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2011年3月26日

麓のヒト

もう1ヶ月ほど前になるけど、気になる事があって、あるヒトに会いに行った。

いろいろ尋ねたい事があって、初対面なのに関わらず、ぶっちゃけて質問攻めにしたのだが、彼も真摯に応えてくれて、一昨年以来勃発した数々の事件事件その他もろもろ、引っかかってる事が少しクリアになりすっきりした。

僕が今仕事で付き合ってる相手は頑固な人が多く(このオレが言う?笑)、そういう相手に煽られて自分もますます頑固さを強調させられてる気がする。ということを自分も判っているのだが、しかし、自分が馴染めない、または納得いかない、または尊敬出来ないような人や店とは、やっぱりどうしても付き合えないわけで、一人また一人、1店また1店、と距離を置くたび、いつのまにか全部の縁が切れてしまった。

それでも東京なら、友人も仲間も居るから孤軍にはならないけど、田舎じゃたちまちたった一人ですからね、ひとり部屋でもんもんと「あいつ嫌い、こいつウザい、こいつは最低」とか唱えてるうち、本当に世捨て人になってまう。
でも、だからと言って自分も曲げることは出来ないんだ、おまえなんかじゃ嫌なんだーと葛藤しまくってた、この1年ほどだった。

そんなわけで、今の僕には「主観」しかなかった。柔軟性とか客観とかないわけ。それが毎日きつくてきつくてしょうがなくて。誰かマトモな人、この凝り固まったオレの頭をホグシテクレー!と思ってた。

その初対面のヒトは東京に長く住んでたということだった。途中で偶然来訪した上品なオバサマも、東京暮らしが長く、資産家だということだった。そういった方々と、深い話、門外不出な話、つい先ごろ亡くなった仲間を偲ぶ話なんかをぼんやりしたり聴いたりするうち、自分がどんどん癒されてゆくのを感じた。人は同じタイプの人が集まるでしょ。そういうことなんだろうなと思った。

実は尋ねたいことって言うのは、例の放火事件についてなのだけど、そこは僕も関係してる部分もある気がしたので確認に行ったのと、あとは、どうしても納得いかない部分、つまり、そうさせた原因は少なからず男の側にあるのに、本心じゃないにせよ、茶化したり開き直ったり、別な場所で事件後たった2週間でのうのうと営業再開したり、といった厚顔さ、そのくせ文化人面してることが許せない、ということについて見解を聞きたかったということがあったのだけど、そういう部分は彼も同意してくれたように思ったので、ああよかった、マトモな人は普通そう思うはずだ、と少しホッとしたのよね。

特に「茶化す」ということについては僕も非常に気になっていて、関西のお笑いのヒトじゃあるまいし、事件そのものや犯人を揶揄するような、ネタにするような言説を公然としてたのは、こいつらどうなんだ?って正直思ってたし、その辺から、この町に対する思いが急激に冷めてきたのは確かだったね。ちょうどその同じ頃、あるバーに行ったとき、そこにいない別な常連客の悪口を、店の人みんなで言ってたのを聴いた事があって、ああこれは、僕のことも居ないところで何か言ってるなこれは、ってピンと来て、そういう人たちなんだろう、って思って。

なんかそういう狭いところで、瓶詰めのジャムみたいにグチャッとしてる人間関係は、ホントに嫌で、もうやだ、この瓶からオレは脱出させてもらう、おまえら好きなだけ砂糖にマミレテな!みたいに抜けてきた。その交友関係は全部一蓮托生で、業界内に占める割合もカナリ大きかったので、移住してからの人間関係のほぼ80パーセントくらいを、その時点で失った。そうして去年のツアーがあって、悟って今に至るって感じだね。

彼といろいろ話したあと、帰る間際に「その気があるんだったら、面会に行ってやれ」と言われた。あいつもひとりぼっちでかわいそうな奴だったが、こうして心配してくれる奴(おれのこと)が居るなんて、良かったよ、と。


