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2007年12月15日

音楽にも読解力

たまたま昨日、某所でこういう議論をしてたところに今朝になってこれ。ちょっとびっくり。

リアルとかリアリティとか - 玄倉川の岸辺

ここでも過去ログでも散々書いてたけれど、何かの情報は誰かの口を通して聞いたという時点でオリジナルではありえなくて、だからこそ「元はどれだ?」と探し続けるのである。


そしてそれは音楽も一緒である。何らかの曲を書く場合、その進行やらメロディは、もちろん作家である自分が構築するのだけど、「こう行くべきである」という、それこそ「空気」というものがあって、その音楽の空気に沿って構築されるのがいちばんキモチイイのである(それをあえて裏切る展開もまたキモチイイのである)。

ほとんどのコード進行とメロディと歌詞が出尽くした今。純然たるオリジナルなどありえない。ほとんどの今の音楽はその構築美とか並べ替えの技を競っているものだと思う。

そんな既製のコピーばかりの音楽など意味があるのか?と言われるだろう。

オレにとっては意味はある。

作家がどのような音楽環境に育ち、今どのような気持ちで音楽を発してるのか。作家が構築したその音楽を聴くことにより、それがリスナーに伝わる。メロや歌詞の中に「ニヤリ」とする部分を発見し、ははーなるほど、と思う。もっと判りやすく言うと「こいつ、あれのファンだな?」と判ってしまうことが楽しいのである。

音楽にとっては、シンガーやプレイヤーはメディアである、と何度も書いた。作家の構築したメロを他人が歌う、というその時点でシンガーの主観や癖が含まれることになり、既にオリジナルではなくなる。プレイやアレンジにも解釈が加えられる。そうすると、作家の意図したままのオリジナルで公開されるということは不可能になるのだ。それはしょうがないことなのであるが、だからこそ「より優れた再生力を持つメディア」であるシンガーやプレイヤーを探すわけだよね。その音楽にとってその表現は明らかに不要、と思われるような蛇足的表現を加えるシンガー、プレイヤーは音楽にとっては邪魔なだけである。

これは実は作家でも一緒で、何かの曲が生まれる場合、その根底には必ず何らかの「デジャヴュ」があるのである。音楽は全て既存の音列の組み合わせで出来ている。作家の脳内で舞っている、それらの音列を、その時の気持ちで掴んでゆく。ポンと掴み卓上に置き、またポンと掴み、卓上へ。数が揃ったらパズルのように並べ替えて磨き上げる。その際にだ。そもそも今回脳内に沸いた音列はどうなりたかったのか。「きみ等はどうなりたかったんだ?」と厳しく自問自答するのだ。そうしてあるべき姿を再構築してゆく。「あるべき姿」ってのはね、どこかに必ずあるんだよ。自分の脳内かどこかの本の中か、或いは街の商店街の通りにか。そうして本来の姿に戻してあげる。それが作家の役割だと思う。

何かの表現には何らかのデジャヴュが必ずある。だからこそ共感や反感があるのだ。全ての場合において、オレが聴きたいのは、見たいのは、読みたいのは、そのデジャヴュの裏に隠された「本当に言いたいこと」である。それそのものは創作だろうがネタだろうが一向にかまわないのである。言葉の裏、言い回しの尻…。眼に見える情報の全てから、五感を最大限駆使し、オリジナルの書き手が脳内で描いていたオリジナルのしっぽを掴む。その表現されたものに準えて書き手が本当に言いたかったことを探すのだ。

だから、それが何も感じられないものに対しては激しく嫌悪感を抱く。たとえば文章を書くための文章とか。てめえ指の運動でドーパミン分泌させてんじゃねえよ、みたいな文章。

オレの15年前のアイディアメモノートにこんな言葉があった。「あなたとわたしの脳が直結してたら」表現で悩むことはないのに。

永遠のテーマだな。

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