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2013年8月 9日

天然を必然にして数値化したヒト~松任谷由実

荒井由実時代から、一応リアルタイムで知っていた身分で、雑感を語ってみる。荒井時代のヒット曲はルージュの伝言とあの日に帰りたいで、僕も当然チャートなどでうっすら存在を知ったものだが、当時はそれほど魅力に感じていなかった。ずいぶんあとになってからふと興味が湧き、あるツテでファーストアルバム「ひこうき雲」とセカンドの「ミスリム」を聴き、その瑞々しさと斬新さにハマったけども、そのとき既に本人は「松任谷」であり、それ名義での活動から観れば、一般的には「過去の天才少女」ということに過ぎなかったように思う(あくまで個人的な印象と、僕の周りの人々の反応から見た感想です)。荒井時代の天才少女ぶりと比較すると、当時の松任谷の活動も存在も地味であったし、なにより音楽家としての信頼度が、同時代の所謂「ニューミュージック系」人気アーティストに比べると、どこか危うく薄いような印象があった。たとえば松任谷由実が何かの音楽を担当した、と聴いても、正直ピンと来なかったし、当時人気の、例えばゴダイゴなどに比べても、松任谷の立ち位置は「サブ」という存在に過ぎなかったように思う。まさに「ラーメン屋のテレビで見るような音楽ではない」のであった。

さて、そんな昔話は僕の故郷時代の話で、上京してから僕の意識は一変するのだ。北海道と違って、松本隆的世界観や、ユーミンの音楽観が、東京の風景や空気に想像以上にハマることに気付いた僕は、それら(ティンパン系)アーティスト達のヘヴィリスナーになった。彼らの描いてる世界は、あくまで本州以南の世界観であり、北海道に通用するものではまったくなかった。季節感もまったく違ったし、匂いも色彩もまったく違った。東京で初めて聴いたそれらの楽曲が、とてつもなくリアルに聴こえることに僕は大変ショックを受けた。世間的に浸透しているとか、そんな下世話なことはどうでもいいのであった。ともかく作品として完成していること、それがすべてだった。そのとき僕は、田舎モノにはわからない音楽や文化というのは確実にある、と悟った。そして、音楽家を目指していた僕は、そういう「ジャパニーズ・スタンダード」を知らなければ日本で生き抜いていけない、と強く思い、そこから10年余り、洋楽ロックから離れ「JPOP」というジャンルを聴き続けることになる。

東京に出て改めて聴いた松任谷由実は全てが新鮮だった。荒井時代とは違う、何か別な世界がそこにあった。最初は気付かなかったが、やがてそれは「計算」ではないか、と思うようになった。と言っても、凡人が言うところの計算じゃないのだ。彼女ならではの「自己分析」による計算なのだ。荒井時代に人々を魅了したもの、それを踏まえつつ、天然ではできないようなもの、綿密に計算されて、巧みにユーミン色を混ぜつつ「生産」していく。彼女の「自己分析」は他者に比べて抜きん出ており、彼女自身が発見した「公式」に当てはめて、それプラス、前述のニューミュージック系他者、または往年の歌謡曲などといった下世話成分も研究成果として加味したうえで、徐々に、全国に通用する「ユーミンブランド」というスタイルを完成させていったのであろう。個人的には、松田聖子と麗美に書き下ろしていた時代に、それは完成したのではないかと思っている。最初の、いくばくかの天然が入った作品から、末期にはちゃんとしたジャパニーズスタイル(ABCABCDCC)になっているのが見事である。そこで彼女は何かを掴んだのであろう。そして自身のアルバム「NO SIDE」~「DA・DI・DA」で自己名義としても完成するのだ。
そこからのユーミンは、みんなご存知のとおり。何かの音楽を担当、と言われても「ああユーミンならだいじょうぶ」と言わしめる存在になった。そのころには、かつてのニューミュージック系な人々は居なかった。結局、生きのこって継続したのはユーミンだけなのである。