そうだね。

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2011年3月13日

チャリティについて~そして夢の終わり

最初に。この度の大災害につきまして。

どんな言葉すらも軽々しく感じ、何も言えず。
僕からは、心よりお見舞い申し上げます、が精一杯です。


それに関連して。
チャリティについて、思う事がありますので、一言書いておきます。

僕はこっちに来て騙されてばかりだったし、過去の話でもそういうことばかり聴かされたので、こっちで音楽イベントなどで金を集めるというと、残念ながら、詐欺みたいに思えてしまいます。ですので、僕は、コチラでのチャリティ関連には極力距離を置くし、参加もしないという事を表明しておきます。

何かしたいなら、自力で、しっかり見届けられるものがいいと思うし、人にもそう勧めるつもりです。コンビニやポイント送付、できる方法はたくさんあります。自分自身が自分自身で。ひとりひとり。しっかりと考えて、見極めて、責任持ってすることを、この機会に是非憶えてほしいと思います。


追記(12月7日)

【顛末記~その1】
ちょうど災害の翌日、土曜日に、僕は、あるジャズピアニストのライブレコーディングの仕事を請けていて、こんな災害でどうなるのかと思ったが、ライブは予定通り行われた。みんな何か感じるものがあったのか、そこで演奏された音楽、また演奏者のパフォーマンス、どれも一級品で本当に素晴らしく、会場全体がみな同じ気持ちになったと感じたし、それぞれが何かすべきと強く思ったと思う。これが「音楽が出来ること」だろうと思った。
その同じ日の夜は自分自身のライブも入っており、それも通常通り行われたが、昼間のライブのお陰で、自分もとても前向きな気持ちで歌い終える事が出来た。音楽が出来ることはある。そういう強い気持ちが自分の中で確実に生まれた。その気持ちと、その日の演奏は本物だったと今でも信じている。


その純粋な気持ちを僕はもっと大切にしたいという考えがあった。この街を代表するジャズピアニストのライブが、あんなに素晴らしいものであったのだし、きっと他のアーティストも素晴らしいことを行ってくれるに違いない。そう思った。

その翌日には、一方の、これも街を代表すると言ってもいい、金管奏者のフリーライブがあった。僕は彼とも仕事上の繋がりがあったし、ジャズの振興のため無料奉仕していた彼に対する慰問の気持ちもあり、当然行くつもりだった。ところが当日の彼の告知を見て愕然とする。「本日のフリーライブはチャリティとします」…。

僕は目を疑った。「チャリティ??」「は??」。

僕の知る限り、そのライブはフリー、つまり通常は無料で続けてきたライブであり、お店からのギャラもなかった筈だった。そういう形態で継続してきたライブの筈なのに、その「どの部分」にお金が発生し、そしてそれを寄付にするというのか?また、何故唐突に、その日にそういうシステムになるのか?僕は当然納得できず、ライブに行くことはやめてしまい、翌日その彼に直接どういうことなのかメールにて問うた。そのメールが以下だが、一応彼の行為も立てるために柔らかく、また会場提供側の方針について納得がいかない、という部分も含めて書いてある。

今回のことで納得イカないのは(略)。普段はお金払わないじゃないですか。(略)それならそれでいいけど、じゃあ何故今回はお金が発生したのか?ってことなんですよ。何に対して発生したのか。お二人の演奏に発生したなら、普段も発生してないとおかしい。(略)僕も気にしすぎ、神経質なのかもしれないですが、何でも言うなりになってると、音楽家はボッタクられるばかりだと思ったんですよね…。

そうしたところ回答があり。

チャリティーに関しては、人それぞれ考え方があることを全く否定しません。今回のチャリティーも私が勝手に思いついて勝手にやったものです。今回のチャリティーは、(会場)に募金箱を置かせていただくという形式で行いました。いつもどおりお客様はノーチャージです。ですので、チャリティーに関しては、(会場)はまったく関係ないと思っています。場所だけを貸してもらったと考えております。また、ここから先は、お伝えすべきか迷いましたが、参考のために。去年までは、ノーギャラで行ってきましたが、今年に入ってから、(略)いくばくかのギャラをいただいて、存続させることとなりました。ですので、1月以降は、ミュージシャンにギャラが発生しております。事実関係はだいたい以上のような感じです。どのように解釈されるかは自由であると思います。

この回答を読み、当初ノーギャラで始まったものを途中から発生させる、という、彼のその商売の方針にも多少の疑問を感じたが、それよりも、当のお客さんが、何故今回に限ってお金を払わなければならないのか、その理由が判然としない。これもギャラと同様、いままでは無料でしたが今回はお金を出してね、と言ってるということになる。その違いは何なのか。

