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2007年4月10日

遠まわしな自分語り

直感を信じる

自分を信じる

好きを貫く

人を褒める

人の粗探ししてる暇があったら自分で何かやる


直感を信じろ、自分を信じろ、好きを貫け、人を褒めろ、人の粗探ししてる暇があったら自分で何かやれ。 - My Life Between Silicon Valley and Japan

梅田望夫氏の記事がきっかけで盛り上がっている最近のポジティヴ談義でひとつ感じることがあるのでメモ。

堀江氏の話題の時に少し触れたが、オレの父親は大変厳しく家庭内では絶対君主として君臨しており恐怖政治を行なっていた。理不尽だと思っても、逆らうことも口答えも言い訳も許されなかった。「父親」、そして「大人」という立場を最大限利用し権威への盲従を強制した。
それでも、こちらが成長してくると父親の言うことの矛盾点などに気付くようになる。また、そんな家庭内の状態は異常である、ということにも気付く。しかし自分の言動だけでは相手を屈服させることは不可能だった。相手を言い負かすには、それ相応の説得力や裏づけや確固とした信条が不可欠だったのだ。そこでオレは音楽やら書籍やらの中から、そうした確固たる裏づけに役立ちそうな文脈とか発言などを、自然に探すようになった。自分は間違ってない。間違ってるのは相手である。でもそれを証明できない。自分の拙い意見だけでは相手を納得させられない。
だから人の手を借りたのだ。ほら。こんな人もこんなことを言ってる。彼もそう書いてる。さながら当時の自分は「アンチ権威ポータル」化された存在となっていただろう。それはもちろん父親だけではない。似た気質を持った知人、教師、上司など、様々な交友関係に及ぶ。このような人間は自分だけではない。似たような厚遇の人間は他にも居る。似たもの同志は群れる。アンチ権威の徒党状態。こうして20代になった。 そこで、かのジョンレノンの発言「泳ぎ方を習ったのなら泳げばいい」にぶちあったのだ(真意は「水泳のコーチは泳ぎ方を教えただけ。習ったなら泳げばいい。コーチを崇め続ける必要はない」という感じ。暗殺直前のラストインタビューで発言。~補足。アーティストを崇拝し追いかけたりするようなロック界の風習に憂慮したと思われる発言。重要なのは音楽や言葉そのものであって、それを発した人間のほうに気を取られるべきでない、ということ。)。
必死になって探し集めた「アンチ権威アーカイブス」。その中に答えはすべて書いてあり、その後の自分の行く道のヒントも呈示されていたのである。オレのやることはこれらを人に広めることではない。そこに書かれた数々の至言、名言、方法論を元にし、自分の道を歩むことなのだ、と。そうしてオレは「アンチ権威ポータル」の管理人的状態から開放された。オレにとってそれは宗教であり、自分の意見に箔をつけるお守りだった。そばに居てくれると安心する「アンチ権威」用心棒だった。他人の意見に乗っかり、それを振りかざして相手を言い負かす。自分もいつしか権威を求めてたのだ。今こうして「ポジティヴ」談義が盛んであるのも、日々自分の日常がポジティヴではないのではないか、という恐れがそうさせるのであろう、と。じわじわ押し寄せる「ネガティブな誘惑」との戦いと葛藤。そんな日々に疲れた彼ら。そんな彼らが梅田氏の「ポジティヴ論」という絶好の味方を得、逆襲に出た、と考えると面白いではないか(僕自身の葛藤はこちらのコメント欄で。→Scott’s scribble - 雑記。 )。


さて続き。オレが音楽で誰かに何かを伝えたいと思ったとき、その対象はやはり自分に似た人ということになった。彼らは(即ちかつての自分も)他人の言うことなど滅多に聞かない、ということが特徴。正しいのはすべて自分であり、下らんお前の意見など聴く耳持たない、という一貫した態度。こんな人に自分の意見を聴いてもらうのは容易いことではない。しかし伝えたい。多数の習作、駄作の製作を経て辿り着いた、オレなりの歌詞推敲の方法論。