いまの僕は荒井時代より松任谷時代のほうがはるかに好きである。そこには、簡単には枯れないぞ、というような気概があるし、計算があるし、それでも消し去れない天然があるし、なにより本人の努力の結果が作品として透けて見えるのが素晴らしいのだ。彼女は荒井時代の自分に溺れることなく、それを冷静に分析し、どのように展開させて継続すれば「仕事」になるか研究したのだ。天然は限界がある。彼女が目指したのは、それに根ざした生産なのだ。曖昧で不安定な「天然」とか「天才」とかいうものに惑わされず、きちんとした数値にして、安定生産を図りたかったのではないか。彼女の実家は「呉服屋」という「商家」である。売れるものを商品としてしっかり創り続けること。それには、もう枯れたとか、今日は気分がのらねえ、などと不安定なロック気質ではだめなのだ。彼女(と正隆氏)が目指したのは安定した「システムとしての天才ユーミン」なのであろう。それに当って、荒井時代の自らを分析し数値化し、工業生産化したのだ。そう考えると、非難されがちなバブル時代の「ミリオン」という数字も大変意味深く感じるだろう。僕が「ちょっと別な意味での」天才、として、今も彼女を尊敬して止まないのは、作品力だけではなく、そういった理由もかなり大きいのである。

もしJPOPの作曲家を目指すのであれば、松任谷時代の彼女の作品を順に聴き進んでいくことは、とても勉強になるはずだ。彼女がどうやって「JPOP」を作っていったか、その過程が全て見えるからだ。松任谷由実はJPOPを発明したアーティストのひとりであるといってもいい。JPOPの成り立ちの歴史が、彼女一人の作品を聴くだけでわかるなんて、すごいじゃないの。


以前書いたもの。「オレが選ぶユーミンベスト10」
http://karakawa.cocolog-nifty.com/egm/2005/04/10-b690.html


【追記】
ツイッターで、アルバムごとの印象などを語ったログが出てきたので、参考のために貼っておきます。貴重なリアルタイムの感想ですね。


- 30年間好きで居続けるって、たとえば僕は「ナイトウォーカー」とかの曲も、今も当時とまったく変わらない熱量で好きだけど、そういうことだもんね。

- あとは、「ずっとそばに」とか「時間の国のアリス」とかかな、当時ので今もそのまま好きなのは。そのまま、というのが重要なのね、途中で変わらなかった、ということだからね。そいうのってすごい不思議なんだよなー。

- これも84年かー。是非とも本人に歌って欲しかったんだけどなー。残念ながらセルフカバーがないのだ。他はけっこうあるのに。>麗美 愛にDESPERATE

- 84年あたりのユーミン本人はヴォイジャーとノーサイドなので、僕はどっちも後追いだからリアルでは知らないのよ、残念。

- なので当時で知ってる曲と言うと、その前の「ナイトウォーカー」になってしまうんですね。でもあれはホントにずっと好きだった曲のひとつ。貴重かも。

- 今はずいぶんユーミンにも慣れてシャッフルで出ても聞き過ごせるんだけど、それでも「ナイトウォーカー」と「よそゆき顔で」だけは、惹き付けられてしまうなあ。

- 昔はユーミンをそうやって聞き流すとか、とんでもねえ、って思ってたから。ちゃんと正座して聴くもんだっていう。

- あまり人には言ったことないけどね、2000年代の僕の神様がaikoだとすると、その前まではユーミンだったんだよ。

- 当時はホントにたくさん好きだった。歌詞も全部バイブルだったし、歌詞とメロディとコードで感じるバーチャルリアリティなんだから、感受性がないとユーミンの歌はわからないの!とまで言ってたんだよ僕はw

- その話を最後にした相手は、母の介護で引退したコラボ女子だったか…。いま思い出した。96年だ。そこまではそう思ってたんだ。。

- そのあと琴線に引っかかったのが、2001年に「夢の中で」なんだよな。5年後だ。それも後追いだったけど、それはよかったんだ。スユアの波で3曲だけ。久々に歌いたくなったんだよな。アルバムで3曲歌えれば僕はじゅうぶんだったよ。ユーミンだ、よかった、て。思えたから。

- aikoもそうだけど、ゆーみんも音楽的に分析したことがほとんどない。歌とメロディと歌詞だけ。分析すると終わってしまう。。という意識がすごくあって。だから神様なのだけど。

- 後追いで知ってすごく好きになったのは、「潮風にちぎれて」と「ヴォイジャー(曲)」だった。ちょっと地味だけどじわじわ来るのが好きだったんだな。

- あとは「トロピックオブカプリコーン」とかもすきだった。後追いは耳が肥えてるから、リアルみたいに好きになるわけには行かないけど、それでもそういうのは、今聴いてもいいって思えたんだよな。

- 90年代からだと不動の名曲「サンドキャッスル」があるので、そこは揺らがないけど、ほかにも小品で好きなのがけっこうあったよ。「この愛に振り向いて」とかはかなり好きだったと思います。

