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2007年4月24日

コンテンツを産む機械

様々なメディア関係の人々と会合続きの日々。

最近はようつべだ、データ販売だ、でIT関連業者のメディア参入も多い。彼らは実に上手くポータルみたいな物を創るし、綺麗にサイトもまとめる。
まあいうなれば、綺麗な陳列棚をたくさん並べた超最新型コンビニみたいなお店を作り、「さあ商品並べてください」ということで、当然コンテンツが不可欠だから、その製作依頼は我々に回ってくる。

まぁ全員がそうではないのだが、そういった方々は概して創作方面への想像力というものがなく、言えばなんでもポンと産めるものだと勘違いしているフシがあり。

まさに「産む機械」と思われているわけだ。

「産む」ということで言えば、確かに、十月十日ではないが、時間をかけて育くめば良い作品は産まれるかもしれない。しかしプロのクリエイターたるもの、そんな10ヶ月も育むような悠長なサイクルで良いのか?と当然思われるであろう。

そう。
実際のサイクルは、はるかに速いスピードになっている。
そして、そうでなければやっていけない。

卓越したプロの仕事はそれに対処しているし、
結果、表面上は確かに

ポンと産んでいるように見える

しかしそれには。


24時間365日アンテナを張り続け、脳をオンにし続け、あらゆる情報を取り入れ、音楽的シナプスを活性化させていなければならない*1

依頼者のイメージを受け、脳の中で音とイメージを探し、これ、これ、これ、と並べ、始まりから終わりまでの流れを簡易的に構築させる。

これは、慣れればほぼ一瞬でできる。

しかしそれには、前述したように、日々のオン状態がモノを言うわけで、それなしには、なしえないと思う。みんながそうだとは言い切れないが、これによる累積ストレスはかなりなものじゃないかと思う。

まあそれは音楽に限らず、どんな仕事でもそうであると思うのだが。

その辺の理解を抜きにして、依頼者側に、まるで魔法のように「チョチョイノチョイ」と出来上がるんだろう、と思われてるとね。そりゃあ仕事ですからやりますけども、両者間に暖かい感情が通うことはないだろう、ということになる。
所詮は人間が作ってるものですからね。より理解してくれる人と組みたいと思うのは当然の感情だろう。

この辺の感情は、今までここで述べて来たこととも繋がる。つまり書籍化による文の引用や、リミックスにおける音源の引用、同一性保持の件にしても、そこになんらかのシンパシーなり、配慮なり、リスペクトなり、なければ、相互理解などありえないってことである。

気持ちよく仕事したければ、お互いその努力が必要なのだ。

その辺が欠けていた為に、件の「産む機械」発言だって叩かれたのだろう。オレだって、「コンテンツを産む機械がこれだけ揃ってるのは心強い」などと依頼主に言われたら、あんまり良い気持ちはしない*2

あんまり決め付けたくはないのだけど、IT土建屋的な方々には、どうもその辺の配慮が欠けている印象が否めなくて、仕事するたび、なんともいえないモゾモゾ感に、なんだか薄気味の悪い思いをする。温度差というか、この人たちには本当に売りたいものとかあるのだろうか?という素朴な疑問が生まれて来るのだ。

その辺にオレはかつての「箱物行政」の姿を見る。

でっかい立派なホールあちこちに建てまくって、さあ演奏してください、と。いやいや。演奏する人を育ててませんから、って話でさ。まず入れるもの創ってから箱作りましょうよ。って。

結局オレ的には、そんな連中に牛耳られるのが嫌だから、必死にネットやらWEB2.0やら勉強したわけで、つまり、「知らない」という極めて単純な理由で、相手より下手にならざるを得ない状況になることだけは、回避したかったというわけである*3


自分が出会う相手と自分のレベルは同一である、とよくいうし、まあこれも一種の自己責任であろう。どうしようもない相手と会っても「いい勉強になった」くらい言えないとな。