また、任意の募金、ということであれば、もちろん義務ではないが、それは「チャリティ」とは言わない。任意の募金である、ということならば、じゃあファミマでも何でも、その辺の信用に足る手段で個人個人が行えばいいことになり、わざわざジャズのフリーライブ会場で、その来場者に求めることではない。

そんな疑問が沸いたわけだが、僕は、この回答を読み、最後の突き放した態度や、途中から変化した店側の待遇への不信感などから、これ以上反論する気が失せてしまった。この人たちと、これ以上話しても無駄、そう感じたのである。実際、これ以降、僕はまったく返事をせず、交流そのものも絶えてしまった。しかし、このことは僕の中でずっと疑問として残り続け、考え続けることになった。

半年も経ってから、こうした僕の考えを書く気になったのは、このブログを読んだことがきっかけである(クリック)。ここに僕が言いたかったことの全てが書いてある。素晴らしい内容だと思う。


【顛末記~その2】
話は戻る。そんなやり取りがあった翌日のことだ。震災翌日にレコーディングをしたジャズピアノ奏者から突然連絡が入る。何事か、と思ったら「あなた(つまり僕)の行ったレコーディングについて、当日会場にいた自分の知り合い音響関係者2名が、あんな簡易なレコーディングなら自分でも出来る、なぜ彼(僕)に依頼なんかしたんだ?、と憤懣やるかたない様子で訴えてきた」と言うのである。僕は聴いた瞬間、何を言ってるのか判らず「え?僕の仕事に満足しなかったのですか?」と思い、内容を伺ってみると、そうではなく、僕の仕事について市内の同業者が、妬むような口調で「自分にさせて欲しかった」と訴えられた、という、ただそれだけの話を電話で言ってきたのだ。更に彼女の話は続いた。「あの人たちも、自分が相手にされなかったものだから、やっかんでるのよ。妬みというか嫉妬ねこれは。あはは」などと言う。そんなことをわざわざ、仕事をした張本人に伝えてきたのである!
そら、僕だって自分では気付かない、何かの心遣いが足りなかったのかもしれないし、他の人ならもっと良い方法で仕事をしたのかもしれない、だがしかし待って欲しい。だからと言って、他の人が僕の仕事について、こんなことを言ってたわよ、などと本人にわざわざ伝えてくる、というのはいったいどういうことなのだ??そんなことを言われたら、僕だって傷つくではないか。

確かに当日、その彼らが、何か言いたげに僕の周りをウロチョロし、また、僕の録音してた音源を横取りしようと画策するなど、不快なことはあった。なるほど、そういう理由だったわけか、と理解した。

それでも、そんなことをわざわざ僕に言ってこなくてもいいではないか。そんな小学生みたいな事態に、僕は少し呆れてしまい、そのことについて「はたしてどうなのか?」と、ネット上で愚痴を呟くなどした。そうすると、彼らは今度は、そのことに納得がいかない、と重ねて彼女に訴えて来る、という流れになった(僕の動きをチェックしてたらしい)。
そんな不毛なやり取りが続くうち、徐々に3者間の話が混迷してきて、間に挟まれたジャズピアニストは、僕がやった「ネット上で愚痴る行為」について非難するようになり、いつのまにか一方的に、僕の不手際のような結論になろうとしていた。

そんなこんなのストレスから僕は、夜中に死ぬほどの腹痛に倒れ、病院に担ぎ込まれる、という事態になる。

ネットでそのようなことを書くということについての是非はともかく(僕は悪いとは思わない)、それでも、実際に彼らが僕に「ネットで愚痴らせるほど」不快なことをした、というのは「事実」ではないか。この件について、僕には一切、何の非も無いのにもかかわらず、最終的に「僕が悪い、大人気ない」という結論に持ち込まれたのである。彼女にそのつもりがなくとも、僕はそう取った。この結論は甚だ屈辱的で、僕は今でも許せないと思っている。

