2012年4月24日

「ずっとあなたが好きだった」に見るバブル的なもの

僕はあまりドラマを見ない人だったのだけど、夕方の再放送で時々見たのがあって、そのなかで特に印象に残ってるのが、冬彦さん。「ずっとあなたが好きだった」。これは衝撃的だった。本放送のとき世の中で「冬彦ブーム」というのが会ってオタクが認知された頃だったんだけど、そういう話題性だけで先行して、僕もドラマ見ない人だったので、その程度の認識しかなかった。それが、夕方の再放送で全部見たとき、なんだかすごい悲しくて、このドラマは名作じゃないかって。バカにして冬彦さんとか言ってた人たちは何も判ってない!って思った。あれこそバブル的価値観の崩壊だった。その続編の「誰にも言えない」は、もっと良かった。この2編は続編だから特に際立ったのだけど、この2作の間で、女性の、具体的には賀来千賀子の顔のメイクが変わってるのね。それがすごく印象強くて。前者は80年代バブルだったのだけど、後者の方は90年代になっていた。何かが終わっていく、というイメージがすごくあったね。ちょうどそのとき僕はホテルで働いてた。いろんなものが、信じてた80年代とかバブルとか、経済成長とか、そんないろんなものが、終わっていく、っていうイメージ。それがあのドラマにあった。
あのドラマのロケ地は、確か南大沢だったはず。遅れてきた最後の多摩ニュータウン開発地だね。70年代からの経済成長と、巨大団地とニュータウン的ニューファミリー。その象徴だった多摩ニュータウン。その最後の地、南大沢。

こっちに移住する数ヶ月前、僕は新百合ヶ丘に住んでいて、その南大沢に何度も遊びに行った。今は都立大があるのかな。その、南大沢でアウトレットとかモールとか見ながら、バブルは終わったんだなあ、って思いながら、アルバム「布石」の曲の歌詞を書いてた。


ずっとあなたが好きだった、を再放送で初めて見たのは、ホテルの仕事を始めて1年後くらいのことだった。練馬のアパートを引き払って、嫌な縁を全部切ってバンドも辞めて船橋に転居し、ホテルの夜勤。
当時僕は、自分自身名義の「初のアルバム」を編集中で、夜勤明けで帰宅し、一眠りしたあと、昼過ぎからその作業、という感じの流れ。音に関する作業が終わって、アルバムの全曲解説(長文)をワープロで打っていた。
その「解説執筆」のBGとして流してたのが、たまたま再放送してた「ずっとあなたが好きだった」だったのね。話題作だったし、まあネタとして作業の片手間で見ようか、くらいの感じだった。なのに内容がすごくて、それは、先に書いたとおり、世間での評判と逆で、すごく切ない内容に苦しくてね、冬彦は自分のようでもあり、ドラマ全体に漂う80年代の残り香といい、自分が今編集してる「初アルバム」の主旨(それまでの集大成)とリンクして、なにかこれは「まとめ」なんだな、と。時代が変わって自分が変わって、次へ進める暗示なんだ、と。そんな感じがしたんだな。
再放送が終わるころ、僕の解説も完成し、アルバムも出来た。それで僕は、それまでの自分の過去と決別することができ、「ちゃんと歌ったカバーアルバム」の録音に入るのね。そんで、そのカバー集は「歌が目立つ」という理由で、それまでのどの作品よりもはるかにみんなに受け入れられて、ドラマーでオタクだった僕は、船橋という新しい環境で、歌うホテルマン、という別な自分に生まれ変わることが出来たんだよね。(全曲入り


バブル、ということで、ひとつ興味深い話があって、80年代中盤くらいだと思うけど、深夜ドラマで「桃尻娘」というのをやってたのね。これは監督が中原俊氏。
中原俊氏は出身が日活ロマンポルノということは知ってたのだけど(放送当時ではなくあとから)、今回いろいろ調べてて、なんと脚本のヒト(斎藤博氏)も日活ロマンポルノ出身ということだった。
日活の女優さんで山本奈津子さんという人が居て、練馬のアパート時代の友人が彼女のファンで(笑)、あんまりに「山本奈津子はいい、いい」というものだから、そんなにいいなら見てみようと思って、いろいろ過去の作品までさかのぼって、レンタルで借りて見たのね。そのなかで「百合族シリーズ」ってのがあって、それが実は斎藤氏の脚本だったのだ。その第3作目『OL百合族19歳』が僕は好きでよく見ていた(これの監督はなんと金子修介氏)。内容としては、OLになった主人公ふたりが、避暑に軽井沢に行き、大騒ぎ、みたいな内容なんだけど、それが見事に80年代でバブルで、ああすごいなあ。こんな価値観だったなあ、と何度も見返したの覚えてる。

いい悪いは別にして、やっぱり懐かしいんだよね。こういう世界で生きてた人たちなんだ、って。そういうなんというか、僕にとってはリアルな経験時代よりも、あとになってからの対象化時代のほうが、よりいっそう掴めた気がするのね。その渦中に居るときは気付かないいろんなもの、失ってから気付くいろんなことね、そういうのを、過去のエッセンスたっぷりな創作物を見ることで、改めて対象化できる、っていう感じだった。
バンド時代末期の僕はよくそういうことをしてた。山本奈津子好きな友人も、とっくにアパートを出て居なくなってたけど、それでも、彼のその言葉を思い出して、レンタルしてみたりしたわけだから、何か引っかかって興味はあったんだと思った。

俯瞰でみて、対象化する。そこから何かが生まれてくる。時代をよりはっきり描けば描くほど、その作品から、そういうことが読み取れる。そんなことを思った。


これこそバブル。と思いつつ、自分はこんな世界と無縁だったし、でもメディアとして語り継がれたら、これが現実って、後世の人は思ってしまうね。確かに憧れてたけど、実際はこんなことはなかった。でも空気感はよく表してると思う。

