2008年8月21日

それを生んでいるのも人間である、という想像力

せっかくの機会なので、この件に付いて記しておく。

これは日本人特有のメンタリティなのかどうか、オレには知る術がないが、確かに、ある時代までは、自分の好きな対象を「貶しながら褒める」という評価の仕方があったと思う。それは例えば親しい友人に対して「こいつはもう変態だからさ」とか半分からかいながら人に紹介する、といったものだ。それは実際は褒めたいのに素直に言えない、というような照れ隠しだったり、親しい仲ならではの遠慮のないやり取りだったりするのだが、そういう価値観って一世代前の感覚だよなあ、とも思う*1

一昔前までのポピュラー音楽評論にも、このような風潮があった。音楽家の、表面上にみえる何かの行動の奇抜さや、作品の中に見出す不整合性などといったものを抽出し、それらを晒しながらも「だがそれがいい」と表明するやり方だ*2

こないだの鬼束さん記事を見たとき、オレは即座にブライアンウィルソンを思い出した。言うまでもない。ビーチボーイズの創立者だ。彼はロックスターとして生きるにはあまりに精神が繊細だった。ゆえに、あのような死ぬほど美しい音楽を生むことも出来たのだが、引き換えに精神に破綻をきたしたのだ。彼の危行は虚実ない交ぜにされまことしやかに語られた。数々の文献を読み返すと、それらの原因は、回りの無理解にあった、と今になって判る。繊細な芸術家であるが故の発想や危行(と呼ぶのも好きじゃないが)を、正面から向き合い理解しようとせず、「さすが天才は考える事が違うわ」と、ある種、紙一重的に扱い、決め付けることで、こちら側への侵食を阻止する。それは実質的に受け入れ拒否でもある。それによって、どれだけその相手がダメージを受けるか。また、その決め付けは、自身の思考停止でもある。考える事が難しいから、「こうである」と決めることによって、その先の深追いをやめてしまうのだ。

一般的音楽ファンにまで、それを背負わせる必要はないと思うし、音楽などもっと気軽に楽しむべきものだ。しかし、音楽に携わったり、それにまつわるメディア、という、クリエイターに極めて近い位置に居る方々が、そのような排除的な発言を行う、ということは、個人的には、不用意で配慮に欠ける行為、とやっぱり思う。彼らは一般人ではない。選ばれて、あるいは、自ら選んでその職に就いている。つまり、そういう立場の人間であることの責任と義務が生じるってことなのだ。

音楽家も芸術家も一人の人間である。自分も同じ人間であるなら、すこし想像力を研ぎ澄ませれば、その相手を理解できないはずがないのだ。いや、結果的に理解できなくても良い。でも判ろうとした、という努力の痕跡は示すべきじゃないんだろうか。

もうひとつ。「作品」というのは、その辺の石ころみたいに最初からそこに転がっているものではない。たとえば、しつこいようだが「サンマは漁師が採って来る」というのと同じ。作品を産んだ人間がいる*3。人間である、ってことは自分と同じように傷ついたりするってことなのだ。人は常に理解者を求めている。自分は誰からも理解されない、と。そうして孤独になってゆく。そういった気持ちが良い作品を産んでゆく原動力になる、というのは、それは確かなことではあるんだが、それでも、いま自分の目の前に居る記者なりインタビュアに「壁を作られた」と感じ取ったときの、この疎外感はどれだけのものか。また先に書いたような、落として持ち上げるようなやり方が(たとえ善意であっても)、どれだけアーティストを傷つけるか。そして、そこから生まれた感情は当事者間だけでなく、あらゆる人に伝わってゆくのだ。何故なら、それは誰もがみんな共通して持っている感覚だからだ。

少なくともそこまでの想像力を働かせる事が出来る人でなければ、メディア関連の仕事に携わる事などできないのではないか、と強く思うのである。

今のブライアンは、幸いな事に正当に評価されているし、理解してくれる友人仲間に囲まれて穏やかに精力的に過ごしているようだ。しかし、ロックポップス界全体を思うとき、そういった例は少ないほうだと判るはずだ。ブライアンはあれでも、愛される人に恵まれていたほうなのだ。60年代のアメリカ。そして今の日本*4。同じ轍を踏まないよう、日々心がける事は出来ると思うよ。


