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2007年9月17日

想い出のスマハマ=砂に消えた涙

個人的なことですが極めて重要なことを書きます。

今日一日ずっと「砂に消えた涙」を聴いていました。
延々と聴きながら泣いていました。

「外人」がイメージする日本のメロディとは、
どういうものでしょうか。

ヴェンチャーズの「京都慕情」もそうですが、
「外人」のイメージする日本メロディというものは
泣けるメロディですね。

昨日おとといと山口修先生の日本歌謡コンサートを聴き、
自分のアイデンティティを思い出したのです。

4度7度抜き日本メロディが日本固有のものではないこと。
そのメロに美しいコードを付けると素晴らしい曲になること。

50年代〜60年代のアメリカ映画界が
東洋や第3世界のエキゾティック路線を打ち出し
音楽もそういったカラーの曲が多く生み出されたこと。

「外人」の解釈する「東洋」路線が
実は美しい旋律とアレンジの楽曲であったこと。

60年代〜70年代の日本で、
そういった路線の切ない音楽が継承されたこと。

ヴェンチャーズの歌謡曲時代の曲も
そういったカラーで生み出されたこと。

砂に消えた涙もその元祖に近い存在であったこと。


思い出のスマハマはビーチボーイズの曲です。
作曲者がマイク・ラブであったこともあって、
この曲は長年迫害されてきました。

しかし私がこの曲がとても好きなのです。

これはマイク・ラブなりの東洋オマージュなのだと思うのです。

外人のイメージする安易な東洋路線、ということで
片付けてしまうと、本質を見失うと思う。

この曲は、マイクにとっての「ディズニーガール」なのです。

http://jp.youtube.com/watch?v=ksieNCXVH-k

http://www.youtube.com/watch?v=nQ_kpV3wFK4

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2007年9月12日

もつかれ

修行の旅より無事帰国いたしました。

お世話になったみなさま。ありがとう。

柚子こしょうのやきとりで発泡酒、乙。

ホテル時代以来15年ぶりくらいで、
ビール死ぬほどウマ!!って思いました。

僕はそれでも生きてゆくのさ。

10年ぶりの「風の坂道」泣けたね。
(小田さんの生前墓的遺作で最高傑作)

人生は終わる。

終わるから良いんだよ。

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2007年9月 8日

作品を汚す権利はそれを産んだ著作者にすらない

前に、研究本の翻訳者がミクシで足跡残し、訪問読者に褒められてたのがなんだか嫌だった、と書いたけど、音楽にしろ、文章にしろ、ともかく中間メディアは色付けしてはならない、という気持ちがあるのだ。例えばこの翻訳本だとすれば、著作者こそオリジナルの発信者であり、その後の翻訳者、文体、書籍という物体、フォントなど、それ以外のすべては中間メディアと考えていて、それらが、本体であるオリジナル著作者のカラーを越えてはならない、歪めてはならない、と考える。

同じように音楽も、オリジナルの著作物、極論すれば楽曲(歌詞とメロディ。たとえ鼻歌でも!)こそが元であり、それ以外のものは余計なものである、と考える。まぁ自作自演であったら、そこに歌唱と演奏も加わるのだけど、それでも
「良い曲なのに何この歌い方はー!?」

というのがあるし

「良い曲創る人なのに何この態度や発言はー!?」

というのがあるでしょう。

著作物を産んでいる人でメディアに携わる人は、作品を産んだ責任というものがある。

偉いのは産んだ人ではなく産まれた作品である。

その作品を汚す権利は、それを産んだ著作者にすらない、と言ったら言いすぎだろうか。
その辺、忘れている人が多いのではないかな?

まぁ長くなりましたが、そういったことで極力自分のカラーが他に及ばないよう気を付けているのです。ってことです。自分自身への戒めを含め、改めて書いておきたいですね。

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2007年9月 7日

餌付けピラミッド

ミクシとかブログでのコメント方式がどうも苦手な理由が急に判って来た。それはおそらく、全員が書き主(親)にぶら下がって、羽パタパタさせながら、レスくださーい!って言ってるからなんだよな。どんなにコメントのレス数が増えようとも、コメント同士のコミュニケーション皆無。

でもこれに違和感感じるって、従来型の掲示板や2ちゃんねる(久々に正式名称で書くと照れるなw)方式に慣れてしまったからなんだよねえ。親子方式のコメント見ると、オマエラもっと活発な議論の展開とかないの?って言いたくなる。