そんなことがあり、僕は、あの日、あれほどの感動を見せてくれた、その当のアーティスト本人が、自らそういう行為に出たことについて、その落差に落胆してしまい、また彼女の周りで蠢く魑魅魍魎の性質の悪さに辟易してしまい、当初からの彼女の口の悪さに食傷気味だったのもあり、これは縁を切ったほうがいいのではないだろうか、と徐々に思い始めるのである。


【顛末記~その3】
そんなことがありつつも、レコード契約の交渉ごともあり、彼女との縁はなかなか切れなかった。一方の金管奏者のほうは、相変わらずチャリティに励んでおり、地元の放送局や元メジャーアーティストも巻き込み、大々的なチャリティイベントを行った。
その様子を見たピアノ奏者のほうは(この2名は反目し合う仲である)、心穏やかでいられなかったのか、対抗して別なイベントを企画する。そこへの出演を打診されたが、提案が二転三転し、本心から勧誘してないな?と感じ取った僕は、出演を断った。結果的にこの判断は大正解だった。後日、そのイベントを撮影したビデオ編集を依頼され、見てみたところ、その内容の一部について少々疑問に思う場面があり、つまりそれは、主催者であるピアニストの「人脈、人望」としての限界を表してるなあ、と率直に感じた。

このビデオ編集の際の、彼女の理不尽な過大要求がきっかけで、僕は彼女との契約を解消し、縁を切った。


この一連のチャリティと、それに纏わる出来事で、僕は、ある年齢以上の、市内の「プロ」と称する人々について「自分とは違う人種なのだ」という判断をせざるを得なかった。それは恐らく相手も同様だろう。この一連のやり取りから、「僕という音楽家」について、自分達とは交われない人間なのだ、と悟ったと思う。

その後の自分の考えについては「往復書簡」シリーズで詳しく書いてるとおりである。


最後に、チャリティについて、3月の出来事直後に僕が書いた文を紹介し、この記事を終わろうと思います。


【3月13日。記。】
僕は以前から、チャリティでライブする、ということそのものにずっとすごい違和感があって、そのことで、改めて昨日から考え続けてるんだけど、「なんでなの?何故そこまで拘るの?」と言われると、理由が今ひとつ自分の中でまとまってないことに気付く。でも「音楽で安らぎを」とか「楽しんでもらおう」とかそういうのだったら意味はわかるのだけど、それで金を寄付させるって言う行為がわからないのよね。
なんていうんだろ、演奏した結果として「よかったと思ったらその気持ちをここへ」みたいな感じとか、或いは最初からチケ代が有って、売り上げは寄付しますよ、というのならわかるんだけど(こっちは払っちゃえば、どう使われるのも自由)、チャリティライブなので是非来てください募金してください、っていうのは、どうしてもわからない。例えば僕なら、その金あったら自分でファミマかなんかで払うと思う。それとは別に、ライブもちゃんと行くだろう。被災地のこと思って心込めてやります、と言われれば、そうかと思って真摯に聴くだろう。でもそこで募金はしないぞ。

何でだと思う?わからない。ともかく納得いかない。音楽が穢れるような気がする。もっと違う気持ちで音楽も金も送りたいんだ。そんなこと思う自分は非道な人間なのかと(まあそうだが)苦しんでる。でも何かはしたいんだ。でもチャリティじゃないんだ。それは僕にとっては嘘なんだ。

しかし、貰うほうの身になって考れば。貰うほうは、穢れてるとか関係ないし、嘘とか関係ないし。モノに色が付いて見えるのは、僕が汚れてるからか。そういうことなのかもしれないよ。でもね。例えばね、有名人とかTMみたいな奴ならなんまんにんも集まるんだから意味もあるだろうが、たかだか2~30人集まって寄付させるなら、そいつら啓蒙して「自力で寄付する方法」でも憶えさせたほうがよくなくないか?と思ってしまうし。

あとやっぱり「そういうことに音楽を使うなっつの!」ってのがでかい。ダシに使われた感じがする。そこがいちばん納得いかないんだと思う。


まあともかく。動機はどうであれ、また汚い金であろうと綺麗なお金であろうと、被災地の方々には貴重なありがたい支援だという事はよくわかります。よく「やらない善、やる偽善」などと言うが、それもそのとおりだろうと思う。と同時に、自分がやるべきことはそういうことじゃない、とも強く思うので、その事を今後もしっかり考えて生きたい。

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