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2009年11月27日

さわやかな日常

同業者というか、ライブ活動やアーティスト活動をしている人のブログなんかを時々見るのだけど、みんな前向きで良いことばかりたくさん書いてるね。読んで元気が出るように、なかなか良くできてると思う。

翻って、この私のブログはどうよ。ヒドい目にあったとか、ちょっとどうかと思う的な内容ばかりじゃないか。こんなんで果たして良いのだろうかと思ったりもしたのだけど、よく考えればこっちのブログは元々そういうことを書く場所なのであって、普通のアーティストさんが書くような、仕事やら活動報告やら、ありがとう!とか頑張るヨーとか、そういうことは表の「Recording Daze」で書いてるわけで、だったらまあこっちはこれで良いか、的なことなんだよね。

古くからの知りあいはよく知ってるだろうけど、僕の音楽は爽やか系なので、いや、本人は決してそうしてるつもりはないのだけど、結果的に自分の指向性がそうなってしまうので。まあだから、そんな音楽性と激しくギャップのある、この暗くて攻撃的性格っていうのは、初めての方だと驚いて引いてしまうと思う。でも、そういうこと含めて楽しんでくれれば、それが嬉しいけどね。

僕がこういう事書き残すのは理由があって、やっぱりみんなに読んで欲しいからだし、その場での当事者同士の応酬だけだと、その場で終わりでしょ?そうじゃなくて、先例とか、こんなこともありました、的に残しておきたいんだよね。というのは、僕らが黙っていると、何度でも起きてしまうでしょ。そうすると、人生なんかデジャブの連続じゃん。そんなんで良いんだろうかって思うんだよね。

だからね、あなたは言わない、君も言わない、でも僕は言う。ココでこうして言う。言うことが出来る僕が言い続ける。そうすることで何かの種を蒔ければいい。そう思ってる。僕の言葉が、あなたのなかの小さな傷になり、そしてそれが癒えるときに、またあなたもひとつ大きくなって行く。僕が産んだ全ての表現が、そうあって欲しい。それが希望です。


私の中にあった 「あなた」という傷が消えてゆくのかな。
でも私の中の あなたの夢だけは ずっと残るから。

「春のコート」

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2009年11月12日

好きな人や物が多過ぎて

ネット上では言葉の絶妙な使い手さんがいろいろ居て、私など到底適わない、と日々思わされたりしています。先日ヒドい出来事があり、どうせ私は悪者ですから、と自己嫌悪に浸っていたところ、思わぬ言葉にハッとさせられました。


見ず知らずの赤の他人からは突然そこまで「好き」と言われると構えてしまう。
身に覚えのない好意は悪意同様に、困る。
今日は知人づてに赤の他人から
「君の文章がずっと記憶に残っています」というメッセージも受け取った。
そういう言葉に託された好意の距離は「ちょうどいい」なとも思った。

通りすがりの赤の他人に突然求愛されても困りますよね。突然刺されて困るのと同様に。
見ず知らずの他人からの過剰な感情は好意も悪意も等しく困る…

by okadaicさん(twitter


この、突然の愛の告白と、突然刺されるのは同じ、という感覚は、まさに今回僕が味わったものです。


好かれるのだから良いじゃないか、というのは、アーティストとして、とか、作品が対象ならいいのですが、
僕個人に対しては、確かに困ります。対象に対して猛進し一途なのは、何かを生み出す場合の原動力になり良いことだと思うけど、そのエネルギーは、自分に対して使うべきで、他人に向けるべきものではないと思います。

ましてや、会ったこともない人とか、さして親しくもない人に、気持ちだけを一方的にぶつけられてくるのは、これは、本当に刺されるのと同じだと、今回つくづく思いました。


そんな自分も、そういう面がもちろんありますよ。
自分がそうであるからこそ、お互いに気を付けたい。

そう思います。

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2009年11月 9日

「40センチメンタリズム」な母との戦い

9月10月とこれに忙殺された(半分嘘)。

ばななさんの居酒屋の一件(参考→クリック)から大野さん(id:ohnosakiko)、有村悠氏、font-daさんの考察や秀逸エントリ(ばななと日本人)との関連など含めて、本当なら言いたいことも議論したいこともたくさんあった。しかし、僕はネットだけでなく、リアルでこうした関係を抱えていて、そうすると、ばななや大野さんの件で考え始めると、そっちのリアルな方の対処がぶれてしまう気がして、すごく残念だったけど、議論に参加せず降りた。

