごしてたものがたくさんあったことに気付く。
もうね。のぼせ上がった子供です。アホですw


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この辺が元々のオリジナルの島なんです。
なので、この辺が唯一,軍艦島で自然が見れる場所。
この周りにどんどん埋め立てして城壁にして広げていったのですね。


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ね?
この辺を見ると、僕の出身釧路の炭鉱街らへんとあまり変らないです。
雄別炭鉱に行きたくなりました(あそこの廃墟も壮観)。


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よいコラボです。


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お別れのときです。
こうしてみると城壁に囲まれた基地あとみたいですね。


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プレートを返却し船に乗ります。
みんな乗船したか確認のあと出帆。
帰路は早いです。あっという間に離島します。


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あばよ軍艦島!また来るけんのう。(誰?)


いかがでしたでしょうか。

この日は晴れて暖かかったのですが、
しかし船上は寒かったです。
船室に入ればいいんだけど、やっぱりデッキで見たいよねー。
だから暖かい格好がいいかもですね。
あとは、波しぶきかかります。顔とか髪に。
それも注意が必要です。

トイレと喫煙は船内のみ。
上陸時間も短いので大丈夫と思います。


軍艦島の外観は、3年前に見ていました。
今回は2回目なので、そういう意味では落ち着いて見られたけど、
やっぱり上陸後は、落ち着いているようで、実際は舞い上がっていましたねー。

次にいつ来れるか判らない、たったの1時間と思うと、
何をしていいのかわからないわけですよ。
写真は撮らなきゃだし、でも目に焼き付けておかないと、とか。
感慨にふける余裕とか、何かここは注目みたいなポイントはなかったっけ?
とか、いろんなこと思いすぎて、わけわからない感じでした。


だが、それがいいのかもです。


また来るぜ!


参考

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2009年4月22日

軍艦島ツアー!上陸解禁!

さーて、みなさまご存知のとおり、
4月22日、遂に、あの軍艦島が一般上陸解禁となりました!

もちろん僕としては初日に行きましたとも!

島の周りをぐるりと回っただけでお預けを食らった、
クルージング with 西尾 から3年。
待望の初上陸!はたしてどうだったのでしょうか。

さっそく報告ですよ!


まず上陸する船に乗るためには事前予約が必要なんです。
こちらのサイトでも出来ます。→軍艦島クルーズ
乗り場等の詳細もわかります。


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誓約書に署名が必要です。上記サイトでDLし事前に記入も出来ます。


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購入窓口。初日のしかも初便である告知。


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チケットをげっと!前回と同じクルージング料に上陸料が加わっています。


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さすがの初日。
一般だけでなくマスコミプレス関係者も大勢。


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船は結構揺れます。酔う方は・酔う対策!


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遂に見えてきました!3年ぶりの再会!


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じらすように島の周りをぐるりと。


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横から見るとすごい狭い島と判る。


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ドルフィン桟橋側に回っていきます。


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上陸地点が見えてきます!


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いよいよ着岸へ。上空に報道ヘリが!


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報道関係者は既に上陸してて僕らを待ち構えていました。


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着岸ががーん。


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タラップは少々揺れますが係りの方もいるので大丈夫。


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それより自分的にはこっちが怖かった。
下が見えるからねー。


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さて。いかがだったでしょうか。


…って、おいっ!上陸後の写真っ!笑。


はい。ちゃんとございますよ。


続きはこちらに → その2


一般の方がどれくらいまで見る事が出来るのか
報告していこうと思います!