関連エントリ

「悪気はない」ことの罪深さ

*1:この系列で、オレが個人的に一番嫌いな言葉は「愚妻」である。「亭主」が「嫁」の事を「うちの愚妻が」などという。へりくだってるつもりなのかも知らんが、この極めてデリカシーのない表現は、現在最も通用しない価値観だろうと思う(同じような理由で「俺の嫁」という表現もあまり好きではない。ネタならまあ目くじら立てないけど)。
*2:このような評論の仕方が、いったいどこから始まったのか、昔いろいろ考えた事があるのだが、音楽がジャズ→ロックンロール→ポップスと進んでくる段階で増えてきたように思う。クラシックが見事な職人芸&高度な専門芸として成り立っているのに対し、ジャズ→ロックンロールっていうのは大衆音楽なので、確かに稚拙だったり親しみやすかったりした。要するに突っ込みどころが有ったのだ。新規参入評論家の付け入る隙ができたということである。評論のハードルが、上記で示した矢印の流れに沿ってどんどん下がったのではないかな、と。
*3:この件は以前ここで書いてる。正確には「産んだ」という風にはオレは捉えていないのだが、ここでは便宜上そう書く。
*4:岡村ちゃん…

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2008年8月19日

文句言いながら恩恵受けるな~サンマ休漁

サンマ船が一斉休漁 230隻、燃料高窮状訴え

なんとなく、このニュースうちの実家のほうだなーとか思いつつぼーっと眺めてた。実はオレは日本有数の漁業都市に生まれ育ちながら、魚介類全般がものすごく苦手だった。幼少の頃から、あの生臭い匂いとか生々しさに、どうしても慣れなかったのだ。そんなこともあって、物心ついてから成人するまで、強制的に親に食わされた事を除けば、魚料理というものを殆ど食べた事がない*1。人にそういうと「えーーーなんでー??すげえ勿体無い」と今でも言われるが、こういう人はオレだけじゃないと思う。実家が食い物屋で、生まれたときからその匂いに囲まれ、いまや見たくもない、という人は多いんでない?

魚介類からことさら距離を置いていたのには、実はもうひとつ理由があった。それは、漁業町独特の気性やら風習にどうしても慣れなかったからだ。人間的に狩猟系なわけだし、そら荒々しく男らしいのは当然で、幼少の頃から適当で弱っちいオレは、常に、そういう人々のからかいの対象にされたのだ*2

そんな自分がやっと故郷脱出に成功し、それらから開放され社会人になり落ち着いた頃、たまたま先輩に連れて行かれた居酒屋で「ほっけ」が出てきた。先輩が「これうめえんだよ、お前も食え」と言った。内心「オレは魚介類は食わないんだよ、嫌だな」と思ったが、席上断れるわけないじゃん。なので、しぶしぶ箸を伸ばして一口食ったわけだ。

「う、うまい」。

その経験のあと、オレは積極的に魚系料理を食べるようになり、その魅力も十分理解できるようになり、かつての偏見も薄れていったのだった。

今日のこのニュースで、漁港の様子と地元の漁師のインタビュー映像が放送された。それらを見たとき、幼少の頃の自分の気持ちや出来事が、一気に思い出されて「あー、そうそうそんな感じだった。やっぱりオレ魚は好きになったけど、漁港や漁師にはあまり近づきたくねえな…」と当初思った。

でも、しかし。当時感じてたような嫌悪感みたいな、自分の人生から排斥したいほどのウザさみたいなものはあまり感じなかった。うーん、なんでだろう、と考えた結果、それは今の自分が「魚を美味いと思って食ってる」ことに理由があるのではないか、と思ったのだ。

その対象物を「美味い」と思って食ってるってことは、その恩恵にあずかってるということになるんで、そうやっていい思いをしておきながら、それを採った人やその環境の事を悪く言うのは、ひどく筋違いな感じがしたのだ。確かに人として気の合わない人種かもしれない。野蛮な人たちで社会的にどうかと思う人も多いかもしれない*3、でもあなた達の仕事はありがたいよ、と尊敬しても別にいいんじゃないか、と思ったのだ。

こういうことを思ったあと、例えば普段音楽を聴いたりしてるくせに、音楽家はクズとかメンヘラとか、薬物やら乱交やらでろくな人間ではない、とか思われるのも、ちょっとなんだか違うような気がしてきて、それは確かに社会的にどうか、と思うけども、とか言いながら、音楽を聴くって事は遠回りでもそれらを容認してることになりゃしないか、っていうか、旨みは享受するくせに、その生んだ対象を侮蔑するって言うその感覚がよくわからないな、と思ったりした。

オレが以前よくここで書いてた、パクリとか二次創作とかしてその対象を使ってるくせに文句言う、って言う感覚が理解できない、ってことにも繋がっているのだなあと。ニコとかMADみたいなものはオレはおもしろければ黙認したい気分でいっぱいだけど、だからって、好き勝手にしてもいい、とか、それを使う側が言うのはどうなんだろう、という意識が凄くあって、だからこそ、そういう気持ちが使う側に薄いからこそ、クリエイター側も頑固に折れないんだろう、って思う。コピワンとかそういうことでね。

例えばオレが以前のままの感覚で「漁港くっせー、きたねえ、漁師うざい」とか言っててさ、でも「新さんま、バリうめーなー」って、それは漁師も「おまえ食うなゴラ!」って言うでしょ。調子よすぎるんだよてめー、ってことにならないかな?

