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2012年10月23日

社交辞令の国のヒト

なんかいろいろ思ったので、ダラダラ書いてみようと思う。

社会人になり日々生活してると、いわゆる「社交辞令」というものの必要性を感じるようになるだろう。それが「オトナの世界」というものかもしれない。
ところが僕の場合、子ども時代から社交辞令の存在を、嫌でも突きつけられるような目にいろいろ遭っていて、だから世の中は社交辞令だけで出来ている、というのが常識、みたいに思っていた。

それに疑問を持ち始めたのは高校時代。部活の友人から「おまえは調子がいいな」と言われ、社交辞令じゃなく、本心でホントにしたいことや言いたいこと、そして誘う相手を選び、本当に実行したいと思うことだけをしたほうがいい、と忠告を受けた。その友人がそんなことを言った裏には、部活の中でも社交辞令がはびこっていたから、音楽をするのに(吹奏楽部だった)、そのようなものは邪魔じゃないか、という、その彼の純粋な思いが始まりだった気がする。
確かに、心を開いて満身の演奏活動や表現活動をするには、社交辞令なんか不要だろう。その時はそう思った。だから、それ以降、自分の環境の影響で社交辞令が多くなっていた自分自身の言動を、見直して気をつけるようになったのだ。
その後は大学。やっぱり調子がよく、社交辞令が上手い先輩はいた。周りのオトナもそういう人が多かった。今振り返ると、関西は多かった気がするね。まあそんな環境でも、自分と判りあえる親友が数名でき、その彼らとは本音で話したから、特に息苦しい思いはなかった。

その後東京に出ると、寮生活が待っており、そんな特殊な場所では社交辞令もクソもないから、みんな赤裸々だった。おもしろいのは、寮生活がそんなだったおかげで、逆に寮の外の一般社会では耐性ができ、社会人楽団の人たちとは普通に気持ちいい話し方ができるようになり、好感を持たれるようになった、ということだ。
今振り返ると、このときに完成した東京時代の「社交的な性格」が今の僕の「アーティストイメージ」の基本になっており、今の僕を「爽やかな印象の人」と思ってみてる人は、この「東京社会人モード」で僕が接することが出来た相手なんだろうと思う。今も同じだが、相手が不快な存在でなければ、僕は、このモードで居ることができる。だから、僕のことを「すごく不快な人間だ」と感じる人がいたら、たぶん、その人は僕に不快感を与えてるはずだ。不快感には不快感で返す、という癖があるのかもしれない。自然にそうなってるので、自分はあまり意識してないんだけどね。

大阪時代と同じように、東京でも音楽の仲間ができて、その中では、本音で話そう、ということが前提になり、そういう仲間だけで自然に固まった。高校時代に気付いて以降は、一貫してそういう交友関係を求め続けた、ということだろうと思う。それは、バンド時代、営業時代、キャバレー時代、ホテル時代、音楽家時代、と続いた。そういう環境に、すごく長い期間居続けて、世の中もそういうものだと、勘違いしそうなくらい、そういうことに慣れてしまっていた。もちろん僕も常識はある。社交辞令で接しなければいけない相手には、ちゃんとそうしたし、今でもそうしてると思う。

そんな年月が過ぎて、長年住んだ東京を離れて、この町にやってきたわけだ。土地は変わったが、仕事相手には、もちろん一般社会人として常識ある接し方を心がけたし、特に問題も起こらなかった。ところが、一般人や音楽仲間への対処に、ものすごく苦労するようになった。一言で言うと、その種類の人々が「本音」で話してるのか、「社交辞令」で話してるのか、僕にはまったく判断がつかなかったからだ。それまでの長い社会人生活で、一般人や仕事上の付き合いは社交辞令な会話、音楽仲間や近い関係には本音、というように使い分けの術を習得してたはずだったのだが、肝心の「見分け」ができなければ、それが応用できない。こっちの人々は、旅行者やヨソモノには(その立場でいる段階は)きわめて優しく、どう見ても、すべて本音で言ってるようにしか見えず、僕はとても困ってしまった。全員を疑うわけにはいかない。しょうがないから、すべて言葉どおり信用することにした。結果として、相手の言ってることすべてを真に受けて、泥沼にハマってしまった僕の数年間が始まったわけだ。

去年あたり、やっとその泥沼から抜け出せそうになったとき、僕はある人に「こっちの人々は基本、全員、調子がいい」と言ったことがある。この土地の人々の特徴として「旅人には優しい」というのがある。これは、この土地に限らないかもしれない。観光客の多い有名観光地とかは、そういう傾向があるかもしれない。旅の人には、気持ちよく帰って欲しい。そういうことだろう。僕自身、旅で来てた頃は、大変暖かく接しられたし、手厚い歓迎もされた。まあ誰でも、客人には「いいところ」を見せたいと思うのだろうが、この土地のそのレベルは、過去いろいろ経験した中でも、最高レベルに近い気がする。外向けにはすごくいい顔をする。しかし、実際に住んでみると、そのにこやかな笑顔と優しい言葉は、全部「そのとき限りのもの」だったと気付くのだ。