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2012年4月23日

言葉と方言の影響力

半年ほど前になるが、あるネット上で面白い話を読んだ。
ある夫婦の物語なのだけど(妻側が語った実話)、かいつまんで書くと。


彼女の夫氏は都内で生まれ、小学校に上がる頃地方(山口)へ引っ越した。なのでそこでの暮らしではよそ者だったと言っていた。だから妻さんと夫氏は標準語で会話していた。そしてよく喧嘩になった。
そんなある日、彼女の知人が「面白いから」と、くらもちふさこの「天然コケッコー」を全巻持ってきた。これは夫氏の(転校先の)郷里が舞台になった漫画だった。妻さんは、その漫画の影響で日常生活でも時々山口弁を喋るようになった。そうして夫氏に山口弁で話すと、なんと夫氏も山口弁で返してきて、おまけに喧嘩が劇的に減った。山口弁で何かを注意するとすぐ謝って態度を改めた。
「言い方があるでしょう」とよく言われるけれど、方言は盲点だった。これでだいぶ関係がよくなった。言ってることは同じなのに嘘みたいだ、と。
そして彼女のご両親も福岡と神奈川で生まれ、東京で出会い、標準語で会話し、喧嘩していた。標準語、とは言っても、父はもともと九州男児だから、東京人の標準語とはニュアンスやスピリットが異なるので、母はその言葉遣いを乱暴だと感じ、両者は決して折り合うことはなかった。そんな自らの経験もあって、妻さんは、言葉が人格に及ぼす影響は大きいと感じた、そして現在は、方言で話すと、気持ちがのんびり大らかになる、と。


ざっとこんな感じだった。僕はこの話を読み、目から鱗が落ちたような気持ちになった。

僕が、こっちであまり受け入れられないのは標準語で話すからかもしれない。いやもちろん、それは自分も気付いていて、確かに少しは要素にはあると思ってた。なのだが、あると言ってもせいぜい20パーセントくらいじゃね、と思ってたのだが、実は8割がた、それだったりするのかもしれない、と。この話を読んで思ったのだ。

そういえば僕は、北海道出身ではあるが、道民時代にいい思い出がないので、今でも、北海道弁で話されるのがすごく嫌なのだ。だから、僕は東京時代、郷里の友人は一切作らなかったし、仕事関係でも、道民とわかると距離を置くとか、徹底した。相手が道民だと交渉や話し合いも荒れ気味になるし、道民の知人とも喧嘩が絶えなかった。
僕が親子関係のトラウマから少し逃れられたのも、北海道弁を聴かない土地(大阪→東京)に来たと言うのも大きいのではないんだろうか。だから忘れられたんだと思った。なるほどなあ。言葉遣いって、けっこう影響あるんだよね。

そんなことがあり、ひとつ感じたのは、僕はこっちでは、相手に無理させてるかもしれない、ということだった。こっちの人、僕と話すときはたいがい標準語(に近い)話し方でしゃべるのね。僕はほとんど標準語なので、気にしたことがないから、いままで何も感じてなかった。
先日、ある知人のお店に顔を出した際、話してる最中にたまたま電話がかかってきて、それで相手と会話を始めたのだけど、僕と話すときは標準語だったのに、電話相手には流暢な(?)ネイティヴ弁になって、ちょっとびっくりした。
以前も、ある女子が、普段はほぼ標準語なんだけど、唐突にネイティヴ弁で話し始めたことがあって、かなり驚いた。こっちの人々のこういう面は、僕と話してる限りは、滅多に見ることが出来ない。相手が僕に心を開かないのは、そのせいもあるのかもしれない。例えば、日本人の場合、余程じゃないと、日本語とまったく同じような思考回路で英語が話せる、ということは、そうそうないと思うのだけど、それと同じように、僕と話すとき、相手は、脳内で一旦標準語に翻訳して一生懸命しゃべってるのかもしれない、とそう思った。
同じように、僕の標準語(に近い言葉)を聴くとき、僕が心を開いていない、と思うのかもしれない。そんなことはないんだけどね。でも、そう取られるんでしょうね。そういう基本、遠慮深い気質の土地柄なのかもしれない。
僕が思うのは、そんな遠慮せずに僕を巻き込んでくれればよかったのに、ってことなんだけど、僕に忌憚なく接してくれるのは、だいたい(細けえことはいいんだよ的な)豪快なおっさん的なヒトしか居なくて、それはありがたいけど、そもそも、そういうおっさんが僕は苦手だから、もっと普通のヒトが、そう接してほしかった、というのはある。ただでさえ、人付き合いが難しい僕ですが、そういうことが、いっそう拍車をかけてるような気はする。異国にたった一人で居る気分。そして、こっちが相手側に溶け込まないと楽しく生きていけない感覚。「僕は僕として」生きてきた自分にとっては、破格なアウェイなんだろう。

今までいろんな人と接してきた印象では、関西の人は当然として、他にも北海道民とかは、どこに住んでいようとも、自分のネイティヴ弁、つまり関西弁や北海道弁で話すことが多いと思う。それだけ我が強いのかもしれないし、あるいは、他者のことを気にしない体質なのかもしれないが、逆に福岡や長崎では、みんなが標準語で話してくる、という印象がある。こっちとしてはむしろ方言を聞きたいのに、あまりそういう場に遭遇することはない。

そういえば、福岡に行ったとき、あるお店でスタッフの子が、バリバリの博多弁で後輩の子を指導してる場面に遭遇して「博多弁だー。こういうのなんだ。いいなあ」と思ったことがあった。九州に住んでるのに、そういう言葉を聴く機会が少ないから、こうしてたまに聴くと感動するのである。