ウハウハしていた。

売れればなんでも良かった。

今は廃業している。



*1:よくある、数年のブランク後に曲が書けなくなったー、というのは、つまり、常にオンである状態から外れることで、その回路が劣化した状態である、と考えられる。
*2:もちろんハードではなくクリエイター本人を機械に例えたとして。
*3:そういう意味では、ネット黎明期におけるウォッチングは、今になって随分役立っていると思うよ。ヒキコモリ万歳ですな。

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2007年4月14日

音楽のメディアリテラシー

個人的にいつも感じてることだが、音楽に関する意見、主張、評、というものは、残酷なほど、その人のメディアリテラシーを暴露してしまうと思う。その他の部門、例えばマスコミ、政治、ITなどにかかわることでは優れた能力を持っている人でも、こと音楽となると、その見解、理解度に「??」となることも多い*1

特に洋楽ロックにおける、40代以前と以降の人々の捉え方の差は、想像以上に大きいと感じている。悲しいほど差が付いている。これは彼らのせいだけではない。日本における洋楽の紹介のされ方が、そもそも限られた情報と偏見によるものだったのであり、まぁそれに関しては、当時のメディアやレコード会社宣伝部長といった方々に対し言いたいことも山ほどあるけど、彼らにすべての責任を押し付けるのも、ちょっと酷というものだな。彼らだって少ない情報の中で一生懸命やってたはずだからである。

ロック音楽に関して何かを述べる、ある一定の年齢以上の人々の特徴は言い切り形が多いということである。

長年の洞察力と研究により導き出した自説には自信がある模様だ。しかしそもそも情報量が違っていた、という不利なスタートだったため限界がある。問題は「限界がある」ということを、本人が理解していないところにある。メディアリテラシーというものが重要だとわかっていても、それがロック音楽を語る場合にも当てはまるということに気付かない場合が多いのだ。

音楽は大多数の人々にとっては趣味嗜好の分野であり、気軽に語れるものだ。しかし、偏見かもしれないが、30代より以下の人々は、その「気軽に語った」文章でも一定のレベル以上にある、という印象がある。それは情報量の差によるものだろう。生まれた時点で、既に知っている情報を多数取り入れることが出来るのだから。

主にロック音楽について語ったから、そのラインを40代としたが、これは生まれたジャンルによって異なるであろう。

つまり例えばビバップであれば、そのラインは50代にあるかもしれない。ヒップホップであれば20代にあるかもしれない。

個人的には、90年代以降はほぼすべてのジャンルが平行ラインに並んだという印象を持っている。情報が、全ての人々に対しほぼ同条件下で呈示され、すべて分析されつくし、ヴィンテージものから最新ものまで、すべて同等と扱われた。

日本の音楽の始まりはそこからだと捉えている。

オレは未来を悲観していない。
日本の音楽はこれからであるし、すべてきみらのものである。


*1:津田大介氏はバランスの取れた稀有な方と思う

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2007年4月10日

遠まわしな自分語り

直感を信じる

自分を信じる

好きを貫く

人を褒める

人の粗探ししてる暇があったら自分で何かやる


直感を信じろ、自分を信じろ、好きを貫け、人を褒めろ、人の粗探ししてる暇があったら自分で何かやれ。 - My Life Between Silicon Valley and Japan