僕がリアルで対処に追われていた「40センチメンタリズム」はいずれも「母」である。「母」じゃなくともじゅうぶん不快なのに、さらに「母」であることで、自分の生い立ちのこともつい準えてしまい、僕にとっては怒り倍増計画みたいになってしまった。オマエら自分の子どもの育て方鑑みろ、オレがアンタの息子ならこんな母はとてつもなく嫌だ、と。

さらに偶然なのだが、彼女たちはみなある信仰をしていて、その件でね、別な真摯な方にいろいろ相談したのだが、その「母」な方々の考えや行動から想像するに、どうしても「にわか」で「ハック」な感がぬぐえない、ということであった。

まあつまり、彼女たちは自らの言動で常にトラブルを巻き起こし、それについて悩んだあげく、「お助けください」と縋ってるわけである。おまえらなあ、お助けくださいじゃなくてさ、よーく自分の言動を振り返ってみろってんだ。と思ってね、むらむらと怒り倍増計画になってきたわけやね。

ただね、僕の家庭もそうだったように、その「母」たちだけを責めるのも酷という気がして、というのは、必ずそのバックには家庭内不和、というか、もっと言うとダンナがヒドい、とか舅がどうの、とかいう具体的原因があって、さらに言うと、その「母」の両親にまで遡ってそこに原因があったりして、そうすっと、確かにそれらを「全部」背負わされてるその「母」は、誰でも良いから「お助けください」と言いたくもなるわな。そんでそれが、他者への異様な執着とか価値観の押しつけとか、オリーブ的物欲とか、想いが募りすぎて犯罪とか、そういうことになってくるん。

というわけでね、痛い行動にも、そういった様々な複合的って言うか、ミルフィーユみたいな幾層にも重なった原因とか有るじゃない。そうすると、やっぱり一概に「うざい」と言って邪険にするのも、僕としては忍びない。もうちょっと彼女たちを何とかしてあげられないか頑張ってみたい、と言う気にもなるでしょ。それを判ってしまった僕なら。

そんで、こないだの、と言ってももうずいぶん前だけど、ばななとか大野さんとかの話になってくる。うざいのはうざい。でもその理由が想像できるだけに、一概に責めたりするのはちょっと気が引ける。

じゃあどうしたらいいんだろう。

でも結局、僕が出来たことはなく。

戦ったあげく「切る」という結論になってしまったのが無念というか。

そうした結果を今ふまえてね、今ならもう一回振り返って、ばなな40センチメンタリズムな話も冷静に読める気もするんだよなあ。


彼女達の世代というのは、もちろん自分の世代とも近いわけで、彼女たちが現役だった頃の時代の空気感というものを、頭でなくて身体でなんとなく覚えてて、どこか惹かれつつも自分が進むのはこの道ではない、と思い距離を置いてた部分があり、それが今になって、諍いや誤解という形で吹き出してる感じなんだよね。だからもう、ばななさんにしても大野さんにしても、彼女たち感の考えの相違なんてどうでも良くて、ともかく、当時の世界観のデジャブとしか僕は捉えられなかったんだよね。ほんと一瞬。においから空気から全てが蘇るんだよね。彼女たちの言動を拝見すると。

多分に思い込み入ってるのだけど、彼女たちは、気に入った相手を対象として楽しまずに、どこか自分のフィールドに引き込もうとするようなところがあって、ってホントに偏見ですが、ともかく僕にはそういうイメージがあって、そう考えると、ばなな氏も居酒屋を自分のフィールドに引き込もうとする作戦じゃないですか。そういう感覚自体、もう今はないんだよ、と僕は言いたかった気がするんだよね。


そんなんで、最近ある知人と話した内容がおもしろいので、ちょっと書いてみたくなった。


ともかく僕らの周りは最近そんなんばっかりなんだけど、なんでだと思う?