話の内容と言葉、そして方言との関係って、音楽でいうと、歌詞とメロディとアレンジ、そして歌手、というような関係に似てるような気がした。どれかひとつでも本質は伝わるのかもしれない。しかし、ものには言い方というものがあるように、それぞれの複合体として最終的に表現のカタチが決まるのなら、どれも不可欠で重要なものなんだろう、と思った。


来てすぐの頃は方言覚えようと話してたこともあったな。
もう一度、話してみてもいいかもしれないね、と。

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2012年4月 5日

なまえ

いまや知ってる人もいないと思うけど、このブログの元は、はてなダイアリで書いていた「songs」というブログでした。 それなりにいい記事も書いたと思います。たくさんブクマも付いたりしたし、知名度も上がってきました。そして3年ほど過ぎ、「ああ、もう卒業だな」と思える段階が訪れて、ログを保存し、ブログの方は閉めてアカウントも休眠させて消えてしまったのです。ということで、ココのブログ記事のうちいくつかは、その中の「これは公開しておきたい」と思ったものの転載なんですね。

そんな経緯もあって、ここのブログを開設したとき、ブログタイトルをどうすればいいのか、なかなかいい案が思いつかなくて、そらそうよね、ブログを移設して新設するたびにタイトル変えれば、やがてネタも切れるというものです。何を付けても、どうも違うんだよなあ、と思うのばかりでした。ちょっと前につけたパッセンジャー(アントニオーニの映画タイトルから)は、なかなかいいと思ったのだけど、あれは主人公が死んでしまうしw それに検索でも似たようなのがたくさん出て、判りにくいと思っていました。その後は林檎のタイトルにしましたが、これもネット上に存在してて、あまり個性的ではない、と思ってました。そんで結局、いっそ原点に返りシンプルな「Songs」でいいではないか、と思ったわけです。Songsもどこにでもある普通の単語ですが、ブログのタイトルにしてるのはあまりない気もします。わからないけど。まあ、あったとしても、こっちも古いので、それでいいではないか、と思ったわけです。

Back To Original ってことですね。

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2012年3月26日

あこぎじゃんきー

新曲の「愛と平和の街」が好評で嬉しいです。

復興コンピレーションに収録されてリリース、という話は、くどいほど言ってるので、もうわかったわ、という人も多いかもだけど、いちおうね。

http://ototoy.jp/feature/index.php/2012031101

僕のはVol.1。畠山美由紀さんとか、ソウル・フラワー・ユニオンさんと一緒に入ってます。全部を試聴したのですけど、みんな面白かったです。日本のインディーズシーンの縮図というか、日本全体の「ホワイトアルバム」みたいな感じでいいです。

ところで、曲を創った経緯なんかをざっと。

去年以来、世の中が騒がしくなって、いろんな人がいろんなこと言って、いったいなんなんだろう?と思っていました。また、みんながチャリティだなんだ、と言って活発に動き出したのも違和感あり、自分としては、なんだか違う気がするんだよなあ、などと思っていました。

そんな中、ここでも書いたので記憶にあるかもしれないけど、自分がひどい目に遭って、死に掛ける、という大事件があって、しかもその同じ当日に、自分がレコーディング予定だった方が、亡くなってしまう、という悲しい出来事も重なり、そういうことすべて含めて、それまでの自分の生きた道を全面的に考え直す、という状況になったわけですね。

そういうことを、まず周りの知り合いから話し始め、新聞記者さんや、ネット上で知り合った人、ツイッターの人などと、濃いやり取りを繰り返しながら、イメージが固まっていきました。


それと平行して、僕は某社さんのCMを作ってたんですけど、その際に、何か参考になるものがないか、と思って、自分の最近のデモを聴き返したんです。そうしたら、ちょっと前に録った「あこぎじゃんきー」という曲が出てきて、ああ、こんなの創ったわ、これいい曲なんだよなあ、と思い出しました。

そんで、某CMを作るので、近所のダムに散歩に行ったんですね。そのとき、長崎街道の歩道を歩きながら、「あこぎじゃんきー」も何かのカタチに出来ないだろうか、と考えてたところ、唐突に、頭のフレーズ「僕らは沈んでく船に」というのが降りて来まして「これだ!」と思って、その後は、自動的に、どんどん歌詞が降りてきたんです。

その後、本河内ダムに着いてから、CMをだいたい創ってしまって、そんで、家に帰って、CMと、あこぎじゃんきーをデモにする作業に入りました。


その後は、11月~12月に、段階的に、サビ→2番、というように書き進みました。

その「段階」ってのが面白くて、1番を仕上げたのは、由梨さんにコーラス参加してもらうんで、さすがに1番くらいは完成させておかんばやろ、と思ったからで、オケを創り始めたのは、TVに出てくれろ、とオファーが来たからで、最初ちょっと大変だなあと思ったけど、そうだ、新曲歌うなら出てもいいか!と思い直して(TVサイズで、長さも半分でよかったし)、創った。

まあそんな、いろんな刺激があって(他力本願とも言う)段階的に進んだんです。

そんで、さて続きはどうするか、と思ってたところ、OTOTOYというレーベルから、この復興コンピの参加依頼があって、そのときも最初は「えー?チャリティかあ…」とか思ったのだけど、その後ちょっと考えて「まてよ」と。

そもそもチャリティ活動みたいなものに、戸惑いを感じ、その思いを込めて書き始めた曲が、その「チャリティ」に収録されるって、すごい意義があるんじゃないか、と気付いたわけです。

