« 2009年9月 | トップページ | 2009年11月 »

2009年10月27日

愛されたくないが愛されたい

よーし。ものすごく反感買うことこれから書いてやるぞー。ってほどでもないけどw

ここ1年くらいネットストーカー的なものに悩まされてきた。いや、最初は全然ストーカーじゃなくて普通に僕の「ブログ」のファンだった。その人は僕の創作論のようなものに感銘を受けたらしかった。まあそれで、最初はそんな僕の駄文をたまに読んでるだけだったのがね、それがだんだんはてなダイアリからはてなハイクからツイッターから、僕の書くもの表現するものあらゆるものを追いかけられはじめて、全てがブクマされ、リブログされ引用されるようになって、どこで何を言っても全てがその人にチェックされるようになり、ともかくね、雁字搦めで身動きが取れないわけ。その人は、僕の音楽も全部買ってくれて聴いたようで、音楽も好きなようなのだが、ご存じの通り、僕は自分の曲の中で自分の考えをちゃんと言ってる(つもり)ので、そういうような接し方は一番僕が忌み嫌うとわかるはずなのに、ともかくまったく無頓着で、一方通行の一途で僕を、ウキウキウォッチングつづけるのだった。

多分思うに、その人はまったく悪気はないのだった。僕の言葉を引用してネット上にばらまくのも、よかれと思ってやってるのだった。しかし僕はそれが本当に精神的にキツく、毎日毎日、死にそうな気分になっていた。相手は悪気もなく楽しくよかれと思ってやってるんだろう?なんで僕だけがこんなに苦しく辛い思いをして我慢しなければならないのだ?変じゃないか。へんだろ?それ。

そんで、昨日のことだが、遂に言った。もうじゅうぶんだ、と。もう僕から搾り取るのはやめてくれ、と。あなたのやってることは搾取だと。あなたが私の情報を欲しいほしいといって盗るたびに僕がどんどん減ってゆくのだ、と。剽窃だ、と。

そういう気持ちだった。僕はあんなにたくさん曲を書いて歌ってなんでもあげてるじゃないか、と。それなのにそれなのに、まだ何か欲しいのか?と。どこまで僕を削り取るのか?と。僕はあなたの人生の部品じゃない!と。

さて。最後のこの言葉はデジャブですね。先日まったく同じ言葉をある人に言いました。ココで書いたですね。僕は多分ヒドいことを言ってヒドいことをしたんです。でもね、自分の人生をどこかの誰かのために削り取って上げるなんてまっぴらなんです。

僕はこの数日で1年分くらい年取った気がする。


追記。
「悪気はないということの恐ろしさ」

先週僕はあちこち営業に歩いてたのですがね、ある有名なお寺に行ってそちらの住職様と話したときに、たまたまこういう話が出たんですよね。悪気がないとか善意からの行動って言うのは、こっちが文句を言えないのでつらい、と。文句言うと逆切れされたりしますからね。怖いですよほんと。悪気あったりとか直接攻撃された方が、こっちも反撃できるのでまだいいです。それに、理由がはっきりしてるし。善意からの迷惑な行動って言うのはどうにも対処のしようがないので。

昨日の件でね、僕が一番切れた部分は、僕の音楽が好きだという割には、まったく正反対の行動をする、という部分です。それは、僕のことを、いや、僕の作品を愛してるとは言わない。なんだか別な何か、虚像って言うか、自分が勝手に作り上げた架空のものに何か囚われてるんですよね。別に僕に限らず、何かのファンだったりする人にはたまにいますね。たとえば、普通の話をしていてもたまにそんな人がいます。こっちが話してる内容とまったく噛み合わない反応をしてきて、こっちを固まらせる人とかいるじゃないですか。昨日の人や、そういう人って、僕の音楽や話に反応してるんじゃないんですよね。それに乗っかって、自分の話をしようとしてるんです。僕の音楽や話を「自分語りの部品」として使ってるわけです。そんで、もっと自分語りしたいから僕にきっかけをください、って言ってるわけです。これはコミュニケーションとは言わない。