そーねー、40代で音楽とか芝居見に来て、それについてゴタゴタ語りたがるなんて、生活に何か不満があるからに決まってるから、今回たまたま周りに集まってきた人がそういう人って事なんでしょ。

そうよねえ。ちゃんと家族や生活に向き合ってる人が、頻繁に長文の日記書いたり、人の日記に意味不明な長文コメントしたりしないよねえ。

うん、ただね、僕らの音楽というのは、そういうつらい人のためにね、ちょっとでも日常を忘れさせてあげたい、っていうことで存在してるでしょ、そうすると無碍にも出来ないのだけど、そこはかっちり壁って言うか、距離は置かないと、一度許すとどんどこ入り込んで来るからさ。

でもね、若い子だとそれは許すじゃん、なんで差別じゃないの?

なんで差別なん?いい年ぶっこいて、そんな常識ない奴、冷たくあしらうに決まってるだろ、40代にもなって、オマエいつまで少女やねんっていう。

それに、ちゃんと痛くない40代の方もいて、そういう人には真摯に応対するし、そういう人は常識人だし。それにちゃんとお金も使ってくれるよ。ああいう痛い40娘は、そもそも金も使わん、そもそも「お客」ですらないよね。人に絡みたいだけのために存在するのだ。僕の事を「ただの自分の不満の捌け口の道具」と思ってるんだよ。


…などと。


僕が何かの段階から抜け出すとき、それまでの関係を繋げたままでは出来なくて、必ず切って去ってくる。昔からそうなんだ。そうしないと、退路が準備されてたりエクスキューズがあると、なんか嘘みたいな気がしてしまうんだな。いまでも、全くの無名で最底辺から徐々に上がっていくということが好きなんだと思う。

三年前この土地に来て、まったく誰も知らないところから初めて、かつての僕じゃあり得ないくらい、いろんな人に頭下げて挨拶して営業して、ってことをやった。やりながら、これは自分じゃねえな、と思ってた。ここ最近のトラブルはそれの反動が来たんだろうし、また、遂にそこから去るときが来たって言うことなんだと思った。


土地からは去らないよ。

でも今までの交友関係はもうない。
僕とあなた達の生きる世界は違うのよ、と。

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2009年11月 2日

貯めるのはお金だけにしろよ、と。

「感情屋さん」が知っておきたい処世術
http://allabout.co.jp/gm/gc/4032/

自分に身に覚えがあるな、と耳が痛い一方で、僕が何かに対して切れる場合、それまで積み上げてきた我慢みたいなものが一気に吹き上がる、みたいな部分も多いように最近感じました。

最近色々ありましたけど、きっかけは何かひとつのことなんですけど、それ以前から、その相手に対してずーーっと不満に思ってたことがここに来て遂に爆発!みたいなことが多いんですね。私。なので、その一部分だけみると、そんな些細なことで、と思うかもなんだけど、そこに至る過程みたいのがあって、そこは表の人は見えない部分だから、急に爆発したみたいに見えるんでしょうね。よくないですね。

みくしー疲れ、という言葉がありますけど、僕も商売上、お付き合いしなければいけないとか、最初は思っていました。でも結局、我慢しても、駄目なものは駄目なんですね。そうすっと、だんだん愚痴みたいな事をココで書くようになって、本来なら好意的に思ってた人まで、それで離れてしまって本末転倒みたいになるじゃないですか。精神衛生上、やっぱり離れるのが良いという場合も多くて、なので、最近は心を鬼にして、申し訳ないけど、あなたとはご遠慮で、というようにしています。

僕は言葉がキツかったりしますけど、それは、元々僕の外見が、人が良さそうに見えるらしくて、それで、いろんな人が寄ってくるんですね。それに対する防御なんです。おれはそんな良い人間じゃねえぞ、的に反抗するわけです。それが、悪態だったり雑な言葉遣いになったりするのですが、そういうことを判って付き合ってくださる方は良いですけど、そうじゃない人は、やっぱり、この人どうなの?って思うと思うのです。

そういったこともふまえつつ、最近はちょっとずつ是正していって、あとは、無理に付き合いをするのも辞めて、そうして精神的に落ち着くと、心も安らかになって行く、と。まあそういうことなんだと思いました。

最近はそんな感じで、去った友も居ますが、今残った方は、私的にはとても安らぐので大変有りがたいと思っておりますわ。今後とも何卒、と言うよりないですね。

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