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2009年4月20日

軍艦島はじまた

http://www.gunkanjima.com/
この驚喜のサイトを発見してから10年。

自分と同じ趣味の人々が居ると知って歓喜した当時。マジ。

もともと廃墟&米軍系跡地マニアで、東京も隈なく歩いたけどね、
軍艦島は別格。

僕の出身、釧路も炭鉱の町でね。

施設や建物は共通の部分もたくさんあった。

当時は、釧路にも10年以上帰ってなかった。
なので、軍艦島の風景に自分自身の原風景を見たのかもしれないね。

だから、発見したときは毎日食い入るように見てた。

いいなあすげえなあ、って。

でも遠すぎるしさ、
一生行けねえだろなと思ってた。

その5年後にまさか移住するとはね…。

人生はドラマだヨ。

でさ。

夢に思ってた事がいきなり身近になっても実感わかないわけなんだわ。
2年前、野母崎に行って目の前で軍艦島見ても「はぁ」って感じだったもんなあ。

まわりみんな地元の人だし一人で浮かれてもなんだかなという感覚もあったけど。


おそらく地元の人々、とくに年配系の方々は
今でも、このブームの意味をあんまし理解してない気がする。

観光客たくさん来て儲かるかな、程度しか。

つか、自分が住んでた場所を、そんな物見遊山で来られても、
っていう抵抗感も強いのかもしれない。

まあ、もともと、東京でもそんなところ好んで歩く人は、
当時はあまり居なかったから。

そう思うと、この盛り上がりもなんだか不思議ですわね。



上陸解禁
http://ascii.jp/elem/000/000/410/410948/

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2008年12月25日

アメリカそして日本または釧路もしくは長崎

僕は前回のMy Little Townについての日記を書いたあと、
ある方に「My Little Town」の翻訳と、
内容に付いて御意見うかがうことができないでしょうか?とお願いしていました。

前回の日記で書いた、
何度も読み返すほどの、とてつもなく勇気付けられたメール、というのは、
実はこの方からのものでした。

たぶん、ものすごくお忙しいと思われるのに、
その方は、僕のリクエストに答えてくれたのです!

http://blog.goo.ne.jp/hocuspocushr/e/97a5e083f4911088db65a6becf769846

是非、曲そのものを聴きながら、
歌詞を読んでみてください。

たった1曲でしたが、
これは、たぶん「進化できた唯一の再結成グループ」です。

自らの過去を踏襲するような形でしか復活できなかった大多数のグループと
彼らはまったく違った。

70年代中版という時代も良かったかも。

まだ衰えてなかったので。


ビートルズが70年代にもし再結成していたら、
ここまでクォリティの高い物が産めただろうか。

そんな事を思います。

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2008年12月12日

My Little Town

70年代に、この一曲のみ復活したサイモンとガーファンクルの曲です。

http://jp.youtube.com/watch?v=dVGc58r_YTU
http://www.youtube.com/watch?v=uMyzDekZAN0
(ソロバージョン。大雑把な訳詞つき。)

と言うよりは僕にとってはポールサイモンの曲ですけど。

せっかくエコーでこのことに付いて触れたので紹介します。

ここで歌われてる内容は、まさしく僕の故郷を歌ったものでした。
いや。
ポールサイモンが釧路の事を歌うはずはないです。笑。
しかしこれは、当てはまると思う人みんなの曲なのです。

僕が一番感心するのは、この曲の進行の凄さです。
転調を繰り返し、拍子も自在に変化し、まるで一編の映画のようです。

そしてそれは、歌詞の内容と見事に一致しているのです。
これはわかる人にだけわかる高度なバーチャルリアリティなのです。

そして、僕ら音楽を生業にするものにとって勇気を永遠に与えてくれます。
というのは、この曲が全米で日本で大ヒットしたからです。

その夢を、今の日本で魅させてくれる現在進行形のアーティストのひとりが
椎名林檎さんなのだと思っています。

話がそれました。


僕にとって一番重要なことはリアリティです。

僕は、リアリティのある曲しか歌わないし、創らないし、書きません。
そして、そういう方のレコーディングしかしません。

何故ならそれが僕の役割だからです。

もし僕がこんな曲を書けたとして、しかも世界中で大ヒットしたら。
もう自分は死んでも悔いはないと思うだろう。


唐突に話は変りますが、僕はブレイクする前の柴門 ふみさんが好きでした。

彼女の書くマンガは、心に常に突き刺さってきました。

柴門ふみの「柴門」は、彼女がポールサイモン好きだったので名付けたと言うことです。

彼女は四国の徳島出身で、そのまちを出るわけですが、
そのことに付いて書かれたと思われる自伝的作品があります。

その主人公である高校生が、植木を庭に植え、
それを飛び越え続けていれば、木がいくら高く成長しようとも、
自分もそれに伴って乗り越えるのだから、どんなに高くでも飛べるようになるはずだ、