僕とあなたは人間的に気は合いませんが、それを採ってくれて食わせてくれることには感謝してるんだぜ、みたいな気持ちがないと、それは自分の中で折り合いがつかないってことを凄く思ったわけだね*4

追記
今ひとつわかりにくかったようなので端的に書き直してみる。

オレは魚が嫌いだった。それはオレの生まれ故郷の、漁師とか漁港がなんか下品で嫌だったからだ。しかし大人になって食ってみ て魚がうまいものだと気付いた。美味いものだと思って食うようになってから、漁師や漁港の事を下品とか思うのも失礼な気がした。なぜなら食ってるからだ。

人 の著作物とか勝手に使って編集したりミックスしたり二次創作物を創ったりするのは、100歩譲っておもしろけりゃいいや、と思えないこともないが、勝手に 使う立場の人間が、でかい態度で「別にかまわねえだろ」って開き直って言うのは失礼じゃないのか、と。見世物扱いしてバカにしてるのもどうなのか、と。物 創る人間としては、漁師と同じ気分だ、と。食っておいて好き勝手言うなよ、と。人をき○がい扱いするなよ、と。

クリエイター側のみんながコピワンだのなんだの駄々をこねてるのも、お前らの態度が気に食わない、ってことなんじゃないか、と。そんなずうずうしい奴らには死んでも許可なんかしたくないぜ、と思いたくもなるだろ。少なくともオレはそう感じるぞ。

ここんとこ、自分の事が忙しいので静観を心がけてたのだが、一連の最近の流れ、池田氏の椎名って誰?から始まり、二次創作、と連続されると、さすがの私も腹に据えかねてくる。この件はまた続き書く。


参考エントリ。まさにこんな感じです。
アフィリエイトは儲かんないってば:著作権の話で感じたもやもやを図にしてみた【追記】 - livedoor Blog(ブログ)


関連エントリ。
誰でも当事者になりうる。つい忘れがちだけど



関連ブクマ。
はてなブックマーク - ぼくの描いたこなかが絵がニコニコ動画に無断転載された話 - E.L.H. Electric Lover Hinagiku

関連エントリ。
これってオレの言いたいこと端的に表わしてる気がする。

アフィリエイトは儲かんないってば:著作権の話で感じたもやもやを図にしてみた【追記】 - livedoor Blog(ブログ)

アフィリエイトは儲かんないってば:二次著作でもやもやした話のあとがき - livedoor Blog(ブログ)

ことの始まり。
ぼくの描いたこなかが絵がニコニコ動画に無断転載された話 - ビジネスから1000000光年

*1:寿司を除く
*2:ちなみに母の実家は、これまたなんと酪農家であり手広く乳牛など飼うなどというカウボーイみたいな「荒馬と女」みたいな人たちだったから、そんな親類縁者からも自分は疎まれたw
*3:インタビューの漁師が、ではない
*4:日ごろ、サンマ美味いとか思っても、実際は昔のオレみたいに、漁業関係者のことなんかなんとも思ってないってことが正直に現れた出来事だと思うんだよなこれ。ありがたいとか思ったら、その対象も大事にしてやれ、って思うのが当然じゃないかと思うのだが。そんでオレはその感覚が創作物にも準える事が出来るだろうと今回思ったわけだ。

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2008年7月26日

音楽の力を過信しすぎた弊害

ふと思い立ち「リリイ・シュシュのすべて」を見始めたが、どうにもこうにも居心地が悪く、途中で留めてしまった。以前一度見たことがあるので結果とか内容は知っている。その時も何処か居心地の悪さと後味の悪さを思ったわけだが、その理由がなんなのか、残忍さを執拗に描いてるからなのか、いやしかし、それだけで、こんな違和感を感じるだろうか。そんな、以前感じた疑問を今回払拭したいと思ったのだ。

そんで今回気づいたのは、音楽というものの有効性をありえないくらい信じていること。つまり、観ながらツイッターに書いたメモ「なにか音楽を特別なものにでっち上げようとしてる作為が見え見えで、というか、そんな時代の臭さふんぷんで、あー嫌な時代だったな、と。」のとおりである。ここに出てくるリリイ・シュシュなる架空のアーティストにしても、サティやドビュッシーにしても、音楽そのものではなく、その醸し出すイメージ、時にはねつ造とも言えるような、「虚」そのものである。この映画の中ではアーティストや作曲家は生きた人間でもなく音楽でもなく、それはまるで北欧の家具と同義であり、「サティ(笑)*1」である。

