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2007年12月17日

神聖なる自分の領域

両親やクラスメイト、教師から疎んじられ、どこにも居場所が無かった10代の頃。周りの全てを「薄汚いインチキな世界」と信じ、必死に自分だけの世界をつくり、そこに逃げ込むことでなんとか自分を保って生き抜いた。それは主に音楽であったが、それだけではない。いろんな本、アイドルの写真、自分で描いたヘタクソなマンガ、自己満足な評論もどきの自筆散文、好きな子にもらったメモ書き…。

オレはそれらを「神聖にて侵すべからず」と考え、他のどうでもいいモノたちとは決して混ぜたりしなかった。親に貰った本とかを横に並べることすら汚らわしいと感じ、それを触れた同じ手で触れることも避けた。インド人ではないが、自分のものと、他の人の物は、触れる手の左右を完全に使い分けた。

自分自身の脳内でも、それらははっきりと隔離して考えた。たとえば親や教師のことを思い浮かべ、その後「好きな子」のことを思い浮かべようとする時、その間に必ず例えば「好きな曲」などのことを想像するようにし、そういうことを間に挟むことで、直接繋がることを極力回避した。一瞬でも混ざり合えば、ものすごく汚れるような気がした。

そういう思考は社会人になってからも続き、たとえばバイトのシフト表などと、音楽の歌詞カードなどとは決して一緒にしなかったし、バッグやかばんの中でも、しっかり収納場所を分けた。仕事で使うペンと音楽に関してのメモを書くペンは分けていたし、人格や言葉使いも意図的に変えた。職場で同僚が使った書類やらを触ったその手で、大切なCDを触るとかもやらなかった。両者を混ぜることは決してしてはいけないことだ、と。徹底していたのだ。

Winnyなどで企業データやら不倫写真やらが流出した時に思ったのは「仕事で使うデータと自分の彼女とのデート写真を一緒にしてることが、まず自分的にありえない!」だった。なんで一緒くたにしてるのか??パソコン本体がわけられなきゃ、ドライブでもいい。同じ領域に置いていることがまず考えられない。

そして「この人たちはまったく違う人種なんだ」と理解した。

最近どこかで、日本人の近代の道徳心は国の替わりに企業が教えていた、という話を読んだ。確かにその通りだなと思わせる説得力があってなるほどと思ったものの、もしこれらが本当だったらオレは生きてはいけなかったな、とも思った。公私の隔てがほとんどなく、何から何まで企業に面倒見てもらう。素晴らしい安定生活だが「神聖なる自分の領域」を守るのは非常に難しいだろう。

炭鉱みたいな鉱物掘る街や、造船みたいな財閥城下町みたいなところでは、そういう傾向があったんじゃないかと思う。某車メーカーの勉強会みたいのもそうだけど、「滅私」という世界で自分が生き抜ける自信はない。

以前書いたようにうちは公務員一家だったが、福利厚生は充実してたものの別に仕事べったり染められてたわけではない記憶がある。少なくとも雇い主を神扱いなどすることとは無縁だった。そこらへんに自分が逃げ延びられた理由があった気がする。

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