- 「サンドキャッスル」はね、バンドのレコーディングの帰り、大晦日だったんだけどね、車の中でFMで流れたのを聴いて「ユーミンだーー帰ってきたーー」って思ってすごく感動した。やっとこういう曲創ってくれたんですね、って。

- 10年ぶりくらいだったんじゃない?ああいうの書いたのが。つまりそれは10年経ってバブルが終わってしまったので、っていう悲しい現実でも合ったのだけど。っていう情報は後追いだけどw

- それまではずっと聴いてなかったの。でもそれで嬉しくて、そこから春よ来いのアルバムまでリアルでちゃんと聴いたんだよ。だからあそこの数枚は、リアルに自分の人生に重なってていろんな思い出があるな。

- それ以外では何度もいうけど、「昨晩」はホントにアルバム丸ごと好きで、何度聴いたかわからない。あまりに聴きすぎてそのあとは聴けなくなってしまった。それは飽きたとかじゃなくて重くなってしまったのね。

- いまでも、それこそ正座して聴かなきゃいけないアルバムみたいに思ってるところがある。ずっと気を抜けないんだモノw

- 「ランチタイムが終わる頃」ね。これもずっと変わらずに好きな曲じゃないかな。これら3曲は、どれも歌って気持ちがいい、というのがあるの。それがかなり大きいと思う。

- U-miz って私けっこう聴いてたんだなって気付いた。これ嫌いじゃなかったと思う。ヒット曲だけど「真夏の夜の夢」も好きだし。

- ティアーズで生演奏中心にけっこう戻って、昔っぽくていいとか思ったのだけど、その後のU-mizでは、上半身だけ人間(ドラムが)とかそういう組み立てになってて、最初は「なんだこれ??」みたいに思ったんだよな。でも慣れたら、いいかもって思えてきた不思議なアルバムだった。

- その後のダンシングサンは音は普通だった。同時代のほかのJPOPと同じというか。でもU-mizはちょっと違ったんだよ。それが当時は「?」となり聴き込み、それが今になって割といいなと思うのかもしれない。

- ちなみに上半身ナマっていうのは僕もよくやりました。打ち込みでスネアとハットだけ抜かしておいて、それだけを自分でプレイしてオーバーダビングするっていうの。楽しかった。私キック苦手だったのでちょうどよかったんですよw

- 話は戻りますが、音やアイディアとかでおもしろいなーって思って聴いたのが、U-mizが最後だったんじゃないかなって思う。

- アラームアラモードもちょっと音が違うアルバムなんだよね。1曲目以外はそれほど好きなのはないんだけど、音が気持ちいいので、よく聴いたのだった。単純に音がよかったからだね。ホントに。

- 真夏夜夢っておもしろい曲でさ、上半身ドラムもそうだけど、ギターも、当時外国人とかでばりばり手数多いミュージシャンみんな使ってた時代に、いきなり鈴木茂氏で、でもそれが妙に引っかかるとか、そういう違和感と、でもヒット曲っていう不思議なマッチングが今でもおもしろく思うんだよ。

- 普通、大ヒット曲っていろいろ完璧じゃん、なのにあれは違うんだよ、それまでのユーミンの流れでいえば、いくらでも完璧に出来たはずなのに、なんでいきなり荒井時代みたいなスカスカにしたかなー、と思ったんだよな。えーコケルんちゃうん?って心配したんだもんw でもヒットしたからすごい。

- こういう感想は、リアルで追ってたからこそのものなので、この数枚は追っててよかったなって思います。いいときに追ってたなって思う。たまたまだったけど。まあでも耳と感覚に引っかかったから追ったんだとは思うけど。

- それに比べると「春よ来い」は嫌いではなかったけど、みんながいい、いい、好き好き言ってたので、ああなんか、そういう消費されちゃうのか、それで花道かーって思ってちょっと寂しく思ったよね。で、僕もそこで追うの辞めちゃったのだし。

- ユーミンで、アルバムに2曲もミリオンとかありえないので、すごく終了感があったのだった。駆け込み需要みたいなさ。。

- そんな90年代の前半から後半へのつなぎでした。

- そういえばアラームアラモードだけ、後追いだけど、他のよりちょっと先に聴いたのは、当時、別冊少女フレンドで「ユーミンの曲を題材に描く」というシリーズがあって、それで「3Dのクリスマスカード」があったからなのね。へー、そんなクリスマスソングがあるんだ、と思って聴いてみた。地味だったけど嫌いじゃなかったよ。