これの弊害はね、親の提示した話題にコメントしてレスすることを目的にする(ことが多い)から、ほとんどの場合は親を超えられないってことなんだよな。つまりコメントのレベルが親の書いたエントリに比例するってこと。だから、集まるのは似たような人たちばかりなわけでさ。

その親にぶら下がってる限りは、親最高という前提があるから、逆らったりしてもいけないし、虐めてもいけない。外から見ると、なにこいつら皆で褒めあってキモって思う。

ミクシ日記のコメントも基本的にそう出来てる。オレ過去何度も話題広げようと思ってコメしたけど、親がレスくれるだけで広がらないんだよ。

もし万が一ほかのコメヌシからレスがあって話題が広がったりすると、今度は親がいじけるしね。きみらうちの日記で勝手に盛り上がらないでくれる?みたいな、ね。

芸能人有名人のブログって、コメ欄開けてても最近レスしてくれないことも多いけど、それは正解だと思う。これは記帳なんだよ、記帳。

そんで、一般人のブログとかミクシ日記は、レスのある記帳。そんで親は「自分はかまわれてる、愛されてる」って安心するわけだ。

…なるほどねえ。

自分の過去の行いの動機が今わかった、みたいなちょっと新鮮な発見だった。

そうすると、ある場所で親であり、コメントする子供にレスという餌を与えていた人は、また別な場所で、今度は子供となり、レスくださーい、って羽パタパタさせてることが在り得るわけですな。親であった人も、今度は子供となりレスという餌をもらっている。そんで、その親は自分よりも少しだけ大きい親なわけで。そんでまた、その親も別な場所に、少しだけ大きな親がいて、そこでは子供となり餌をもらっている…。

子供は永遠に親を越えられないから、そうすると、どこがいったい最下層なんだろうか、という疑問が湧く。

これを平衡なコミュニケーションだと捉えていないところがオレらしいでしょうw

つまり上下関係がある、と思ってる。思っていますとも。

人はみんな特別なオンリーだとか何とか言ってるが、実際に現実がそうだったら、そりゃあ望ましいけれど、実際はそうでないから、不平不満があるんじゃないのかね?

その最下層で、小さな親を相手に必死に羽ばたつかせて「餌くれー」って言ってる人たちには、オレもおせっかいだからね、「一歩外出れば、もっと良い親がいくらでもいるってば!」と言いたくなってしまう*1

ネットもミクシも、網じゃなくてピラミッドなんだ、と。そういう現実を認めなきゃいつまで経っても変わらないんじゃないかな。自分も。

*1:でも実際は、自分の親って一組しかいないんだよね…

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2007年9月 5日

あまりにも美しい音楽を聴くと死にたくなる

あまりにも美しく完璧な音楽を聴くと死にたい気分になる。実際これは友人と言っていたのだ。美しい音楽を聴いた時に、死にたくなるような音楽だねぇ…。そうだねぇ…。と。

なぜこのような感情になるのだろう、と最近考える。たぶんそれは、もはやオレらに残されてることがないからだろう。こんな美しい音楽があるのに、これ以上オレらに何が出来るのだ??と。もうこれでいいではないか?と。

友人とそんなことを言っていたのは10年位前のことだった。それがまた再びそんなことを思うようになったきっかけは、クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲をたまたま観て、その挿入歌である「白い色は恋人の色」を聴いたからなのだ*1

この曲はとっても古い歌なので、さすがのオレもリアルでの記憶は定かではない。しかし、オトナ帝国の逆襲のなかのオトナたちのように、オレはすっかり打ちのめされてしまったのだった。

この曲は70年代初期の日本の古きよき時代の象徴として主に使用されている。つまり、過去は良かった、美しかった、という描写だ。

しかしだ。オレにはそんな振り返って楽しかった過去などあまりない。あまりないはずなのに、むしろつらかったはずなのに、それでも、そんなオレでもとてつもなく懐かしく、死にたいほど美しいと感じてしまうのは一体なぜなんだろうか。

そんなことを思うのは何もこのような日本の音楽だけではない。たとえば古い映画のサウンドトラックとか、本当に良く出来たクラシックとか、ジャンルには関係がなく感じる。

おそらく、だけど、まだ自我が確立する前とかに知らずのうちに聴いていた音楽、そして、意識はしていないが現在の自分の音楽性の形成に非常に影響を与えている音楽だった場合にそうなるのではないか。

つまり自分は、自分自身の作品を日々創り、それを最高な作品にしたい、と願いながらも、実はその音楽性形成時に刷り込まれた音楽が完全無欠である、と無意識に思い続け、常にそこに戻りたい、と考えているからではないか。