映画の公開は2001年なわけだが、思い返せば確かにそういう時代だった。メディアやレコード会社の垂れ流す、アーティストや作品の過度なイメージを、そのまま受け入れていた時代。いやほんとは、もう既にそれはインチキなんだと、みんなが気づき辟易していたのに、あたかもその戦略が未だ有効であるかのごとく、信じさせ、…これは、リスナーに対してだけでなく、他ならぬ制作側やメディア自身が自らをそう騙してたとも言えるが…、そうしてバブル終演を可能な限り遅らせようと言う悪あがきが如実に表れてるのだ。

音楽業界の経済的な動きは実社会よりも微妙に遅れて現れる。世紀末バブルで自分たちのシステムが未だ有効である、と勘違いしてしまったメディアの人々が、余力のあるうちに、と、せっせと柳の下のドジョウを濫造した時代。この時代を経てるから、みんないま、メジャーとかインチキくさいとかいう弊害になったんじゃないのかと痛感する。そしてそれは、林檎の一時引退とリンクする。

さて翻ってこのオレであるが、この日記や過去ブログでも散々話したとおり、「音楽は音楽でありそれ以上でもそれ以下でもない」と言う持論を信じ続ける人間であり、それを実践してきた。前述したメディア発信側が「音楽を音楽ではなくそこからの派生イメージだけで売るという戦略の有効性」を信じ続けた結果、今のような市場崩壊に至ってるのだとすると、このオレは全く正反対で「音楽を音楽としてだけ捉え、その力を信じ続けた結果、哀れな開店休業状態に至った」と言える。

つまり、オレは自分が素晴らしい音楽を生んでいる、という、ほぼ勘違いに基づくっていうか、根拠のない過剰な自信に支えられて、他のことに目もくれずに作品を作り続け、良いものであれば必ず誰かが聴いてくれるのだ、という幻想を信じ続け、営業活動を全く行わなかった。媚びることもせず、要請にも応じず、あくまで自分のスタイルとペースを守り通した。その結果としてオレは、かつて所属した業界内の輪、ディレクタープロデューサー等の方々からの、発注先としてのリストからいつのまにか外れていた。勿論彼らは今でも知人である。しかし、仕事相手としての付き合いではなくなった、ということなのだ。

オレは昔から年上の世代に可愛がられなかった。それは業界内でも変わらなかった。オレは「ここは違う」と信じていたけども。結果は同じだった。どんなに良い曲を生んでも*3、相手の有効な駒にならなければ、存在価値は認められないのだった。そうしてオレは地下に潜り、身を潜め、時は過ぎ、周りの世代が皆年下になっていき、自分が貫けるようになったのを見計らって、再浮上を意識するようになった。それが今だ。

前回の日記に書いたように、オレは自分の仕事は作詞作曲し歌うことだ、と認識してる。だからこそ、最高の曲を生んだのだからそれで満足、とも言えるのだし、そのことに後悔はないかと問われれば、ない、と応えられるのだが、ちょっと人情的な部分で言えば、たとえばオレが最初にスカウトされたとき田舎の両親が「紅白にはいつ出れるんだい?」と訪ねたこととか、テレビを観るたび最後のスタッフロールでオレの名前を探した、という話を聞くと、やはり人の子としてはチクリと胸が痛む。痛むのだが、しかし、そうしか生きられなかった自分がいるのだ。それでも、何も出来なかったよりは、こんなに良いもの書いたぜ、と報告出来るだけ幸せだと思ってる。

*1:スイーツ(笑)
*3:一応みんな口々に褒めてくれたので

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2008年3月30日

歌なんだから語りかけるな。

これはもう昔からの僕の個人的趣味なので、しょうがないので許してほしいんだけど、ともかく、歌とか音楽というのは、歌や音楽である以上、音楽として成り立たなければ存在の意味がないと考えている。

だから、語りかけるように歌う、とか、言葉が染み渡る、とか、そういうジャンルの音楽(って言えるのか?)が大嫌いだ。よくいるでしょう。どっかの田舎に行って大自然の中でアコギで歌ったりする人*1