15年くらい前だったかな。僕が自分で曲を作り始めたとき、一貫して「コミュニケーションブレイクダウン」ということを歌おうと決めました。それは当時の知りあいとかもみんな判ってて、そうだよね、唐川さんの曲はそういう感じだよね、と言ってくれました。今でも、僕の曲のテーマは全部がそれですね。だからこそ、昨日のようなことは無性に腹が立った、ということです。僕の音楽が、その彼にとって全然意味がなかったって事ですもん。ものすごい無力感ですね。自己嫌悪です。


それでも、今後も伝えられるように精進して頑張っていきたいですよね。

|

2009年10月15日

読者という神からの自立

批判は人を育てないのでしょうか。

しかし、褒め言葉だけありがたがってたら、周りはイエスまんだらけになり
裸の王様になってしまうかもしれません。

山田ズーニーさんのコラムがその辺を見事に書いてくれています。
必読なり。
http://www.1101.com/essay/2003-06-25.html
http://www.1101.com/essay/2003-07-02.html


そんなこんなで最近、この辺のことをいろいろ考えてたとき、

ふと昔のあることを思い出したのです。

僕がドラマーから歌う人になって、一番最初にプロの批評の対象になったのは
ミュージックマガジン誌上だったんです。

僕のインディーの音源がレビューされて、そこで批判されたんですよ。
もちろん、読んだときは凹みましたし、こいつ何も判ってねーよ!

などと思ったんですが、でも言ってることは外れではなかったんです。

それでその後、その批判を参考に、その後も作品を創り続けました。


表現者であり、作品を公に発表した以上、
あらゆる批判も受ける覚悟はいるでしょうけど、
全部を丸ごと引き受ける必要なんか、まったくなくて、
自然のウチに取捨選択して自分の糧にしてるんだと思いますよね。


僕らは「産む人だよ!」と、レーベルの仲間にはいつも言っています。

|

2009年10月11日

ひとりで生きてゆければ

滅多にカラオケは行かないけど、行くと必ず歌う歌がこれ。

私にとって小田和正とは、これですね。これです。これ以外の何者でもないです。この1曲で彼は人生に於いて言いたいことを全部言っていると思う。その後の活動は、全部これのバリエーション。強いてあげれば、あとは「風に吹かれて」だけですね。


ところで先日。銀河鉄道の夜、というお芝居を観ました。脚本は泊さん。
http://www.e-avanti.com/kita/ind/item/8338

僕は今年の3月に市民参加舞台も見てますが、そちらの脚本も泊さんなので、同じ脚本家さんの作品を続けて2本見た事になります。1本目では、わからなかったことなどが、2本目で初めて線となり繋がり、いろいろわかったりしたわけですね。


先日ココで、メロディと言葉とコード進行のこと話したじゃないですか。自分は常に同じ場所にいるんだ、と。自分の周りが回っていて、その外側から相対で自分を見た姿。それをおとにしたいんだ、と。そこと繋がってゆくと思います。


これは限られた人しか知りませんが、実は先日、ある方の仕事を断りました。それに関しては非常に葛藤があって、人に相談などしながら、とても長い時間考えたのです。そして出した結論が、その方のやりたいことには私は同意できない、というものでした。しかしそれを断ると言うことは、その方の生き方を否定することにも繋がる恐れがあって、だかしかし、その人の生き方を否定しないために、自分のほうは否定しなきゃいけないの?ということになり。そんなわけで、断りのメールは、それはそれはそれは、非常に重たい内容となりました。


僕が感じてる大きなコンプレックスのひとつに、「自分の人生において大きな不幸ごとがひとつもなかった」というのがあります。その、仕事を断った相手も含め、自分の周りには、いろんな不幸ごとが起こった人がたくさん居ます。そんな中自分は、今のところ両親も健在だし、経済的にも恵まれ(親は非常に苦労したようです)、何一つ不自由なく生きているように人には思われるようです。


そうしますと、何を言いたくて、例えば音楽をやってるのか、とか思いません?自分の人生は平坦ですベイベー♪とか歌うんですか?しかしながら、実は見えない部分で家庭内では、いろいろ大変な事があって、全然平坦ではないんですけどね。