命令形をつかわない。

必要以上の要求もしない。

押し付けない。

人称代名詞を極力使わない。

そして。自分語りをする。

…だった。

ここで何度か言って来たこととも繋がってくる。読めとか聴けとか言わない。人は自分が何か欲してる時には自然にそれを見つけるものである、とよく言うけれど*1、つまり、普段から目に入っているものでも、それが自分が欲しいものでなければ、その存在に気づかないということ。だからいつ気付いても良い様にさりげなく置いておく。準備も整ってないのに「読め」と言ったところで拒否反応を起こすだけだ。オレが過去よく使った言い回し「遠くにボールを投げる」もそういう意味。目の前の相手に対しては言わない。今投げておけば将来誰かが受け取るだろう、と。公開された文章はいつでもどこでも閲覧可能状態であるのだから、誰か彼か読むだろう。それで良い。ストレートでなくボディブロウのほうが効くってこと。

そして。最後の「自分語りをする」。

お前の下らん「うち明け話」など読んでどこが面白いか、という意見もある*2。ブログの日記文章などもその類。しかし。自分自身の言葉で書かれたものは、ひとこと写真日記でも恋愛日記でも、その人が反映されている、とオレは考えている。受け売りの寄せ集め文章でなく、本当のその人の選択による言葉*3。くだらん恋愛の歌が多い、とよく嘆く人が居るが、作者は、その恋愛の歌に準えて、実際は自分自身の人間観とか人生観を(知らずのうちに)歌っている。つまり、今この歌の対象は目の前の異性だが、それを友人とか親に置き換えても、多分違和感がないはず。フロイトではないが、何らかの表現物があった場合、そこからすべて読み取ることができるって感じ。もちろんオレの文章も、である。だから自分語りは面白いのだ。そこに見えるのは裸の相手の姿なのだ。


さてここでhankakueisuu氏。
梅田望夫を信じるな。梅田望夫を疑え。梅田望夫を罵れ。梅田望夫の荒を探し全身全霊を持って叩け

これを読んで気付いたこと。
「梅田氏も自分語りをしただけなのか!」

梅田氏の言葉はすべて自分自身に対して言っている。そう考えると納得がいく。がしかし、彼が本当に伝えたい相手には受け入れられなかった。おそらく彼が本当に伝えたい相手は、彼らを賛辞した人々ではなかった。むしろ彼の発言に拒否感を示した人々に対してであったと(オレは勝手に)想像する。あまりの言い切りっぷりに彼の本音が見えなくなっていたが、hankakueisuu氏の指摘により、幾分見えやすくなった。あのエントリは実は弱音だったと捉えれば、受け入れやすい気がした。オレの父親もそうであったが、実は弱い人間ほど権威的に振舞うものだ。

前掲したオレ独自の方法論。
これで書き直してみたのがトップに書いた文章だ。

直感を信じる

自分を信じる

好きを貫く

人を褒める

人の粗探ししてる暇があったら自分で何かやる

梅田氏を代弁者にしたい向きにはなんだか弱気で頼りないだろうが、オレにとっては、このほうが、なんだか彼の本音が垣間見れた気がして共感できる*4。本当に相手に伝えたいと思ったら全身全霊でその表現方法を磨くべき。くわしくないけど、プログラムだって1字の間違いで動かないんじゃないの?人の感情だって同じなんだよな。


追記と補足

直感を信じたい

自分を信じたい

好きを貫きたい

人を褒めたい

人の粗探ししてる暇があったら何かやりたい


これもおもしろい。より本音っぽい。でもなんだか似非JPOPみたいで笑えます*5。やはり最初に書いたほうが、颯爽としてて良いかな。

*1:水を飲まない馬の格言も有名
*2:既にここで取り上げられている
*3:その際たるものがキャロルキングであろう。
*4:奇しくもジョンレノンのGODみたいになっている
*5:なんか鈴木a美さんっぽいな。同じことを桜井和寿氏が言ったらどういう表現方法になるか。とかいろいろ想像すると面白い。

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