- 思えばその辺からがバブルだったんですね、たぶん。なるほど。

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2013年8月 8日

母の人生。僕の人生。

ちょっと前に、女性の生理関係のことがネットで話題になっていた。デリケートな内容で、男子の僕は口出ししていいものかどうか迷ったのだが、結局、そのときは口を出すのをやめた。その後、時間も経ったので、ちょっと書いてみようと思う。

うちの母は生理が大変重く、子供心にも毎月毎月ホントに見るに忍びない状態だった。痛みだけでなくあらゆる体調が悪くなって、精神的にもひどいようだった。仕事を休み寝込むのは当然として、嘔吐したり泣いたりするなど、こちらにもリアルにその苦しみが伝わってくるくらいの激しさだった。今思い返すと、それは父との関係によるストレスも大きかったように思うが、実際に身体も大変だったのだろう。看護士だった母にとっては、さぞかしつらいことだっただろうと思う。
幾度かの受診(かつての職場)の末、何がしかの内臓関係の不具合が判明し、懇意だった院長の勧めもあって遂に手術を決意(母は詳しく言わなかったので判らないが)、どちらかの臓器を採ってしまった。入院の前、母は毎晩泣いており、父が慰めていた。ひどい父ではあったが、それでも慰める相手は母にとって彼しかいないのだと思うと不憫だった。
それがちょうど中3の時で、父も母も病院に付きっ切りになったので、家での僕に自由時間がたくさんでき、それまで観なかったTVドラマをたくさん見るようになった。それが「僕の故郷は多摩にある」になったのである。
ずっと共働きだったので、退院後、母がしばらく家にいたのは嬉しかった。ちょうど受験期だったけど、早く帰宅して母との会話を楽しくしたものだ。

術後の母はどんどん健康になって行った。病弱が代名詞みたいだった母は、まったくそうではなくなり、嘘みたいにすこぶる丈夫になり、それにつれて発言力や行動力も増していった。月一の苦痛にも煩わされることがなくなり、それもかなり大きかったように思う。近年の母は(70代だが)、丈夫で凛としたカッコいい女子、というイメージで、若い子からもそう言われると言って喜んでいる。背が高く、見た目もそうなってるのもかなり要素としてでかいのでは。まあムスコとしても、それは嬉しくないことはない。あんな病弱だった母に、こんなに生命力があったことには驚いたけど、反対に、元気な父が倒れて施設入りするとか、ヒトってのは判らないものだなあ。

知人女子が先日、月一の苦痛について僕に話してくれた(話しやすい相手なのか、僕はよくそういう相談をされる)。聞いた症状が、母に劇似(年齢もちょうど一緒だった)だったので、母の手術と、その後の嘘みたいな健康について話し、家族が手術を進めるのであれば、応じてみるのもいいのではないの?と言った。彼女の息子も、ちょうど当時の僕と同じ年齢だったのもある。そのアドバイスが適切なのかわからないけど、彼女のこの後の人生がよくなるのであれば、いいなと思う。女性としてどんな気持ちか、までは僕も当事者的には判らないけど。

僕の故郷での人生は、精神的に不安定な両親と、それプラス身体的苦痛を抱えていた母、というダブルの抑圧みたいなことがあって、そんな日々の生活を毎日どうやってサバイバルするか、というのが最大のミッションだった。常に親の顔色を伺って過ごしていたし、どっちかの空気を常に読んで、うまく立ち回るよう気遣った。その習慣は今も残っており、だからこそこんな性格になったんだろうと思う。
ストイックな音楽性や田舎モノ嫌い、お笑い好き、審美眼など、そんなソフト関係の感性は、全てそんな両親と付き合う過程で培われたものだと思う。僕はよく、他人や共演者に緊張感を与える、と言われるけど、それもそんな両親から受け継いだ感性だろうと思う。僕の中にあるのも常に緊張感だからだ。感情を滅多に露にしない、とも言われるけど、それは両親を反面教師にしたことから身に付いたものかもしれない。もしくは「心が死んでた」のかもしれないけど。だからこそ、僕にとって「生きたい」と思うことは、すごいことなんだよね。


以上です。
さすがに自分の家庭のことを赤裸々に書くことは抵抗があった。全員存命ですし、母にとっては今だって、このことは心が引き裂かれるような思いかもしれない。でも、この記事を検索で訪れて読んだかたが、何かの参考になったりするのであれば、少しでも意味はあるかもしれないと思って、そんな母を持った子どもの立場として、当時を思い出して書いた。そんな僕の気持ちも理解いただけたら嬉しいかな。と思う。

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