まあともかく、自分がこんな立場でありながら、人に対して、お前はしっかり生きろよ、とはとても言えない気がする。でも言うんです。それは、自分が気付いてしまったからですね。この人にはそれを言わなくてはいけない。誰も言わないのなら、自分だけがそれを言えるなら、心を鬼にして言う、と。そういうことしかないんです。


自分は自分の道を行くのですよ。それは自分で決めなきゃなりませんね。それは大変ですよ。しかし、少なくとも見つけようとあがいてる人が好きだね。何もしない人よりは。

そういう人と今後も良い仕事をしたいと、そう思っています。

|

2009年10月 3日

くじらと等身大とマントラと多面体

昨日の鯨イベント、ご来場皆様、本当にありがとうございました!

途中ぐだぐだな部分も多少ありましたが、なんとか終了しよかったです。鯨も美味しかった、と評判でした。しかしながら、昨日は、かつてないほどの大量の反省材料もいただき、今後の糧にしたく存じます。


私個人としては、名曲、等身大メモリーズの初の成功パフォーマンスが披露でき、これは最高の気分でした。MCでも言いましたが、本当にこれだけは最高の気分でした。もちろんマサオミの協力があってのことです。実は、彼がこの曲に参加してくれることが決まったのは前日です。それでも、ああやって弾けるのだから、奴はすごいのです。初めてこの曲の真の姿の一部を見せることが出来た気がしました。その後、私は舞い上がってしまい、超爆裂トーキングを致しましたが、まあ許してくれろ、と。

僕の中では、誰がなんと言おうと、歌詞も曲も歌唱も全て含めて、あれが言いたいことの全てです。どこから何処にどう突っ込まれようとも、あれが判らないオマエが悪い、的な傍若無人な自画自賛で今後も頑張ります!

あと、田中マサオミCDお買いあげありがとうございました。今後も良いものを創っていきたく存じます。ご来場ほんとありがとう。心から感謝してます。マジで。普段は腹黒な私ですが、これは嘘ではありません。


ところで、歌詞について言葉が少ない、繰り返しが多い、というご意見があったことについて、その意見は真摯に受け止めるとして、せっかくなので僕の考えを書いておきますね。

まず、歌詞に関してはそのとおりです。僕の個人的ポリシーは、1曲の中に言葉が多すぎると、情報が多すぎて、
音楽本来の魅力を損ねる、というものです。手抜きはしないが、決して邪魔はしないということですね。


なぜならこれは「音楽」だから。
言葉の方が大事なら、それは朗読です。


それから、同じ言葉の繰り返しでも、その背景が違えば意味あいは変わる、ということ。背景、とは音楽で言えば、例えばコード進行やアレンジです。僕の場合、言葉だけでなく、メロディそのものも繰り返します。繰り返していますが、そのバックの和声進行は全部異なっています。そうすると相対位置が変わるんです。たとえば、コードCに対して、ドーと歌った場合、コードEmで、ドーと歌った場合では、ドはドで同じですが、相対的には、同じドではないと言うことです。これが僕のよく言う、メロに対するコードのミラクル多面体構造なのです。全ては相対でできているんです。

あなたにとって私は右にいる、しかし、別な人にとっては左にいるかも知れない。でも同じ自分です。


また、音楽というのは時間の流れなんですね。1番での言葉、2番での同じ言葉も意味合いが変わります。ただのコピペではないということです。


同じ言葉で同じメロディを繰り返す、というのはマントラに似ています。インド音楽旋法はワンコードしかありませんが、音が音にぶつかって、多彩な色を産んでいます。僕がやりたいのは例えばそういうことなんです。僕の曲でそれが一番最初に成功したのは、「きみが好きだよ Song」ですね。サビで「きみが好きだよー」が3回続きますが、コードが違っていますね。あれを思いついたとき、僕は「あー、ついに発見した!」と思いました。これだ!と。


自分は常にここにいるんです。

変化しているのは周りの景色だけ。

自分は常に人の相対として存在している。

それが僕の考えです。


ありがとうございました。(拍手!)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2009年9月 | トップページ | 2009年11月 »