梅田望夫氏の記事がきっかけで盛り上がっている最近のポジティヴ談義でひとつ感じることがあるのでメモ。

堀江氏の話題の時に少し触れたが、オレの父親は大変厳しく家庭内では絶対君主として君臨しており恐怖政治を行なっていた。理不尽だと思っても、逆らうことも口答えも言い訳も許されなかった。「父親」、そして「大人」という立場を最大限利用し権威への盲従を強制した。
それでも、こちらが成長してくると父親の言うことの矛盾点などに気付くようになる。また、そんな家庭内の状態は異常である、ということにも気付く。しかし自分の言動だけでは相手を屈服させることは不可能だった。相手を言い負かすには、それ相応の説得力や裏づけや確固とした信条が不可欠だったのだ。そこでオレは音楽やら書籍やらの中から、そうした確固たる裏づけに役立ちそうな文脈とか発言などを、自然に探すようになった。自分は間違ってない。間違ってるのは相手である。でもそれを証明できない。自分の拙い意見だけでは相手を納得させられない。
だから人の手を借りたのだ。ほら。こんな人もこんなことを言ってる。彼もそう書いてる。さながら当時の自分は「アンチ権威ポータル」化された存在となっていただろう。それはもちろん父親だけではない。似た気質を持った知人、教師、上司など、様々な交友関係に及ぶ。このような人間は自分だけではない。似たような厚遇の人間は他にも居る。似たもの同志は群れる。アンチ権威の徒党状態。こうして20代になった。 そこで、かのジョンレノンの発言「泳ぎ方を習ったのなら泳げばいい」にぶちあったのだ(真意は「水泳のコーチは泳ぎ方を教えただけ。習ったなら泳げばいい。コーチを崇め続ける必要はない」という感じ。暗殺直前のラストインタビューで発言。~補足。アーティストを崇拝し追いかけたりするようなロック界の風習に憂慮したと思われる発言。重要なのは音楽や言葉そのものであって、それを発した人間のほうに気を取られるべきでない、ということ。)。
必死になって探し集めた「アンチ権威アーカイブス」。その中に答えはすべて書いてあり、その後の自分の行く道のヒントも呈示されていたのである。オレのやることはこれらを人に広めることではない。そこに書かれた数々の至言、名言、方法論を元にし、自分の道を歩むことなのだ、と。そうしてオレは「アンチ権威ポータル」の管理人的状態から開放された。オレにとってそれは宗教であり、自分の意見に箔をつけるお守りだった。そばに居てくれると安心する「アンチ権威」用心棒だった。他人の意見に乗っかり、それを振りかざして相手を言い負かす。自分もいつしか権威を求めてたのだ。今こうして「ポジティヴ」談義が盛んであるのも、日々自分の日常がポジティヴではないのではないか、という恐れがそうさせるのであろう、と。じわじわ押し寄せる「ネガティブな誘惑」との戦いと葛藤。そんな日々に疲れた彼ら。そんな彼らが梅田氏の「ポジティヴ論」という絶好の味方を得、逆襲に出た、と考えると面白いではないか(僕自身の葛藤はこちらのコメント欄で。→Scott’s scribble - 雑記。 )。


さて続き。オレが音楽で誰かに何かを伝えたいと思ったとき、その対象はやはり自分に似た人ということになった。彼らは(即ちかつての自分も)他人の言うことなど滅多に聞かない、ということが特徴。正しいのはすべて自分であり、下らんお前の意見など聴く耳持たない、という一貫した態度。こんな人に自分の意見を聴いてもらうのは容易いことではない。しかし伝えたい。多数の習作、駄作の製作を経て辿り着いた、オレなりの歌詞推敲の方法論。

命令形をつかわない。

必要以上の要求もしない。

押し付けない。

人称代名詞を極力使わない。

そして。自分語りをする。

…だった。

ここで何度か言って来たこととも繋がってくる。読めとか聴けとか言わない。人は自分が何か欲してる時には自然にそれを見つけるものである、とよく言うけれど*1、つまり、普段から目に入っているものでも、それが自分が欲しいものでなければ、その存在に気づかないということ。だからいつ気付いても良い様にさりげなく置いておく。準備も整ってないのに「読め」と言ったところで拒否反応を起こすだけだ。オレが過去よく使った言い回し「遠くにボールを投げる」もそういう意味。目の前の相手に対しては言わない。今投げておけば将来誰かが受け取るだろう、と。公開された文章はいつでもどこでも閲覧可能状態であるのだから、誰か彼か読むだろう。それで良い。ストレートでなくボディブロウのほうが効くってこと。

そして。最後の「自分語りをする」。

お前の下らん「うち明け話」など読んでどこが面白いか、という意見もある*2。ブログの日記文章などもその類。しかし。自分自身の言葉で書かれたものは、ひとこと写真日記でも恋愛日記でも、その人が反映されている、とオレは考えている。受け売りの寄せ集め文章でなく、本当のその人の選択による言葉*3。くだらん恋愛の歌が多い、とよく嘆く人が居るが、作者は、その恋愛の歌に準えて、実際は自分自身の人間観とか人生観を(知らずのうちに)歌っている。つまり、今この歌の対象は目の前の異性だが、それを友人とか親に置き換えても、多分違和感がないはず。フロイトではないが、何らかの表現物があった場合、そこからすべて読み取ることができるって感じ。もちろんオレの文章も、である。だから自分語りは面白いのだ。そこに見えるのは裸の相手の姿なのだ。


