M-1の話。
http://d.hatena.ne.jp/toronei/20100105/A
これを読んでちょっと気付いた事があった。
もともと音楽人と演劇人は正反対の人種、という偏見が僕にはあって(僕の周りの人もそうだった)、大学時代や、オペラの大道具手伝い時代を除けば、ほとんど関わってこなかったです。
その偏見の理由がなんなのか、自分でもよくわかってないところがあったけど、最近、あるきっかけから芝居によく触れるようになり、と同時に、いくつか、その理由めいたものが見えたので、せっかくなので書こうと思った。
こないだ人に言ってびっくりされたのだが、実はオレはお笑い好きの人間である。東京時代は寄席も良く行ったし。別に自分がお笑いに詳しいとか言うつもりはないが、そういう意味では、滑る小ネタにはかなり厳しいと思う。
よく偉い人が講演などで、ちょっとした息抜きにギャグを言う事がある。それは偉い人が喋ってる、という緊張感の中でボソッとジョークを混ぜるから、その緩急でふと可笑しくなるのだろう。
では、芝居にそういうものは必要なのだろうか。いや、合ってもいいんだろうケド、偉い人が講演でボソッと言う、程度のことでは受けないでしょうね。
僕が引っかかる部分はまさしく「そこ」なのだ、と気付いた。誤解してもらったら困るのだが、これは長崎で見た芝居だけの事を言ってるのではない。思い返せば、東京でもどこでも、僕が見た芝居は、ほとんどがそういうものだったのだ。せっかくの良い話なのに、必ず、滑る「ギャグもどき」みたいなものが入ってて、その瞬間、一気に冷める。そこに必然があってギャグが挟み込んであるならいいが、「なければいけない」「受けなくてはいけない」という理由で無理やり入ってるようなものが多いのだ。
芝居はラーメンズとは違うのだ。なぜそこに、わざわざ無茶振りみたいに小ネタが入ってるのか。
でも好きな芝居もあったよ。ココ何年かの間で、僕が見た芝居のうち、自分の中で評価が高かったものは、
その「小ネタ」部分が少なかった芝居だ、と気付いた。もしくは、その小ネタが、センスがよくて、ちゃんと笑えるものだった、とか。
僕は前にココの日記でジャズについていろいろ書いたでしょ。楽曲第一主義。これって同じなんだなあと思った。僕の希望は、一度でいいから、まったく滑らない、ひとつも小ネタが入ってない芝居を見ることです。
だれか叶えてくれたら嬉しいなあ。
追記。
コメントをいくつか頂いて補足しますね。
芝居の類型について語ってるけど、じゃあJPOPはどうなのさ?ABサビ大サビー、とか型が決まってんじゃん、と言われるとそのとおり。これもまさしく「型」が決まっていて、そこへ向かってドドーっと完成させてゆくものですね。だから、これも苦手な人は苦手だと思いますよ。
この場合の滑るってのは、つまらない曲になったときでしょうね。歌詞が聴いたことあるような慣用句ばかりとか
そんなものはいくらでもあります。メロディもそう。どっかで聴いたような、しかも練られてないような。
最近、僕の音楽歴をラジオ番組でやってるけど、聴けば判るように、僕の最初は型にハマらず破天荒な作品作りを徹底していました。僕は自分の音楽が通りすがられるのが嫌で、絶対に印象を残さないと気がすまなかったのです。なので嫌がられてもいい、ともかく「印象」を残す。これを徹底していました。それを何年も繰り返したあと、つき物が落ちたようにすっきりして、JPOPという形式美のなかに入っていったのです。
僕の創作のポリシーは「デジャブ」なんですよね。音楽は僕の中にあるんじゃない。聴く人の中にある。それを思い出すための手助けをしてあげる。何かの記憶と共に、です。その際に、なにか陳腐なものだと失礼でしょ、と。人の思い出を汚すことになるでしょ、と。だから精一杯良い物を提供するんです。その辺は、ホテルでの接客を思い出します。まさに「サービス」なんです。
そうして、芝居の話に戻ると、芝居も同じようなものだとすれば、昨日とまりさんが書かれた3番の形式の中に
向かって完成させてゆくんでしょうね。形式があるってことは、小ネタも必要不可欠なんだろうと思う。であれば、それは滑らないようにするしかない、ということですね。JPOPが型の音楽だとすれば、そこからは逃れられないから滑らない内容にするしかないのと一緒ですね。
ただ、長年型モノをやってきて、僕の中ではそろそろ次ね、という部分が気持ちの中にある。自分ではまだ手がけてないが例えば人のプロデュース、ピロリーナとかジールとか、そういうものの中に、JPOP型ではない音楽を
見出してやっている。そういう意味では昔と同じですね。
通り過ぎられず印象を残すこと、でも昔みたいに不快なんじゃなく、もっと違う印象を。そんで型からの脱出、ですね。これなんじゃないかなあ。これからは。と個人的に思います。