たとえば歌を歌っている人に対して、詩がいいとか言葉がいい、という褒め言葉は、それはイコール曲はつまらない、と言われてるのと同義だと捉えるべきなのだ。そんな褒め言葉は文芸の分野なんであって、僕にとっては音楽に対する褒め言葉ではない。
そういう事を重視するなら、例えばトラックだけ流して朗読とかラップにすればいいだろうと思う。その言葉にメロディが付いてる理由を考えてほしいのだ。歌というのは総合芸術。言葉とメロディと和声進行による感情の動きが、すべて見事にリンクしたときにだけ起こる相乗効果のリアリティ。そのどれが欠落しても音楽とはいえない。

音楽を創っている、と自負するならば、言葉に費やす時間とエネルギーを、ちゃんとメロディと和声進行のほうにも費やせ、サボるな、と言いたい。そうしてサボった結果、完成度の低い楽曲になってもそれ自体は自己責任でしょうがないけど、それを持って歩いて、路上だの慰問だので、弱者に媚びたり押し売りするなと言いたい。

アーティストみたいな人を見慣れていない、そういった音楽弱者な人々は、目の前で目を見つめられながら「語りかけられる」ように歌われると、「素敵…」って騙されてしまうだろうが。極めて卑劣なやり方だ。

なぜここまで厳しい事を書くかというと、それは、その手の方々が絶対に手を抜いていると確信するからである。何度でも書くが、これは「音楽」なのである。朗読ではない。歌詞に費やすのと同じだけの努力と時間を、音のほうになぜ割かなかったのか。それができないのなら、なぜコラボレーションなり共作者を見つける努力をしなかったのか。それはメロとか音楽というものを舐めてるのではないか。適当に音程の高低が付いていて、あとはパフォーマンスや歌声でごまかせば、楽曲「風」なものになるだろう、的な傲慢さがなかったか?

そういうことは中高生にのみ許される事であって、いい年をした大人のやることではない。音楽と言うのは、そういった傲慢な人を惹きたてるための道具ではない。そういう行為を日々犯しながら、「音楽とは音を楽しむ事だ」などと詭弁をほざく人は、全員音楽の前にひれ伏すべきだ。

*1:一応断っておくけど、そのジャンルでもプロの人はちゃんと、それなりの完成度あります。

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2008年2月21日

伝言ゲーム的ミクスチュア

さて、CD再販ブームで若者はマニアックな音楽も基本にしてしまったって話まで来ましたが、そうすると前々回の「今のやつらは音楽ぜんぜん知らんよ」と矛盾してくると思います。

CD再販ブームの恩恵を受けた人々の人口が多かったので、結果的にその影響下にあるオリジナル楽曲群もそれまでに比べると圧倒的な量だった。それらが日本中に溢れ、新しい子供たちは皆それらを聴いて育ち。そうして彼らは、オリジネイターに当たることなく、多種多様な音楽性を身に着けたのだと思われる。
「まったく音楽の基本を知らない」筈の若者*1が作る音楽が、多様性があったり意外なほど高度なコード進行*2で構成されてたりするのも、そのせいではないかと考える。

以前ここでオレは「音楽は全てデジャヴだ」と書いた。何も知らないはずの若者が書いた曲の、表面を剥いだ一枚奥には「CD再販世代」の音楽性、そしてもう一枚剥いだ奥の奥に「オリジネイターの影」があり、そこが読み取れる人には今の音楽も楽しめる。ストリートのゆずもどき連中に「君らエヴァリーブラザーズ知ってる?」などと言っても意味ないのだ。

実は、これらの特徴は今に始まった事ではない。70年代中盤から何度もリバイバルブームはやってきたし、懐かしい香りのするミクスチュアポップは存在していた。しかし日本では洋楽黎明期世代の「するべき論」的思想により、オリジネイターに当たらず音楽をする事やジャンルやルーツに無知な事は恥ずかしい事とされていた。故にオレは彼らに勝つため彼らをはるかに上回る事柄を知る事に膨大なエネルギーと時間をかけたのだ(オレの音楽活動の最大のモチベーションは今でも「復讐」である)。

様々な音楽が伝言ゲームのように伝承し広がり、最早オリジナルのメッセージが何なのかさえ判らない。しかし読み取れる人にはちゃんと読み取れる。別にぜんぜん特殊な能力なんかじゃない。「空気」として感じ取る事。「あー、なんか青い空の音がするなあ」とか、そういう感覚は、そんな音楽的デジャヴから来るのだ。既にどこかで類似の音列を聴いていて、それがそういう気分を運んでくるのだ。それの何が悪い。音楽なんかみんな思い出の中にあるんじゃないか。

