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2011年8月 1日

音楽について「語る」と言うこと

過去ログも佳境になってきている。ちょうど半年くらい前に、とある「強力な出会い」があったからだね。

この土地に来てからというもの、たくさんの「音楽家」に会ったけども、ちゃんとした音楽の話が出来たためしがなくて、こっちには、そういう話が出来る相手なんか居ないんじゃないか、と半ば絶望してた4年だった。そんなこと思ってた時に、すごい偶然で出会えたので、これはもう運命だったとしかいえないだろうな。

ということで今回は、作曲家ツツミさんの事を語っている。


ツツミさんはウタダをすごいって言ってたらしい。僕はどうだったか?と尋ねられたので、単純に歌をコピーして歌おうと思って出来なかったので、難しい悔しいと思った、と応えた。

ツツミさんは完全に仕事と割り切り「自分の音楽」というものをした事がない、言っていたらしいのだけど、僕が聴くと全部ツツミさんのメロでコードなんだよなあ。それを「計算で」やっていたと言うなら、じゃあなんで全部好みだったんだろう?という疑問がわく。僕の好み=大衆の好みだったってこと?

ぜんぶ狙って、あのコードとメロだったとすると、それはそれですごい。「気持ちいいから」ではなく「これが受けるから」やってたってことだよね。ポテンシャル高すぎだよね。

僕は自分が気持ちいいことしかやってない。そういう意味では僕は、職業作曲家が計算で生んだ音楽を気持ちいいと感じ、再現して浸ってるってことでしょ。結果的に、自分は気持ちいいが作品として職業的に成り立ってもいる、という音楽になってると言う、不思議なことなわけだな。面白いよな。

そうすっと、以前ここで言った、作家の気持ちにリンクする、というのも勘違いって事になるだろう。ただの片思いだ。でも表面上は違いが判らないのだ。

まあただ「気持ちいい」にも種類があるからね、音として気持ちいい、仕事として完成度高くて気持ちいい、人が簡単に演奏出来ないの書いてざまみろと思って気持ちいいw とか。どれでも「気持ちいい」ことにはかわらん。

話変わって、レノンブライアン流派、マッカ筒美流派、というのがあるって話があって、それは拓郎流派と陽水流派との違いにも通じて、というような、暗号のような会話もした。

ツツミさん、拓郎のこと一目置いてたらしいのだけど、それは同じ流派だったからか、違う流派だったからなのか、ぼくらは意見が分かれた。


意見が分かれた、で終わりになってるけど、この後ちゃんと本人の話を発見して結論が出てる。私も意地悪だから、ここには書かない。読んだ皆様で考えてみてはいかがでしょう。笑。

作曲と言うものは、もちろん仕事でもあるけど、ある種の美学だと思っていて、それはある領域まで達することが出来た者だけが、楽しむことの出来る「至高の嗜み」みたいなものなんだよね。優れた職人芸であり、計算しつくされた仕事であり、極めて数学的なものである。声を出して何かの啓示を待ってたところで、いい音楽など出来やしないのだ。

もちろん私だって、まだまだ極めてない領域。今後も目指し続けるんだよ。もちろん。

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