そのとき僕は「グラミー賞?ケッ」とか言いながらちゃっかり受賞する、ストーンズのことを思い出しまして、そういう曲を、チャリティに入れてしまう、という発想がいいじゃないか、と思ったわけです。そこで、自分がしたいことは全部見えた気がしました。それで、完成させる気になった。

などといろいろ書いてますけど、結果的には、歌詞読んでもらってわかるように、そんなこと、微塵も感じさせない内容になりました。やっぱりそこは、創作するものとして、何かに限定するのはよくない、みんなが広く共感できなければ、作品を発表するという意味自体ないのだ、という、僕自身の長年のポリシーに沿ったものになったんですね。
音楽って、個人のものじゃないのよね。みんなが共有するもの。だから、それぞれが「自分のコトじゃん」と思ってもらうことが一番重要だって思ってるんです。そういう意味では、みんなが共感できる、と言ってくれたのは、ものすごく嬉しい反応だと思いました。やった甲斐があった、というものです。

最後に、その共感&共有を実際に音にしたいと思いました。なので、最後の大コーラスを、この曲にご縁のあった方々を中心に、ちょっとだけお願いしました。あと素敵なオルガンソロも。


この曲の出だしの、カウントは「あこぎじゃんきー」のデモのを、そのまま使っています。そしてエンディングには、グラミーを笑うストーンズのように、ちょっとしたオマケがあります。それは僕からのメッセージです。聴いてのお楽しみ、ということで。aries


ところで僕の中では、この曲のイメージが一貫してありました。地の塩って、聖書の言葉なんだよね。意外と思うかもですが、僕はストーンズが好きでして、特に、ベガーズバンケットは名盤だと思ってるわけですが、そのエンディングに入ってるのがこれだね。ブルーズっていうのと、聖書って言うのと、悪魔って言うことと。いろんな深い意味があるアルバムだと思う。

そして僕の新曲。これは、Tune Of Us とともに、僕の中の「ゴスペル」を自分の中から引き出した曲だと思うのです。それは、教会の多い、この町だからこそ、こうして、スパッと出すことが出来たのだと思う。それは、東京に居たままでは出来なかったと思うよ。

僕は今回、ストーンズのこれが好きだ、とは誰にも言ってないはずなので、参加してくれたヒト、誰も意識してないと思います。それがいいよね。想いは個人から始まり個人へと集約し帰結し行く。それをそれぞれが共有している。そういうメッセージだと思う。


「愛と平和の街」の歌詞を書くに当たっては、前に言ったように、いろんな人との対話が広がりをもたらしたんだと思うのですが、その、いろんな人の中で、特に重要な「親子関係トラウマ」の存在があります。そのヒトたちといろいろ話すなかで、いろんな囚われからの開放、ということを意識し始めました。
親子関係のトラウマということでは、加藤諦三さんという有名な学者さんが居まして、「アメリカンインディアンの教え」という本は、僕も大昔ですが、よく読んだんですね。それとは別に、ちょうど同じ頃、僕はビーチボーイズを聴き始めていました。ビーチボーイズを聴き始めたきっかけは、ロック界で最も有名な「お蔵入りアルバム」スマイルの存在でした。スマイル、というのはアメリカの開拓史をロック音楽絵巻にしようとした試みですね。その「スマイル」のことをいろいろ調べ始めた最初の頃、「アメリカンインディアンは、お互いが敵ではない印として、相手に微笑んで微笑み返す」という文献に出会ったんです。そこから僕は、加藤諦三氏の「アメリカンインディアンの教え」というのが、何かスマイルとも共通点があるのかもしれない、と思ったんですね。それで、加藤氏の本を手に取ったわけでした。
実際は、スマイルと加藤氏の本は全然関係なかったのですけど、そのかわり、僕らと同じような親子トラウマを抱えるビーチボーイズの重要メンバー、ブライアンとデニスのことを知るわけです。特に、ブライアンウィルソン自叙伝には、相当ショックを受けました。父との確執が、読むのが辛くなるほど赤裸々に、書かれてあります。

僕はその自叙伝を読み進めながら、こんな状態で、あんな美しい音楽を生むブライアンというヒトだからこそ、存在理由があるのだ、と思ったんですね。そうして、僕自身、自叙伝を読むことで、自分自身のトラウマからも解放されていったのだと思うのです。

今回の「愛と平和」の歌詞を書き始めたとき、後半のサビ前の部分がなかなか思いつかなかったのですけど、由梨さんがレコーディングに来る、というその直前になって、そうだ、そのことを歌詞にしよう!と思いついたのです。笑いかけ笑い返されて~、という部分は、そこから来たわけですね。あそこは、ビーチボーイズのスマイルなんですよ。そして、「愛と平和の街」というのも、英雄と悪漢(スマイル収録)の歌詞に出てくる街なんじゃないか、と。

そんなイメージを持ったわけです。

奇しくも、去年、ちょうど新曲を創ってた頃に、その伝説の「スマイル」が、製作から45年という月日を経て、遂にリリース!という大事件がありました。この曲は、その記念にもなったんだと思います。どんなに深い闇があっても、明るく開放されていく。そんなブライアンのメッセージも受け取った、ということですね。


新曲の話、続けます。
みなさんも、パソコン上でファイルを探したりするとき、「あの頃作ったファイルだったなあ」などと、製作日をヒントにソートして探してみることがあると思います。先日、ある曲のファイルを探すのでフォルダの中をソートして見てると面白いことに気付いたのです。去年の4月頃、ちょうど僕が倒れた直後くらいですけど、僕の過去のレア曲を、たくさんリマスターしているんです。

ずいぶん昔のような気がして、すっかり忘れてたのですが、
http://soundcloud.com/kara_demo/sets/karakawa-tape-1993