過去を超える必要もないし、例え稚拙だろうがなんだろうが、あなたはあなたの書いたオリジナルをなんら恥じる事は無い。

何度も言うが「今が最高の時代」なのだよ。全然悲観なんかしなくて大丈夫。

*1:オレの印象では概ね20代前半
*2:洒落ではない

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2008年2月19日

恐竜の退場

前回のエントリを書いた翌日、知人がやってた音楽プロダクションのうわさを聞いた。「カバー曲をやるイベントばかりしていて仕事が減った」というものだった。あまりのタイムリーさにびっくり。

もちろん、その事務所も最初からカバーアーティストばかりだったわけではない。しかしワンマンで通っていた事務所代表が、前回書いた典型的な「カバーする事で天才の音楽に触れたい派」だったのだ。彼は、そういったタイプの人によくあるように、若者に「音楽とはこうあるべき」論を押し付け*1、自身も先達の優れた音楽を率先して演奏し、その素晴らしさを布教していた。結果、ライブやイベントごとでの、オリジナル対カバーの比率が2:8程度となってしまい、その結果がそういうことらしかった。

以前散々書いたけど、オレは昔から、自分らの世代の上にどーんと君臨してる、そういった世代が大嫌いだった。何につけ「するべき論」で語り、彼らの文化や考えを押し付けてきた。そのワンマン代表も典型的なそんな世代だった。ともかく「命令絶対規則はいっぱい音楽共和国」だったのだ。

その常識が覆るときが来る。それが90年代前後からのCD再発ブーム。過去の名盤から知られてなかった逸品から、ともかく片っ端にCD化。加えて、渋谷系元祖とも言える人々が、今まで隅に追いやられていたソフトロック、サントラなどと言った音楽に光を当て、その存在と素晴らしさを若者に広く告知。それまでマニアしか知る由の無かったそれらの情報が若い音楽ファンの一般常識となったのだ。

そうして逆襲が始まる。それらの新発見音楽に、旧来の世代はほとんど着いていけなかった。旧来世代の提唱する音楽に飽き飽きしていた若者は、新発見音楽こそ自分たちの音、と理解。そうした音楽に影響されたアーティストの書くオリジナルも当然また素晴らしく、国内での楽曲レベル平均をどんどん上げた。自分の言葉と音を持つものには、誰も敵わなかった。

結局、いまや旧来ロックはかつてのジャズのような立場となっている。年齢が上のマニアックな人々が楽しむもの、みたいな。あるいは、バーなどと言ったラウンジ向け音楽*2

この話は個人的におもしろいな。次回もまた続けようと思うよ。

*1:本人は押し付けているつもりは無い
*2:反体制の象徴だったのにねえ…

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2008年2月15日

カバーとオリジナルの狭間

いつまで経っても他人の曲のカバーばかりやる人と、ある段階からオリジナルをやるようになる人との違いはどこにあるのか、最近考えている。

オリジナルを創ったり歌っている人でも、いきなり初回からそうということはないだろうから、いくつかコピーなどしてみて、その後オリジナル創りにシフトしてるはずだ。しかしいつまで経っても他人の曲をコピーし続ける人もいるのだ。

カバー好きな人というのは、その楽曲なりアーティストを心から敬愛してる事が多い。少しでも近づきたい、とか、理解したい、という気持ちがそうさせてる気がする。また、話を聴いてみると、カバー好きな連中は意外に恥ずかしがりの人が多く、自分のオリジナルなど人に聴かせるのはもってのほか、と思ってるフシもあるね。頑張って創った処女作が、敬愛するアーティストの足元にも及ばずへこみまくり、それがトラウマになったという人もいる。

前も書いたが、オレの知り合いのカバーをやってる人々は決してテクニック的に下手なわけではない。むしろオレなんかからの目で見ても、すっげえうまい。それなのに、オリジナル曲の仕方がわからなかったわけだ。

さて、そんな自分はいつオリジナルにシフトしたかというと、やっぱりごく初期のうちだった。幼少の頃から様々な音楽を聴いてきて、小学生の段階から、お世辞にも作品とは言えないものの、自分なりに鼻歌的作曲をしたりなぞし、自分の中で「自分の歌を作る」という小さなモチベーションを育て続けてた。

当時の自分の特徴で、いまでも面白いと思ってることがある。それはどんな有名天才アーティストでも「全員自分のライバル」と思ってた事だ。たとえば小学生の自分はポールマッカートニーが好きだったが、敬愛とか尊敬ではなく、完全に「自分の仲間&ライバル」だと思っていた。
いつでもきっかけや機会があれば、彼の隣で一緒にセッションとか共作できるつもりだった。曲についてディスカッションし同じ気持ちで共演できる気でいた。