さてここでhankakueisuu氏。
梅田望夫を信じるな。梅田望夫を疑え。梅田望夫を罵れ。梅田望夫の荒を探し全身全霊を持って叩け

これを読んで気付いたこと。
「梅田氏も自分語りをしただけなのか!」

梅田氏の言葉はすべて自分自身に対して言っている。そう考えると納得がいく。がしかし、彼が本当に伝えたい相手には受け入れられなかった。おそらく彼が本当に伝えたい相手は、彼らを賛辞した人々ではなかった。むしろ彼の発言に拒否感を示した人々に対してであったと(オレは勝手に)想像する。あまりの言い切りっぷりに彼の本音が見えなくなっていたが、hankakueisuu氏の指摘により、幾分見えやすくなった。あのエントリは実は弱音だったと捉えれば、受け入れやすい気がした。オレの父親もそうであったが、実は弱い人間ほど権威的に振舞うものだ。

前掲したオレ独自の方法論。
これで書き直してみたのがトップに書いた文章だ。

直感を信じる

自分を信じる

好きを貫く

人を褒める

人の粗探ししてる暇があったら自分で何かやる

梅田氏を代弁者にしたい向きにはなんだか弱気で頼りないだろうが、オレにとっては、このほうが、なんだか彼の本音が垣間見れた気がして共感できる*4。本当に相手に伝えたいと思ったら全身全霊でその表現方法を磨くべき。くわしくないけど、プログラムだって1字の間違いで動かないんじゃないの?人の感情だって同じなんだよな。


追記と補足

直感を信じたい

自分を信じたい

好きを貫きたい

人を褒めたい

人の粗探ししてる暇があったら何かやりたい


これもおもしろい。より本音っぽい。でもなんだか似非JPOPみたいで笑えます*5。やはり最初に書いたほうが、颯爽としてて良いかな。

*1:水を飲まない馬の格言も有名
*2:既にここで取り上げられている
*3:その際たるものがキャロルキングであろう。
*4:奇しくもジョンレノンのGODみたいになっている
*5:なんか鈴木a美さんっぽいな。同じことを桜井和寿氏が言ったらどういう表現方法になるか。とかいろいろ想像すると面白い。

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2007年4月 4日

惚れた弱み

昨今話題のこの話ですが、今までのネタに絡めてひとつだけ言いたい。


何しろ一旦「好き」になってもらえればいくらでも消費してくれるし、タダ同然で労働力を差し出してくれる。
こんなオイシイ話はないわけです。
だからこそマインド・ハックから脳を守る二冊で書いたような心理テクニックを使い、世の中は是が非でも「好き」を捏造しようと迫ってくる。
はっきり言ってしまうと、まず注意すべきなのは「好きなことをしろ」と声高にいう人達なのかもしれません。


2007-04-03 - 赤の女王とお茶を より。



まさに芸術関係の仕事がそうだと言えます。

これは先日の津田氏のエントリ、
音楽配信メモ 生方則孝氏の住友生命のサウンドロゴ裁判和解報告記事と著作権保護期間延長問題について

の以下の部分、

現状多くの職業クリエイターは「クリエイティブに関われれば幸せ」という、ある種の「クリエイターの人の良さ」だったり、「物を創ることしか考えられない」的な脇の甘さにつけ込まれて、経済的・権利的に十分な見返りを得ていないのも事実である。


こことリンクします。

すべてのことは誰にでも起こりうることで、他人事ではないということ。いきなり宗教にハマる友人とかのように。身近に起こりうる。自分だっていつそうなるとも限らない。メディアリテラシーとよく言うけれど、これもリテラシーであろう。落とし穴はすぐ横にあるのよね。

関連
誰でも当事者になりうる。つい忘れがちだけど

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2007年4月 3日

「音の一字一句」ってなによ?