そして、どう頑張ってもそれを越えることは出来ない、と聴いた瞬間に悟ってしまい、絶望を感じるからなのではないか。

決して親の元には、母の胎内には戻れないように、その音楽へも決して戻れないのだ。

他人のことなど知る由もないけど、今の若い人たちが絶望を感じているとするならば、この「決して越えることなど出来ない」という無意識な思い込みのようなものがそうさせてるんじゃないだろうか*2

それが星新一氏の「たそがれ」のような状況を生み出してるのかもしれんな…。

などと考えた。


追記。
ちょっとこれを意識した。
というか前から気になっていたエントリ。
『時をかける少女』を見て死にたくなる人はほかの学園ものを見ても死にたくなるのか? - ARTIFACT@ハテナ系

*1:オリジナルはこれ。アニメと歌を編集した秀逸なビデオもYouTubeにあったが今はニコニコに(youtubeのと若干違う)。
*2:「白い色は恋人の色」を作詞した北山修氏は当時20代前半の若者であり、普通はここまで過去を懐かしむ年齢ではないと思う。そう考えるとヒントになる気がする。

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2007年9月 4日

テクノでドーパミン

これ読んでたらふと思い出したことがあったので書いておく。

なぜドーパミンが出ない所で仕事を探すんだろ? - アンカテ

オレは元々ドラマーだったのだが、もちろんドラムというパート自体は好きだったのだが、汗かくことが嫌いで、あと楽器がたくさんあって運ぶのが大変なところも嫌いで、そんなオレにとってはTR808を使ったハウスの出現は神のようだったね。

もともとTR808の打ち込みビートにグルーヴがあると思ってたオレは、近田春夫氏のハウス理論に、わが意を得たりと大喜びして乗ったクチ。

そう。グルーヴには人間特有の揺らぎが不可欠、とか言うが、実際はそんなことはない。絶妙なデータの積み重ね次第で、均等リズムでもグルーヴは産むことができる*1

その頃のオレの製作してた音楽は、殆どが自分自身による生楽器演奏の多重録音だったが、時代が進み殆どの演奏を機械に変えられれば、良い時代になるな、と思ってたフシもある。もちろん、それには、そんな緻密な打ち込みに耐えられるだけのスペックが必要だし、サンプル音自体のクォリティも上がってなければ、インチキモンドミュージックみたいなサウンドになってしまうし*2、ということで、それらがクリアされる時代を待っていたわけで、そういう意味では、いよいよ最高の時代到来も近い、と思ってもいる。

均等リズムにもグルーヴがある、って言うのはテクノでも証明できるのではないだろうか。最初に取り上げたessa氏のエントリで奇しくも取り上げられているが、

たぶん、曲を弾いてドーパミンが出るくらいではプロにはなれない、単調なスケール練習をしていてもドーパミンが出るくらいでないとだめなんでしょうね。

これは、ご本人は半分冗談のつもりで書いたのかもしれないが、オレから言わせると事実である。単調な機械ビートに乗せてのスケール練習は、本当にグルーヴがあるし、プレイヤーもリスナーもドーパミンが出る。どんどんキーを変えて進んでいって、ちょっとづつパッドとかオカズなんかを加えていけば、30分後くらいには、フロアもトランス状態になるだろう。

これは実は Robert Fripp氏が The League Of Gentlemen で実践した方法論にも似ている。

これは生演奏だが、これの、ギター以外をすべて打ち込みに変えても、いや、むしろそうしたほうが、より優れたものになる、と個人的に確信する*3

以前ここで書いたが、自分を曝け出し、自由になることを嫌悪していた自分にとって、熱いのにバカっぽくない、というのは人生観を変えるほどの発見だったわけだが、つまり、ハウスやテクノには、明らかに「」という要素が従来の音楽に比べると薄く、バカっぽくない、しかし熱い、という状態が可能となると感じている*4

それを突き詰めていく終着部分に、今後のメディア、ひいては音楽のあり方、というもののなんらかのヒントなりが隠されているような気がしている。

*1:補足すると、楽音である必要すらない。台詞やSE擬音の類でも絶妙な配列であればグルーヴを産む。
*2:マジメにやっても「音質的に」モンドミュージックの域を出ない、という意味。音楽性が、ではない。
*3:この動画の楽曲はロックっぽいリフだが彼らのライブ盤には実際スケール練習としか思えないような曲も収録されている。
*4:これは生身の人間排除という意味合いか。音楽の2次元化なのか。そう捉えると興味深い。

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