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2009年12月20日

楽しいセッションは罠である 〜楽曲至上主義について

完璧主義を脱皮した人ほど、オトナになれる

これ読んでちょっと思い出したので。


僕が「ジャズ嫌い」ということで皆様に浸透してるんですけど、ちょっと誤解があるみたいなんで説明しとこうと思って。あ、最初に言っておきますけど、スタンダードジャズの「曲」は好きですよ。林檎タンがたまに歌うようなオールドな感じの。ただの4ビート音楽っていうか。僕が言ってるのはその後に発展した、プレイヤーのアドリブ主体の音楽について言ってます。いつものごとくうざい事書くので、読みたくない人は以下スルーがいいわよ!


ジャズは好きだし楽しいですよ。ただ、僕はジャズミュージシャンじゃないし、それになる気もない。なれないし。であれば、僕にとって、アドリブジャズってのは遊びになっちゃうんです。ゲームとか温泉旅行とか、そんなのと一緒です。僕は誘惑に弱いんです。お酒と同じです。美味しいから辞められない。ジャズも同じです。たぶんセッションとかに参加したら、楽しくて辞められなくなるでしょ。それが嫌だって事です。

僕がドラムを辞めたのも同じ理由です。プロになる気がないのに、続けててもしょうがない。やっても良いけど、遊びでしょ。ドラムやって楽しいのは当たり前です。実際スゴく楽しいです。しかしそれは危険です!


僕の考えるポップスって、しっかり構築して、最終型をしっかり提示するジャンルだと思ってるから。自分が自信を持って、最終ステイトメントだってみんなに提示するの。これが決定です!って。そこに、「やってて楽しい」とかの要素が混ざると、そういう、不確定要素に振り回されるものは、僕は普遍なポップスじゃないって考えるからね。だから、避けてる。そうね、ハンバーガーとかと一緒かな。その時の気分で違うものになったら嫌じゃん。ちゃんと毎回同じものが出てくる。職人ですね。

そういうのが好き、ってことです。

そうやって悩んだ末に完成した音楽をライブでプレイすることは、また違うのね。素晴らしいプレイヤーと完成された音楽を演奏することは楽曲に魂が入るみたいな感じで、すごいことです。アドリブとの違いは、オフロードかそうじゃないかの違いかな。なので、ポップスを演奏するって事は、ある意味オケとかに近いのかなって思う。主体は楽曲にある。演奏者は優れた代弁者。

僕は大酒飲みですが、普段は控えてます。良く人に冗談で言うのだけど、僕が歌を歌わなくても良いなら、毎日大酒飲んで、楽しく過ごすだろう、って。同じように、僕が曲を創る人間じゃなければ、毎日セッションやって、楽しく過ごすだろう、って。

ただ、たまにはいいよね。斎藤ネコさんのネコカルとか見てるとスゴくそう思う。日頃がストイックだからこそ、だもんね。

僕の不満点は、本当はとっても才能のある人が、ジャズが出来ないからといって卑下していることが多い、ということなんです。そういうことから、僕はついついジャズのインプロに関しては、見方が厳しくなってしまうんでしょうね。アドリブ派の人とおそらく求めてる真理は一緒なんです。

真剣勝負のインプロはそうじゃないでしょうけど、そうでは「ない」ようなものは、もちろんその場は楽しいですよ、なんですけど、一夜限りの、刹那的快楽じゃないか、って思うんですよね。そのようなものを、もちろんお好きな方もいるでしょうけど、僕はそういう快楽じゃなくて、もっと永続的なものを望んでるってことなんですね。

個人的には、一番好きなインプロはクリムゾンなんですよ。笑。プログレとジャズは、なかなか共通点ありそうで、剥離も多いかもですね。

こう書くと、ジャズの人にケンカ売ってるみたいな気もしたのでw もう少し補足しますね。

たとえば「音マニア」の中には、「音響としての録音」というジャンルがあるのですが、簡単に言うとね、テープレコーダーとか、今だとボイスレコーダかな、そういうので、音を何でも録る、っていうフェチって言うかマニアがあるのよ。僕も小学生の頃そうでね、変な音とか会話とか、いろいろ盗聴w して楽しんでたわけですよね。そこの趣味が、今例えばCDを大音量で聴くときの、「音」の気持ちよさね、「音」そのものです。ドラムの音とか弦の音とかギターの音とか。フレーズ関係なしに音そのものに魅せられることってあると思うのね。

同じように、楽器演奏者って言うのは、肉体として、ジョギングとかジムで汗流す、とかと同じ感覚で楽器弾いて指動かすことが、肉体的快感だったりする。アスリート。また、そういう人を眺めることも、K1とかサッカーとかの試合で肉体を動かす人見ること、ね。そういうのと同じ部分の気持ちよさってのがあるわけ。これってお芝居とかでもそうでしょ。


それでね、ここからが重要ですが、ぼくはそもそも、基本はそういうものが大好きなんだよね。演奏者のプレイも、クラブでかかるような、腰が抜けるようなバリかっけー音響も基本は大好きです。私は。だからこそ、そこに惑わされると、作曲家としてそこに逃げてしまうって事なんですよ。音楽として存在する以上は、まず「楽曲」がまともでなければならない。楽器の音が良いとか、ソロがカッコいいとか、それも重要な要素ですけど、それらすべては「楽曲が良い」ということが大前提です。

少なくとも僕にとっては、それがポリシーだ、ということなのよ。


まとめですが、つまり僕が今、楽曲本筋主義を貫いてるのは、他ならぬ自分自身が、楽曲「以外」の要素、つまり楽器のプレイ、ミックス、音響、といった付随要素に、ものすごく心動かされる人間だからで、だからこそ作曲する人間として、その部分に依らない創作をするよう自分を律してるって感じ。宅録ヒキコモラーとしては、もちろん録音物としての作品完結を目標としてるけど、それは録音されたものの「音エネルギー」の集合体を形にしたいっていうのに近くて、そこに楽曲主義という規律を設けてるって感じかな。これが僕の礼儀だ、みたいな感じかと。だから、アレンジ先行型や演奏者に必要以上に頼るタイプの楽曲を創ることは、イコールとてもおいしい罠なので、自分はしないようにしている、ということです。


そうして一番最初に戻ると、そういう「完璧主義」を脱したとき、コンポーザーとしての次の展開があるのではないか、と思っています。

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