これの公開だったんだよね。

これが去年の4月の作業だったとは、忘れていました。なんでその頃そういうことをしたのか、ということも思い出したのです。
それは、自分が倒れた原因、それが「他人に振り回され続けて自分を失ったことによるもの」と気付き、自分を取り戻そうと、自分の創作開始の、そもそものスタート地点から全部さらいなおす、ということをするためだった、と。

それ以前は、もちろんこれらの作品は覚えてはいましたけど、素人時代のデモみたいなもので、他人に聞かせるに値しない、と思ってたんですね。ところが、昔から意外に、何故かこれらは人気があり、ということで、このときも、ツイッターなどで反応が思いのほか在ったのです。聴かせて喜んだ人々の共通した反応は、「なぜ今は、こういうものをしないのか?」でした。うちのレーベルにいる、二人も、爽やかな曲調に反して、実際の僕はダークでダーティな部分があると知っています。だからこそ、時には嫌なときもあるがw 僕に着いて来てくれてるのだ、と言ってくれることもあります。

あとは、時代の変化もあります。僕があれらを創ってた頃、多重録音オタク、というのは市民権を得ていなかったのです。つまり、音楽をする人種の中では、マイノリティで変わったヒト、という扱いでした。でも今は違いますね。そういうヒトはいくらでもいますし、中村一義や斉藤和義みたいなヒトが、メジャーになったお陰で、それも普通の音楽活動である、と世間に認められたわけです。

そういうものを聴いてきた、例えば若い人々が「すごくかっこいいじゃないですか」と言うのも当然のような気がします。

というわけで4月から、そういう、昔のリマスター作業を始めて、ネット上でフリーで配布する、ということを始めました。これは、当然、災害や自分が受けた被害のこともあります。いまやっておかないと、いま聴いてもらわないと、自分が明日どうなるかわからない、という気持ちからですね。これと同じことが15年前にもあったのです。阪神淡路ですよね。それで僕は、やっぱり同じことをし始め、そうして創った曲がスカウトされて、作家デビューに繋がったのです。そして今回も、知らぬ間に同じことをしていた、ということです。

このリマスター作業で、自分が歩いてきたロックの道、それを再確認する、ということが出来ました。また、すごいカッコいいじゃないですか、と言われたことで、こういうことを僕がまたやってもいいのだ、と思うことが出来た、ということです。そうして、新曲製作へと進むわけですね。


さて、今度は別な視点から見てみます。その、過去の宅録作品をリマスターしてた頃ね。

僕はある仕事に携わり、この街の悪口ばかり(!)をずっと聴かされてたのです。みんなも経験あると思うけど、悪口ばかりを延々聴かされる気持ちってわかりますよね?自分の中に、どんどん毒が溜まってきて爆発するようなあの感じですよ。しかも仕事だったので、離れるわけには行かない。今思うと、ホント拷問でしたねrain

まあそういった経験から、この町の人は、いったい、自分が住んでるこの町を、どう思ってるんだろう?好きなの?嫌いなの?しょうがないから住んでるの?どうなん?そこのところ??と思ったわけです。

そういうことを、町の中を一人で歩き回りながら、いろいろ考え続けてたんですね。夏まで。

そこで、T兄さん、という人物との出会いがあります(インタビューすることになる)。Tさん(兄弟とも)のようなUターンの人、あるいは、長崎の外に住んでて、故郷を想ってる人、福山みたいに、嫌いで飛び出していった人。

そんな人が、それぞれどんなこと想っているのだろう、と僕は興味が湧いたわけです。

そう想ったのには、自分自身の気持ち、つまり、僕自身は故郷がまったく好きではない、ということがあって、故郷というものについて、みんなは「本音では」どう思ってるのだろう?と。そういうことを知りたかったのです。


表面上の社交辞令とか、形骸化したような、ありきたりの言葉じゃなくて、「本当は」この町のことどう思う?って。そういうことを、探りながら、本音を少しでも垣間見れたらいい、と思いました。


そういうことについて、いろんな人と話し、もちろん、みんな本音は、露骨には言いませんでしたけど、言葉の端々から、気持ちはうかがうことは出来たし、僕はじゅうぶん満足した、と。そう思ったのです。

あとはね。街、というくらいだから「ヒト」が住んでます。ヒトが嫌い、というのと、街が嫌い、というのは違うと思う。でもそこは人間ですので、混ぜるな危険、と言っても、つい混ぜてしまうんですね。でも、それでもいいと思うんです。そういう「人間的な感情」こそが、一番知りたかったことだからです。そういうことを踏まえて、インタビュー終了後、僕は「あこぎじゃんきー」の完成へと進むわけですね。

そうそう。

言い忘れたけど、「長崎でも曲を創ってくださいよ。」と言ってくれたのは、Tさんなんですよね。それまで僕は、この町で「自分の」新曲が出来るとは思ってなかった。その気もなかった。そういった意味では、ちょっと背中を押してくれたんでしょうね。すべてはあのときから始まったわけだね。


ということで、振り出しにたどり着きました。
Tさんとは、いつも仲良くお話させていただいています。そうなった経緯は、またいつか書くとして、今回の件。

これもココで書いたことですけど、去年の2月くらい。ちょうどランタンのときでした。連合赤軍の永田被告が死亡したんですよね。それで、改めて「連合赤軍事件」ってなんだったんだろうって、調べ始めたんです。そんなことしてた時、急に仕事の電話がありまして、人と会うことになったんですね。そんでわざわざ出かけて行ったら!それがとんでもない話だったという…。自分の中では、赤軍の話とそれがリンクして、なんなんだ、こいつらは…。オレは悲しいぞ、と。
そんで気分が最悪になり、そのまま家に戻りたくなかった。それで「そうだ、Tさんの店にでも寄るか」と思ったわけです。