ホテルマンをやってた僕が今思うのは、こっちの人はみんなが「接客業」をやってるみたいな生活を送ってるんだろう、ということだった。確かにホテル時代の自分もそうだったが、お客さんにはよい接客を心がけるが、従業員同士は割りとどうでもいい。そう、ちょうどユニホームみたいな。ベルボーイ、フロント係、レストランのメイドさん、料理長、支配人、その他もろもろ。みんなコスチュームを纏ってるときは、ビシッとカッコよく決まっていて、そういう役割を演じてまっとうしているのだった。コスチュームを脱いだ、その人々はだらしないし、放屁しながらタバコ吸い、競馬新聞を読んだりしている。しかし、コスチュームをまとって「ようこそ」と言ってる限りにおいては、とても素晴らしくカッコいい人なんである。

ホテル時代の経験を通じて僕が感じたのは、そういう表の顔と裏の顔が違うのは、ある意味「プロっぽくて」面白いのだけど、それは(そのとき僕が目指してた)音楽家とは、だんだん遠くなってくるのではないだろうか、ということだった。3年勤続して、その末期に思ってたのはそういうことだった。このまま、表の顔だけになってしまう自分はやばい。そういう危機感だったのだ。

そんなもろもろで、今の現状を準えてみると、自分が置かれてる状態はホテルマンに接客されてた状態であり、何かの誘いや、褒め言葉も、交友関係の潤滑油というか、「お客様、素敵なお召し物で…」というものと同質な、社交辞令だったのだろう、とわかる。それを、本音として受け取ってしまった僕が、バカといえばバカだったのかもしれない。


もうひとつ気付いたことがある。社交辞令を言う立場と言われる立場がある、ということだった。これはある種マウンティングにも似ており、苛めっ子と苛められっ子の関係にも似ている。
僕が子どもの頃、社交辞令を言われて傷ついたのは、僕が「言われる立場」だったからだ。「誘われる立場」と言い換えればもっとわかりやすい。誰かが僕に誘いかけることによって、何かの関係が始まる。僕は「待ち」の状態、というわけだ。
なので、立場が逆、つまり、僕のほうが誘う立場になると、今度は僕のほうが、安易に声をかけたりしないように気をつけなくてはならない立場となるわけだ。これが、高校時代の友人に注意されたことだろうと思う。高校生になり、部活仲間の友人も対等になる。そうすると、こっちから誘いかけておいて「ああ実は、あれは社交辞令だった」などと言えなくなる、ってことだね。そんなことを繰り返してたら「うそつき」になってしまう。自分がされてても、他人にそれをやってはいけない、特に立場が変わってからは。そういうことだったのだろう。

似たような事例として「ハラスメント」がある。弱い立場のヒトが吠えるから、それも時には毒抜きになるが、強い立場の人が弱い立場のヒトに対して同じことをすれば、たちまちハラスメントになる。高校時代の自分は、知らぬうちに「社交辞令ハラスメント」をしていたのだろう、いや、そうなってしまう立場にいつのまにか「なっていた」、ということだろうと思う。
僕はこっちに移住してから、一貫して弱い立場に在ったと思う。常に誰かから依頼を受ける立場だったし、受け入れる立場だったし、ヨソモノで遠慮しなければならない立場でもあった。そういう立場では、相手のほうが常に優位なので、何かの言葉や誘い、お世辞など、すべてが、下手すると僕にとっては「ハラスメント」になってしまう、ということだったのだ。僕はこの町のカーストで、一番下層にいたのである。少なくとも僕の中では、そう思い込んでるフシがあって、だからこそ、調子のいい誘いや、無遠慮なお世辞に切れたのであり、苛められている、という感覚がずーっと抜けなかったのである。相手は何気ない気持ちで言ったのだろう。でも、この土地での僕は、前述したとおり、まるで子ども時代のようであり、何も頼るものもなく、すべてを信頼して真に受けなければ、やっていけなかった。素朴な笑顔で「お世辞」を言われたら、それを疑うことなんかできないじゃないの。ニコニコ「今度遊びに行きましょ?」と言われたら、その言葉に嘘はないだろう、と思ってしまうでしょ。

でも今の僕は、そういう経験をしたから、今後は全員の言動を疑ってかかります、信用なんかしません、と言うような気分ではない。どんな目に遭おうとも、これからも100にひとつくらいの「本音」を探して、いろんな人と接し続けるだろう。そういう自分の生きかたでいいと思ってる。そんな僕はシアワセだし、バカかもしれないし、まあでも、根っからそういう「アーティスト()」なんだと思う。

それでいいのだ。


続き

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