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2008年4月28日

明るい未来

引き篭もりなり苛められっこなり、そういう現状を耐えてこられたのは、そこを頑張って耐えてれば、いつかトンネルをスポッと抜けるように、現実が変る筈、と特に根拠もなく信じ込んでたところがあるからだ。

特に根拠もなく、と今書いたけども、実は「オレは本当は天才だからさ」というような妙な勘違いっつか自惚れみたいなものも根底にあったとは思う。それは例えば、明らかな社会不適合者であるところのジョンレノン氏とかそういう人々が、うまく生きる世界を見つけて生き抜いていったことが根拠になってるのだけど、よく考えれば、自分もレノンと同じだから、などという考えは、そもそもどこから生まれたのか、それも気になるよな。

自分の頭の中では常に素晴らしい映像やら音やら文章やらが浮かんでいた。ただ単にアウトプットしていないだけで、実は自分も天才なのだ、と思い込んでたところはある。しかし実際に天才と言われる人々は、ちゃんとアウトプットしてるからこその天才呼ばわりなんだよね。そこを間違っちゃ困る。つまり、想像上なら恐らく誰しもが天才なのだ。しかし一般的に天才と認められるのは、アウトプットが伴った人間のみなのだ。

初代ウルトラマンで、路上に書いた落書きが宇宙線かなにかで実物の怪獣になるってのがあったが、そんなものでもない限り、頭の中の想像上の創作物は形になることはない。イコール、人にも認められることはない。他人の頭の中身を判れって言ったって、そんなの普通じゃ無理だ。

だがしかし、恐ろしいことに、真の天才*1は、脳内だけの天才のことも判ってしまう。会った瞬間、こいつは何もしていないが実は脳内創作物はすごいとか自負してて自分は天才とか思ってるな、とか見抜いてしまうのだ。それは何故かというと、実はかつての自分もそうだったからに他ならない。

脳内完結を経てアウトプットの術を何とか発見し、訓練の後、人々に認められる。

これがバーチャルではないリアルってことなのだ。

明るい未来を頭の中で想像してる。その姿が明確に見えるなら、勝ったも同然じゃん。実際やってみればいい。
問題なのはそれすら浮かばない人たちだろうね。どうすりゃいいんだろう。オレにもわからん。

*1:アウトプットが伴ってる奴(by 由実氏)

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2008年4月24日

スヌーピーの犬小屋的なあれ

最近いろんな人といろんな交渉とかしてるんだけど、目に見えてる部分だけ相手にしてると思ったら、それはまずいっていうか、大怪我の元って気がする。おそらく、その交渉やら会話の裏では、想像以上にいろんな人がその情報を得たりして、交渉当人に意見したり知恵授けたりしてるわけで、相手がまったく単独でやってるなんて、殆ど無いんじゃないか。

とかく人って言うのは第一印象で判断しがちなんだけど、勿論それはオレの信条として、「人は第一印象である」、なんだけど、その裏に見えるものすべてしっかり見極めたうえでの、「ああ、だからこんな第一印象ね。」みたいな判断なわけで、たとえばこないだのキモイ論争にしても、キモイとか一言で言い切る奴の、その逆な意味での潔さってのも変だけど、その価値観は逆におもしろいと思ったり、こいつがいまこう切り捨てたのは裏に何があるか、みたいなこといろいろ想像とかするのって楽しいじゃん。

そういうの、ただ腹立つからとか、こういう人間はどうかとおもう、みたいに決め付けると、なんだかそいつの人生もそれまでみたいな、エンジンのリミッタみたいな、もったいない寸止め感があるんだよね。

まあオレの場合、あらゆる事がネタになる商売なわけだから、そう思うんだろうケド、細かい事でいちいち腹立てる時期っつか、年代は既に通り過ぎちまったってのもあるだろうけど、まぁともかく、人っていうのは面白いもんだ。

こんな事思ったのは、実は業界のすごい狭さみたいなのって時々忘れそうになるんだけど、ともかく悪い事するとその噂は光より速く隅々まで到達するもので、それ忘れると大変な事になる、ってことだよね。そういう意味じゃムラ社会なんだろうな。もう一個同じ規模の業界があれば、こんなことにはならないんだろうケドね。

などと雑文を書いてみたわけだ。

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2008年4月21日

福山のアホ

1800キロも離れたわが故郷より父が来訪中。
一緒に長崎美術館の福山雅治写真展「残響」を観にいった。

私が東京から長崎へ初めて来たとき、
偶然市内の書店で福山氏のインタビューを読んだ。

長崎という街が嫌でしょうがなかった、
逃げ出したくて、原チャで走っていつも挫折した、とか。
東京に出て成功しても、殆どこっちには帰ってこなかった、とか。

それを読むまで、彼がそんな事を思ってたとはまったく知る由もなかったわけですが。
ひとつひとつのその言葉が、まるで自分の事のように、心に刺さってきた。

今の僕も、自分の故郷が嫌で
恐らく二度と帰りたくない、住みたくない、そう思っている。
それは、親との確執や、環境の事や、
または、前にも書いた友人たちとの決別のこともある。
ともかく僕は故郷を捨てたのだ。

そうして1800キロも離れたこの場所で今暮らしている。

同じようにこの街を嫌い出て行った福山氏に
僕は少なからずシンパシーを憶えるよ。

そんな福山氏が、今になって故郷のことを思い、
それを写真にしたり、言葉にしたりしてる。

あれほどまで憎んだ父親と、今ふたりで、
その福山氏の写真展を観ている、ということが、
どこか和解の暗示というか、
もう、お互いが許してもいいんじゃないか、と。

今そうして語り合っておかなければ、
来年再来年が同じようにあるとは限らないではないか。

福山氏も、吹っ切れるのはもっともっと先かもしれないけど
どこか他人じゃないような気もして、看ていたいなと思ったりしてる。


福山といえば。

僕がホテルで働いてたとき、
偶然そのホテルに福山氏が宿泊に来た事があったのですが、
そのときフロントで働いてた女の子が、
「あたしっ!福山の大大大ファンなのー、サインもらってくるっ!」
といって部屋まで押しかけたという事件があって、
福山氏は「えぇ…しょうがねぇえな」と言いながらもサインはしてくれたんだけど、
そのあと「仕事なのにこんなことしていいのかよ?」って怒られたって言う。

そんな話を思い出すのです。

まぁ普通はやっちゃいけませんね。
でもサインはあげたんだね。

クーー。

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