店に着くと、Tさんが、僕の顔を見るなり、なぜか怒涛のようにしゃべり始めまして、どどどうした??と思いながらも、面白いのでこっちも必死に応対しました。その時の話は、すごい面白くてね。ともかく、店内で立ちっぱなしで、数時間、二人でしゃべり続けたわけです。しまいには倒れそうになりましたw

そんで最後に、ピチカートファイブの話になり、インタビュー記事の冒頭にあったようにCDをどどっと借りることになった、というわけですね。この日の出来事は今振り返ると、その後起こるすべてのコトの始まりになってるんだけど、その時は、そういうこと二人とも気付いてない。
でも僕にとっては新曲の製作開始と、インタビュー。Tさんにとっては、研究本の再出版のきっかけになった、と。お互いにとって、そういう誕生のための始まりに実はなってたわけですね。

そう考えると、今まで長々と書いてきたこと、すべてが、ひとつの大きな巨大プロジェクトだったとも言えるのです。それがたまたま、わかりやすいカタチとして、5分45秒の曲になったに過ぎなくて、実は、まだまだ、その陰で巨大プロジェクトは進行中なんだと思うのです。

We've Only Just 美顔。

ってことで。

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2011年12月18日

TV局バイト時代の話

僕は東京のTV局のうち、T○Sと○テレという2局に仕事で関わったことがあります。T○S時代は、管理係だったので、機材の管理をしてただけだけど、それでも、数え切れないくらいの俳優さん、タレント、アイドルに会ったことがあり、逆に多すぎて、「○○には会った?」って訊かれないと、思い出せません。

まあそんなことはいいのですけど、そのT○S時代のことで一番の出来事。

僕の上司となった人は、筋金入りの職人で、本当に厳しい人でした。昔からの職人なので、もちろん、理不尽さも最上級。なんでも「命令」で、口答えとか、「どうして?」などという質問も許されませんでした。ともかく、言われたことをやること、それだけが僕の仕事でした。


その上司が、ある日言ったわけです。

「あんたさあ、鼻悪いね?それ、治してくれる?」
「鼻すすってたりさ、くしゃみとか鼻声もウザイから。上の診療室行ってさ」

とね。

これは強力でした。確かに言うとおりでしたし、親からも言われたことはありますけど、親に逆らってた僕は、「ケッ」とか思って、言うことを聴かず、放っておいたわけです。

しかし、上司命令では逆らうわけには行きません。何も言えず、行きましたよ。

そして結果として。

治ったわけです!!!

それまでの疲労感や、酷い声、歌い方、話し方、全てが直りました。

違う人間になったようなんです。
本当にびっくりしました。

それ以降、僕は定期的に耳鼻咽喉科に通うようになり、呼吸器系のケアに常に気を使っています。
お陰で、声もずっと変わらず歌えてるんだろうね。すごいことだね。


僕の人生、様々な軋轢や理不尽さは耐えなかったし、ストレスそのものの人生だった気もするけど、そんな中からも、こうして、得がたい経験をちゃんとし、人生の意味に繋げて行ってるわけだよね。

当時も今も、その上司は「しね」くらい思ってますけどw
しかし、この件に関しては、命の恩人だと思ってる。それくらいでかい経験だったということです。

殺したいほど憎かったからこそw それくらいの存在にも成りえたってことだよね。
僕の人生、常に敵に囲まれてナンボ、って気がするね。

ははは。

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2011年12月14日

小林建樹とエロビデオ屋

「祈り・小林建樹」については強力な思い出がある。

ライブ活動が終わって夢破れてヒキコモリしてた頃、西新宿にエロビデオ屋が集合してる地域があると知って、そうなのか、おもしろそうだな、行ってみようと思って、すごい汚いカッコして行ったのね。

そうしたらもう、あらゆるジャンルのAVが集合してて、あちこちの店とか、ビル1棟全部がAV店だったりとか、ともかくすごくて、すげえなすげえな、とか思って物色してたらさ、店員が「お客さん、スカなんかどうっす?」とか尋ねてきてさ、一瞬「スカ?」とか思ったけど、そっかスカ○ロのことか!と思って、人生長く生きてきて、お店の中で店員に「スカ○ロいかがっすかー」みたいなこと言われるって、そうそうないぜ、とか思って感動してさ、そんなこんな、いろんな刺激的な空間でね、ああそうか、音楽なんか辞めてしまえば、ヒキコモリとかガテン系の仕事デモしてさ、こういうもん毎月買って、世捨て人みたいに死ぬまで過ごしていけば楽しいんだな、って思って、それでいいや、楽しそうじゃん、とか思ったのね。

そんなこと思いながらボーっと店内うろついてたたら、有線からある曲が流れてきてね、それが、すっごいイイ曲なんだよ!そんでもう、目の前の山ほどあるエロビデオのパッケージ見ながら、「これはなんだろう?なんだろう?」と思って、もう完全に耳がその音楽に惹かれて、エロビデオとかどうでもよくなってさ、これはすごい、すごい曲だ、何なんだこれはー!!?、と思いながら、その場で立ち止まってフルで聴き終えた。

そんで店出ても感動が収まらなくてね、「まだ日本に、こんないい曲がある。こんなイイ曲を書く奴がいる!まだ日本は大丈夫なんだ!これからも大丈夫なんだ!」って凄く思ってね、僕も音楽なんか辞めようと思わないで、やっぱりちゃんと続けていこうよ!って思って、凄い勇気が出たのね。