この気持ちは今でもあまり変っていなくて、マッカートニーに限らず、和洋メジャーマイナー問わず、音楽をやっているものは等しく全員自分のライバルと思ってる。
この辺のオレの考え方は、カバーばかりやってる人にとっては、神を恐れぬ行為というか、ふざけるなと思う事だろう。

先日あるライブハウスに出たときに、そこのメインミキサーの方と「最近の人たちはカバーやらないですよね」という話に偶然なった。

「なんでだろね?」とオレ。
すると彼は「オリジナルのほうが簡単で楽だからですよ」「今音楽やってる連中は、音楽の常識とかジャンルとかほとんど知らないよ。これ知らなきゃ話にならんだろ?みたいな基本すら知らない。人のコピーとかするより自分で作ったほうが楽だからだろうねえ」。

これが現場でやってる人の実感だとすれば、そんな状態でみんなよくあれだけのオリジナル曲を創って歌ってるもんだと、逆に感心してしまった。

昔聴いた話でU2ボノのおもしろいエピソードがある。彼らがブレイクして有名になった頃、在英大御所アーティストたちとセッションになり、全員でロックスタンダードを次々演奏し始めたが、ボノはそれらの曲をほとんど知らなくて参加できなかった、という話。これ真偽のほどはわからないけども、なんとなく有り得る話のような気がして興味深く聴いた。

今の日本もちょうど同じような感じになってるのかもしれない、と思った。

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2008年1月14日

私は初音ミクじゃないっ!

オレが長いことプロデュースしてる女性のレコーディングが昨日久々にあった。この方の場合ちょっと関係が特殊で、他の子のようになかなかスムーズには事が運ばない。何故なら、この方は自己存在証明のために歌を歌っているからだ。もちろん他の子もそうなのだけど、昨日の方の場合、それがもっと繊細で複雑、というか、自分の中でのイメージと、実際の完成度との違いに「これでいいのだろうか?」とものすごく悩む人なのだった。
そんなわけで彼女とはよく喧嘩になるのだが、昨日はその頂点だったとも言えた。休憩中にたまたま観たビデオで流れた、某アニメ声優さん(SH)の歌がきっかけだった。


「なにこれ?ちょっと声が良いからってなにこれ?」
「修正しまくりで、それでもこうやって売ってるわけだ」
「こんなこと自分がされても意味ない、そんなの私じゃないっ」
「こんなんでいいんだったら、さっさと他の子探してくれば?」
「私は初音ミクじゃないっ!貴方の言いなりのお人形じゃない!」

おー!
彼女の口から「初音ミク」!
否定的意味合いでの「ミク」言及キターーーー!
笑。


この発言は嬉しかった。実はちょっと前までオレらは「初音ミクはおもしろいよね」と言って喜んでいたのだ。しかし実際は、様々な想いや葛藤があったってことだよね。こうして思いを吐き出したあとレコーディングは再開、その日のベストテイクをものにすることが出来た。

以前も書いたが、実はオレも自分のプロデュース作品に、べったり「自分色」を着ける人間である。しかし、自分がそうされることの拒否感もよく知っているので、相手が不快に感じる、というその気持ちや、そうならない寸止め加減もよく知ってるつもりだ。今のオレは、相手に「どうしたいか?」必ず尋ねる。なんでもいい。イメージでも言葉ひとつでもいいから言ってくれ、という。
たとえばそれで相手がひとこと「オレンジ。かな…。」と言ったとしよう。そこからイメージを膨らませて「オレンジ」な曲を創るのだ(オレが作るのは「曲」。サウンドではないことに着目。オレは常に「曲」で完結させることが究極の目標なので)。

この話は語りきれないな。またそのうち続きを書きたい気はする。

関連過去ログ(両極端)。
ヴォーカリストを不在化させる初音ミク
自分の存在の証が欲しいのです。

関連ブクマ。
POP2*0

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2008年1月12日

脱ぎ捨てた服

昨日のエントリ含め、最近の記事は偏見に満ちているように感じられる方も多いかもしれない。しかし、全て自分の実体験から導き出した結論であり、「そういう傾向がある」のは否めない事実だと感じている。

過去もそうだったが、オレがこういうことを言い始めると、大概周りの人間は黙り始め、孤独な状態になる。オレは第一印象がとても好印象らしく、また物腰も口調も柔らかなので、その裏に隠されたオレの実際の性格を知ったとき、その落差に驚いてみんな退いてしまうのだ。決して嫌われるわけではないのだが、気軽な友人、という間柄から脱落するんだと思う。

接客業から音楽家に転身する、その前後で非常にこういうことが多かった。それまでの友人はほとんど離れてしまい、かといって誰も理解してくれず、毎日孤独で、泣き喚きたいのを必死にこらえながら暮らした。そのとき満身の思いで製作していたアルバムが結果的に認められたわけだから、結局「そういうこと」なのかもしれない。