どういうことか抽象的過ぎて判らない人も居ると思うので、メモ兼ねて自分なりに書いておこうかなと。

たとえば。

ドレミという音の流れがあるとするわな。
ピアノの鍵盤だと隣どうし並んでるだけだから弾くのも簡単だ。

しかしこれが歌だとそうもいかんのだ。
正確に「ドレミー」と歌うことは意外に難しい。

作曲という作業はこの「ドレミー」に和音も付ける訳だね。

いろんな付け方があるけど、ここでは例としてこうやってみる。


ド→C(ドミソ)、レ→G(シレソ)、ミ→Am(ラドミ)


さて。

こうやって譜面なりデモを歌手に渡すと、ときどき、真ん中の「レ」を「ソ(下のソ)」と歌う人が出てくる。「ドレミ」と「ドソ(↓)ミ」じゃオマエ全然違うやないか!と思うかもしれない。しかしこの場合、合っているとも言えなくもないのだ(和音的には外れてない)。どうしてここで歌手はそう歌いたくなるのか。説明を試みてみる。

まずこの「ドレミー」の拍の割り当てだが、「ミー」が一拍目にあると考えてみよう。その前の「ドレ」は前の小節のケツ1拍に入ってる8分音符だと思えばいい。

そんで4拍子。

いちと・にぃと・さんと・しぃと・いちと…と手拍子かなんかでテンポとってみて。

「しぃと」の「と」のところに「ドレ」。次の「いち」に「ミー」だ。

全部あわせて言うと「いちと・にぃと・さんと・しぃドレ」「ミー」。

そんでね。この「ドレ・ミー」に「あしたー」という歌詞を付けてみる。


それで。
最初書いたように「レ」の音程(歌詞は「し」)を「ソ(下)」と歌ってみて。それほど違和感ないでしょ。


これね。歌唱力のない人とか(音痴という意味ではない)、体力のない人によくあるのですね。癖なんだと思う。メロを端折る癖。

つまり順番に「ドレミー」って上がるのがきついわけだ。ホップステップジャンプの要領で、最後の「ミ」に行くため、一旦しゃがんで跳ねるわけだね。それが「レ」の代わりの「ソ(↓)」になる。

人によってはこの「ソ」の部分をはっきり音程を付けない人も居る。渋谷系の人とか。

可愛さ強調とか稚拙感増強とか、まぁそんなギミックだな。それはそれで歌い癖だし個性だし間違えてもいないのよね。

そんで。困るのがそういう微妙な場合の対処なんだ。悪意はないし間違いでもない。気付くリスナーもおそらくほとんど居ない。そして歌手の個性としてじゅうぶん「有り」なフェイクである、と。

しかしだ。

オレは「ドレミー」で「あしたー」で創った、と。しかし歌手が「ドソミー」とか「ド※ミー」とか歌った。そこで「オマエそれメロが違う」と言えるかどうか。微妙。同一性保持されてない!と言えるか。たぶん無理*1

自分の胸に聞いてみる。「オマエこれドレミって創ったろ?でもドソミーとかで許すの?これ」。しかし。アバウトな人にとっては重箱の隅だよなこれ。小うるさい作家という評判が立つかなー?いやしかし妥協は出来んなー。ここで人間性だな。「うん。それでも良いんだけど、ちょっとドレミーってハッキリ歌ったのも聴きたいなー♪お願いしま~す」的媚び媚び

それすら言い出せない状況?

んじゃあ最悪、気持ちよく「ドソミー」と歌わせてやって、あとからプラグインで修正しとくかね。


とまあ。これは極端な例だけどこんなこともあるってことです。

こう考えると音楽ってディスカッションなんだよな。いろんな人が関わって最終声明に至る。めんどくさいし大変だが面白いよな。ってことで。


*1:これは一般的長さの楽曲で。全体に対する比率としては一瞬だから。サウンドロゴみたいなものは、あの短さで完成品だから、この一瞬も見逃せない部分だと思う。

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