その後、ケーブルテレビのMTVで、この曲が、小林建樹の祈りという曲だと知った。
そのあと僕は引きこもりやめて、次の製作に入ったの。

だから、この曲は僕を救った曲なんだよね。僕の人生の基本、エロと音楽が、こういう形で結びついて、僕そのものを救ったんだよね。ほんと。


追伸。
こっちに来てから、熊本の富永健太という奴と、Be7でタイバンになったとき、なんと彼が、この曲をカバーして歌ったのよね!そんで、オレ感動して、この話を彼にした。その後、彼とうちに来て、一緒に酒飲んだ。彼は朝に熊本に帰って行った。


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2011年8月18日

寛大なヒト

ずいぶん後足で砂をかけるような真似をして去ってきた、かつてのバイト先がありました。そこは古本屋でした。
ちょっとした行き違いから店長夫婦と揉め、話し合いの途中で「もういいですので。」と一方的に解雇通告をされてしまい、僕はそれに納得が行かず暴言を吐き、傷を広げてしまい、修復不能の関係になってしまったのです。当時は「自分は間違っていない!」と思っていました。

僕の特徴は、そんな事をしておきながら、そんな自分のしたことに、あとあと後悔し、ずっと悩み続けることです。「あんなことしなきゃ良かった…」「いや、相手も酷かったのだからやって当然だった!」などと、ずっと考えてしまうのです。そして、その古本屋の店長のコトも、ずっと何かというと思い出して、考えたりしていました。


先週、ふとメーラーをいろいろみてると、下書きのところに書きかけのメールがありました。なんだろうと思ったら、2年前に、その古本屋の店長宛に書いたメールでした。

内容は、当時の僕は人生経験が浅く、店長の気持ちがわからなかった、いま自分で、いろいろ事業などするに当たって、初めて気苦労が理解できた、人と接したり、使ったりすることの難しさとか、当時は分らず、ずいぶん酷い事をしたし、言ったりしたと思う、お詫びします、と書いてあった。

日付は1年半くらい前でした。何があったんでしょう。笑。
まあ、何かがあったんでしょうね。ピンと来るヒトもいるかもですが。rain

そんなメールの下書きを発見して、当時の店長のことや、1年半前の自分の事などいろいろ思って、このメール、出してみようかな、と思って、先日送ってみたんです。

もちろん返事なんか来るわけないじゃん、と思ってたし、来たとしても「ああ、あの時のおまえか、まったく酷いやつだった」と怒るかと思ったのね。

それが、さっき返事が来て、内容はまあ書かないけど、人生にはそんなこともある、きみだけじゃなく、様々なヒトが当店でバイトし通り過ぎていった、過ぎたことだから忘れて、店のことは楽しい思い出として過ごしていって欲しい、とか書いてあるんです。

実は、昨日もあるヒトに、あるメールをしたところ、「見てるひとはちゃんと見てるはずだから、看過しておけ」的な御返事を頂き、なんだかずいぶん、気が楽になったような感じがありました。


僕の性格として、なにか疑問や矛盾、問題なんかがあると、ついとことん追求してしまうのです。粘着系なんですよね。それが、芸術や音楽方面に発揮されれば、その研究成果や効果も絶大でしょうが、人間関係や社会に向けられると、大変なことになってしまいますね。


僕は知らないうちに、いろんな事を背負いすぎて潰れかけてたのかも知れません。

背負いすぎて掴みすぎて、あらゆる物を持ちすぎてたために、新しいものを掴めるような余裕すらなかったんでしょう。だって、あまりに持ちすぎてたら、もう持ちきれませんから。

それは過去も一緒ですね。

自分で、等身大メモリーという曲で、そういうこと歌ってるじゃないですか。それなのに、自分自身は、それをなかなか実行できないんですね。

あれは自分に対する戒めの歌なんだろうな。自分に言ってる。そういえば、「To ME」というアルバムに入ってるわ。

なるほど。

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2011年8月15日

音楽に救われてる話

過去ログはいよいよ2月に突入。街はランタンフェスティバルだった。この辺から5月くらいまで、僕の日常が大変なことになっていく。その最初の出来事が、これから紹介するある事件だった。今振り返ると、何かの暗示だったのかもしれない。

これは最初、いつものようにツイッターのログだけ貼ろうと思ったのだけど、それだけじゃ説明し切れる内容じゃないなと思い、どうしようかな、と考えたところ、ふと、そういえばミクシーの日記で、この事を詳しく書いたはずだ、と思い出したので、そのミクシー日記2日分とともに、全部を転載しますね。

【1】
実は最近、安保→ブント→赤軍関係を読み漁ってた。
これはもちろん、先日の連合赤軍の永田洋子氏死亡がきっかけだったけど、あの事件は本当に今でもトラウマで、それはあの有名な「あさま山荘」の中継で、というよりも、その後、母から聴かされた、「総括という名のリンチ」の実態が壮絶だったから、というのがすごいでかい。あさま山荘でぶっ壊したり撃ち合いやってても、テレビ中継じゃ現実味なくて、ネタかドリフか?みたいな感覚しかないけど、その後に明らかになったリンチについては、子供心にドン引きしたからなあ。
これの怖さは、残酷だということももちろんだけど、他ならぬ自分自身が、そういうことは絶対しない、とは「言い切れない」部分にあると思う。思えば、苛めも苛められもあったし、部活内でのシゴキとか、先輩からの説教とか、あとはクラスでも、帰りの会の悪者吊るし上げとか、似たようなことはみんな経験してるでしょ。連合赤軍の総括は、それの延長上で、究極のスタイルなだけだから、そういう意味じゃ、僕らだってさしてかわらん。
あと、当時は、すごいオトナのヒトがやってるんだと思ってたけど、実際は、みんな子どもだよね。若者。

