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2009年8月26日

ヒトを振り切って進むこと

pollyannaさんという方が興味深い事をおっしゃっていた。

自分がいいと思うやり方をとっているとき、その良さを主張する根拠として、違うやり方をしている「人」を否定する必要はないと思うんだ。自分がいいと思うことがあって、それはダメだと思うことがある。比較の必要なしに「これはいい!」と思えることがあれば楽だけど、たいていは比較した上で「こっちがいい」となる。そこが陥穽になる。あくまで、そのコト、そのモノどうしで比べれば済む話なのに、なぜかそのコトやモノを採用している「ヒト」どうしを比べがちで、それがトラブルのもとになる。すべてが「ヒト」のmatterになるというのは、それだけヒトはヒトが好きで、期待しているんだ、ということの表れかもしれないと思えば切ない。そして息苦しい。話はずれるけれど。どれほど言葉を尽くしたとしても、思うことすべてを表現できるわけではない。どんな人でも、語らずに背負い、胸に秘めていることの方が何倍も多いだろう。相手の意図がつかめないとき、語られていないことを「善」に推測するか「悪」に推測するかで、相手との関係は変わってくる。悪く取りたくなってしまうときでも、あえて善く取っていると、いつのまにか関係が良くなっていることが多い。また、相手の意図や経験を低く見積もってあなどればあなどるほど、その見積もりがはずれたときの、自分のダメージは大きい。私がとっている性善説やパレアナイズムは、功利的かつプラグマティックな生きるすべにすぎない。

これについて、僕もよく分かってるけど、しかし自分はそれを出来ない人間だ、と過去の経験上悟っている。何度も直そうとしたが無理だったんだよね。だから、仕方なく、どんどん人と縁を切った。その方が、自分にとっても相手にとっても幸福だと判ったからだね。そうしないと、とことん傷つけ合うもの。なので自分なりに見つけた「ハック」なんだねこれは。両親がそういう人間だったからね。そうなりたくなかったんだ。多分毎日が必死なんだろう。だから慮ることとかできないんだよね。ひょっとしたら今の日本全体がそうなのかもしれないけどね。


なんで急にこんなこと書くかというと、例の事件について、自分はまだいろいろ引きずってるな…と思うからだ。だいたい人生生きてきて、知りあいが大事件の主人公になるなんて事、そうそうあるもんじゃない。しかも極近くでいつも見ていたのに、気付けず防げなかったという部分でも、悔いがとても残ってる。彼女も母親だったはずだが、あまりそういうことは話さなかったなあ。なんだか嫌になるなしかし。

上記の、縁を切る系の話のことについて、ちょっと思い出したのだけど、そういえば、自分の中でいつも、縁切りの前に「これの返事がなければ終わり」とか、そういうポイント決めてるんだよね。もちろんそれは意識してそうする。多分これの返事はないかもな、とか、これは断られる気がするな、とか、そのような予感が必ずある。それを実際に試して確認してから実行するんだよね。今回もそうだった。
実はこの夏、あの人たちが主催するイベントに出ない?って声かけられてて、僕も今年初め頃までは、すっかり出るつもりで居たけど、春過ぎて、彼女が関わりだしてから、出るのめんどくさいと思うようになり、結局でなかった。あとで聴いたら、そのイベントがらみでもいろいろ揉め事多発だったらしくて、あーやらなくてよかった、と思ってたところだった。そんで事件でしょ。今回ほど自分の勘のよさをありがたいと思ったことはない。悪いけど。

今年はCDリリースを控えていて、そのためにいろいろ組んでた。その計画のひとつとして、ともかく何処へでも顔を出して歌う、ギャラなしでも、そして名前と顔を売る、というライブのポリシーがあったのだけど、そのイベントなんか、それに最も適してたと思われるのに、「いくら何でも、これは嫌だ」と思う何かがあって、いや、今ここで「何か」と書いたけど、本当は具体的にあるんだけど、まあともかく、いくら何でもそこは納得できない、という部分があって、彼らから離れる決意をしたわけなんだ。
こう書くと叩かれるかもしれないし、不快に思う同業者も多数居ると思うけど、結局僕は「育ちの悪い人」について行けなかったんだと思う。前に一度どこかの日記に書いたけど、僕は某メジャーレコード会社社長から直々に「あなたはこの世界にはいるのは辞めなさい。向いてないです。普通に趣味としておやりなさい」と言われたことがあり、もちろんそのときは「なんだと?このやろう」的に燃え上がったわけだけども、今その言葉を別な意味で実感している。もちろん社長は、僕の実力など含め総合的に言ったんだと解釈してるけど、社長がそのあとに続けて言った「きみは本当にいい顔をしている。目も良い。プロは辞めた方が良い」という言葉は、いつまでも消えなかったね。

今偶然だけど、いろんな事件があの業界でも起こってるでしょう。元々あんなもんだと思う。そしてそれは、一地方都市のちっぽけな「業界」だって似たようなもので、結局ぐだぐだの魑魅魍魎、それも地方ならではの閉塞な世界感に基づくものでしかなかった。

子どもは天使か、というと決してそうでもないように、田舎は純粋か、というとまったくそういうことはなく、音楽をやっている人に悪人は居ない、と言われるとそんなことはない、と。

しかし僕はちょっとでも希望が残されているのなら、ここで撤退は出来ない、と思っていて、今までとやり方は変えるけども、引き続き頑張ってゆくのだよ、と決心してはいる。日々迷いながらだけどね。


PS
縁を切る、ということは、切られるほうも居るわけでしょ。相手は意識してなくても、こっちの中でそう思ってたら、たとえ事実は違っても、自分の中では「こっちが切った」という仮想勝利みたいな形で終われるじゃん。そうしてなんとか、自分の中で納めてるんだと思う。
前も書いたけど、自分の作品の中に、自分にとっての不純物が混ざることを僕はとても嫌ってて、なので、物や人、写真に写ってたり、ロケーションだったり、それぞれの曲に関する思い出やら、あとは、歌詞という形の言葉そのものも、ともかく、それを後々思い出して嫌になるようなものは決して含めない、って決めてるんだよね。
なので共演者も細心の注意を払って選ぶ。のちのち嫌いになりそうな相手や、もっと簡単なネガティブ要素、服装の趣味が嫌だとかそういうことも含めて、僕が良いと思った相手しか加えないわけですね。
だから、自分の曲は、自分の中では「自分純度」が恐ろしく高い。そういうところが苦手だという人もいるんだけど、ところがライブの僕を見ると、生身の僕は、それほど排他的ではないらしく、普通に受け入れられるんだよね。そこがとても不思議。

ただそれは、「音楽をやってるときの僕」という限定なのよ。そうじゃないときの僕は、みんなによく言われるけど、本当に壁が、ばばーんとあるらしい。
だから、人もなんだか遠慮して話してくるでしょ。ところがたまに、遠慮無く話しかけてくる女の子とかが居る。しかもそれが辛口だったりすると、嬉しくなってそいつに惚れたりするんだよね。ばかだよねw

それは異性だけじゃないんだ。同性でも的を射た辛口批評とかを、しかもため口でされると、けっこう仲良くなったりするんだよ。今の友達関係は全部それだもんね。

的を射てない場合は、もちろん縁を切るよw

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