音楽家に転身しアルバム製作が終わってから、徐々に新しい交友関係が開けていった。それまで決して会うことのなかった種類や職種の方々と知り合った。そしてその誰もが、オレと同じ悩みを共有していて、お互いに「わかる、わかる」と言い合い、がんばろう、と励ましあった。悪い言い方をすれば「傷の舐めあい」ではあるが、それでも舐めあう相手が居るというだけで、明日も生きてみるか、という気持ちになったのは事実だ。

彼らは決して助けてはくれない。自分を救えるのは自分だけと判っているからだ。だから「頑張ってくれ」しか言えない。安易な「頑張って」は昨今とかく非難されがちだが、この「頑張って」は本当に価値があるよ。本当に価値がある「頑張って」はそれを言われたものにしかわからない。そして、それを受け入れられる準備が整った人間しかわからない。

先日書いたことだが、オレは同じ場所に留まるのが嫌いな性格だ。だから誰かのマニアをいつまでも続けている人が理解できないし、他人を信仰し続けるような種類の人とも理解し合えない。
それは別に、オレが飽きっぽいからということではない。対象を食い尽くすと次に行きたくなってしまうのだ。もう充分得る物は得た、と身体が判断し、受け入れなくなってしまうのだ。

昨年末アルバムの製作が終了し、会社も終わり、季節も変わる。つまり衣替え。お世話になった古い冬服を脱ぎ捨てる時が来たってこと。この「衣替え」という概念は、15年前の転身の時に気付いた考え方だった。そっか。オレは古い服を脱ぎ捨てたんだな。と。

まぁ凹んで居ないといえば嘘になる最近であったが、少し時間が経ってから、表に現れない部分でいくつか応援メッセージを頂いた*1

心からお礼を言いたい。


さて。新しい服探しに行かねば。ギャル系にしようかな(は?)。

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2008年1月10日

誰かのマニアであるということ

自分が音楽をやっている身でこんなことを言うのは甚だ失礼だと思うのだが、特定のアーティストなりバンドの熱烈なマニア(ファンではない)というのは、つまりその事実だけで、どこか人間的欠陥がある人だと思っている(もちろん自分も含む)。
彼らは、自分がその対象の一番の理解者で全てを知っていると誤解し、日々の言動もその信念を元に行なう。ほとんどの場合、誰に指摘されても、自説はまったくと言っていいほど曲げない。なので、ファン同士、マニア同士で諍いが頻繁に起こる。こうなると宗教だよな。
これが一般人だと「まぁしょうがないねえ」で済むが、こういうマニアというのは熱が講じて、その世界の一人者になってしまうことがままあるので、そうなると実害を撒き散らすことになり、始末に終えない。
たとえば、そういう方々の出版するアーティスト研究本などというものに顕著である。マニアとしては一流だからそのデータは確かに素晴らしいものであるが、人間的欠陥がある方々なので、読んでいて不快になることが多いのだ。そのアーティストをべた褒めし、返す刀で敵対アーティストを貶しまくるとか*2、読者やファンの殆どが「それは間違いですよ、あなたの勘違いですよ」と指摘しているのに、絶対訂正しないとか。それはもう大人気ないことこの上ない*3

そんな彼らと付き合ったり著作を読んだりすると、本当なら関係ない筈の、そのアーティスト自体も嫌いになってしまう。実際に過去オレは、そういう事情で聴かなくなった、或いはファン熱が冷めてしまったアーティストが結構居る。

なので今のオレは、誰かのことが好きでも、決して口外しないようになった。汚されたくないからね。そして、そういった自称マニア連中からも距離を置くようになったのだ。

以前ここで書いた、カバー曲をやらない主義という考えはこういう過程で生まれた。おっさん世代はあまり娯楽がなかったからか、ともかく「思いが重い」人が多いのだ。しかし時代が昔なので洋楽データの輸入絶対数が少なく、少ないデータのみで勝手に思い込み勘違いしていることが多く、またそれを訂正してあげても直さない。本当に困る人たちである。
オレが勝手に今の30代以下の世代に期待してるのは、彼らの世代にはこういったことがあまり見られない気がするからなのだ。全てのメディア関係の価値観を、一旦フラットにしてほしいと心から願っている。

焼き野原の後から新しい文化が生まれる。自分もその時に生き抜いていけるよう準備はしておこう。

*2:ただ褒めてりゃ良いのに貶すほうは余計
*3:以前からよく書いているビートルズ関係のマニア本出版利権などがそれに当たる。

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