みたいなエピソードがありました。

彼女はいろんな葛藤やら悩みやら抱えながら、
やがて町を出るのですが、

その作品の最後のコマに、このポールサイモンの歌詞が掲載予定だったのです。

しかし、許可が下りずにその歌詞は掲載されませんでした。

その代わりに、

掲載することが出来なかった、

という作者(柴門 ふみさん)のコメントが書かれていました。

それを見たとき

歌詞は掲載されていなかったけど、
その最後のコマに、My Little Townの音楽が確かに流れたのです。

僕はそのとき彼女の言いたかった事が理解できたような気がした。

そして今の自分が言いたいこともそれでわかったのです。

My Little Townと言う曲は、永遠に僕に問いかけてくるのです。

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2008年4月21日

福山のアホ

1800キロも離れたわが故郷より父が来訪中。
一緒に長崎美術館の福山雅治写真展「残響」を観にいった。

私が東京から長崎へ初めて来たとき、
偶然市内の書店で福山氏のインタビューを読んだ。

長崎という街が嫌でしょうがなかった、
逃げ出したくて、原チャで走っていつも挫折した、とか。
東京に出て成功しても、殆どこっちには帰ってこなかった、とか。

それを読むまで、彼がそんな事を思ってたとはまったく知る由もなかったわけですが。
ひとつひとつのその言葉が、まるで自分の事のように、心に刺さってきた。

今の僕も、自分の故郷が嫌で
恐らく二度と帰りたくない、住みたくない、そう思っている。
それは、親との確執や、環境の事や、
または、前にも書いた友人たちとの決別のこともある。
ともかく僕は故郷を捨てたのだ。

そうして1800キロも離れたこの場所で今暮らしている。

同じようにこの街を嫌い出て行った福山氏に
僕は少なからずシンパシーを憶えるよ。

そんな福山氏が、今になって故郷のことを思い、
それを写真にしたり、言葉にしたりしてる。

あれほどまで憎んだ父親と、今ふたりで、
その福山氏の写真展を観ている、ということが、
どこか和解の暗示というか、
もう、お互いが許してもいいんじゃないか、と。

今そうして語り合っておかなければ、
来年再来年が同じようにあるとは限らないではないか。

福山氏も、吹っ切れるのはもっともっと先かもしれないけど
どこか他人じゃないような気もして、看ていたいなと思ったりしてる。


福山といえば。

僕がホテルで働いてたとき、
偶然そのホテルに福山氏が宿泊に来た事があったのですが、
そのときフロントで働いてた女の子が、
「あたしっ!福山の大大大ファンなのー、サインもらってくるっ!」
といって部屋まで押しかけたという事件があって、
福山氏は「えぇ…しょうがねぇえな」と言いながらもサインはしてくれたんだけど、
そのあと「仕事なのにこんなことしていいのかよ?」って怒られたって言う。

そんな話を思い出すのです。

まぁ普通はやっちゃいけませんね。
でもサインはあげたんだね。

クーー。

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2008年2月 8日

セサミストリート 5

さて、佳境ですよ。

私がブルース風味メロディをはじめて知ったという記念すべき曲。

OPファミリーソング。
http://www.youtube.com/watch?v=R_v04QUN9QU

ETファミリーソング。
http://www.youtube.com/watch?v=0dvUkI-osYc

ともかくですね、頭の文字を変えるだけで違う意味になる単語をグループ分けして、歌にして覚える、というその発想がすごいわけです。

それから、普通のブルース進行にあまり動きのないメロディ。これはまさしく僕の音楽性の基本なんですよ。コードは変わってもメロが止まっている。はい。みなさんどこかで僕が書いてるのを読んだ事がありますね?これが僕の言う「ミラクル多面体」なんですよ!

まだありますよ。この曲は中盤後半と2回転調しています。これも基本です。

あとは、僕のコーナーで熱く語っているとおり、オヤジバージョンの発音のネチっこさ。ネイティヴの人が実際に「W」と発音するということ。

それからカップルバージョンのラストのポニーテールまわし。記憶のままです。動画見て鳥肌立ちましたから。「そこでポニーテール回すはずっ!!!」と言ったらほんとに回したんですよ?

あのすばらしい小学生時代に戻りたい。

感覚だけ、ね。笑。

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