それから、思想面では。
僕らが多感だった時代は、ああいった左系の思想がかっこいいし正しいと、周りの多くのヒトが思っていた。メディアもそうだし、学校での先生とかもそうだし、うちの父も、労働組合の委員長とかやってたので、けっこうバリバリだったんだよね。そういったこと全部踏まえて、僕はたぶん、そういうことよく考えもせず信じてた自分に、なんだかバツの悪さを感じて、なので大人になってからは考えないようにしてた。でも今回、この永田氏の死亡がきっかけで、もういちど、どういう事件だったのか、それから、人はどういう流れで、こんな偏った考えに至ってしまうのか、その辺をじっくり考えてみたいと思ったんだよね。

まず映画が3個あるんですがね、「突入せよ」は、あれは犯人が何考えてるかわからないので。しかし、どんだけ警察に迷惑かけたかは判るけどね。そんで、それ以外の2本が参考になると思うけど、僕が見たのは、いちばんリアルだと言われてる、「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」っていうやつだね。これは「キャタピラー」の監督の映画です。そんで、ココにはリンク張らないけど、ネットでリアルな話が全部読めます。リアルすぎて気持ち悪くなるので張らないし、もういっかい注意しておきます。安易な気持ちで検索して読まないように。そんで、それ読んでから、映画観る。映画は、それなりに脚色と美化と端折りが入ってるから、その辺の知識あった上で見たほうがいいけど、読んでなくても、じゅうぶんすごい。これも、安易に見ないように。トラウマになるよ。
まあそんなわけで、どういう流れでああなったのか。今回やっとなんとなくつかめてきた。興味本位であれ、なんであれ、心の奥にずーーーっと引っかかってるものは、ちゃんとさらいなおして、自分を「総括」したほうがいいね。いつまでも逃げてるのはよくない。心にずっしりと重く、数日気分悪かったけど、それでも、いろいろさらってみて本当によかったと思ってる。

それから、最後に、いちばん僕が今回思ったコト書く。
それは、僕は本当に音楽に救われてるってことだ。さっきも書いたけど、僕にだって、そういう「要素」はあったんだよ。誰だって、しかねない、やりかねないことだった。でも僕の場合、常に「音楽」があって、そっちへの興味とベクトルがハンパないエネルギーだったので、反れずに済んだだけだった。「音楽」という「宗教」で言えば、ぼくだって、じゅうぶん「カルト」なのですよ。それがただ「音楽だったから」助かってるだけ。僕が生きてるのは、音楽のおかげ。それを、今後もしっかり認識して生きて行きたいと思ったね。


【2】
連合赤軍の話の続き。
最後に、自分は音楽に夢中になれたお陰で横道にそれずに、生きられたんだ、ということ書いたけど、それ書いたのは理由があるんです。じつは、連合赤軍関係の話を家で読んでたときに、仕事の打ち合わせがあるので、と、ある社長さんに呼び出されたのですよ。判りましたーということで、出かけてまいりますと、なんと…sweat01

ネットワーク商法の勧誘でした…。
まあ、マルチやってる人みんな否定するわけじゃないけど、こっちは、音楽製作で、そんな暇ないですよ。そんなことも判ろうとせずに、自分の都合で巻き込もうとするなんて。それは、ちょうど読んでた連合赤軍の話と一緒じゃん!!って凄く思ったんだよ。そんな暇があるような職業だと思われ、これはずいぶんと、なめられたわけですよねー。しかも、そのとき僕は、別件の約束があって連絡を待ってたのですが、連絡来ないなーと思ってふと携帯見たら…

圏外!!! 地下室で勧誘されて、圏外!

総括される!って思ってすごいビビリました!笑。
まあそんなんで、グッタリして帰宅し、ああ僕は、音楽というものがあることで、いろんな寄り道をせずに、生きて来れてるんだ、と。つくづく思ったわけです。そうじゃなけりゃ、とっくに人生終わってますね。生きててよかったです。これからも生きたいです。

ココまでが日記。今読み返すと、中身にいろんな暗示があるね。この後、自分に大変なことが起こるわけだけど、その前兆というか、いろんな想いが既に読み取れる。

補足として、同時期に書いてた、いつものツイッターの過去ログを貼ります。こっちではぶっちゃけてる。これが本音だと思う。


昨日のマルチ勧誘の話はいろいろ考えさせられた。親の会社潰しちゃった2代目元社長アラフィフ。ヒトってそう簡単には変われないんだよなあって。痛い目いろいろ遭って自分も目が覚めた、とか言ってたけど、マルチ誘ってる時点で、ちっとも目が覚めてないよ、あんた。

こういった危機に遭うたび、僕はつくづく「音楽に救われている」と思うわけだ。もっと突きつめると「歌う」コトで救われている。一歩間違えば僕だってマルチや赤軍やカルトや、そんなことしかねないような人間だと自覚してるが、その対象とエネルギーは全部音楽に向かったのよね。

音楽という意味では僕はじゅうぶんカルトだよ。オレは音楽で生かされてるんだ、ってことだね。

ほんとよくココまで生きてきたわよね…


この最後の「ホントによく生きて来れた」という発言は、このあと、本当の意味で身に染みることになる。

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2011年8月 1日

音楽について「語る」と言うこと

過去ログも佳境になってきている。ちょうど半年くらい前に、とある「強力な出会い」があったからだね。

この土地に来てからというもの、たくさんの「音楽家」に会ったけども、ちゃんとした音楽の話が出来たためしがなくて、こっちには、そういう話が出来る相手なんか居ないんじゃないか、と半ば絶望してた4年だった。そんなこと思ってた時に、すごい偶然で出会えたので、これはもう運命だったとしかいえないだろうな。

ということで今回は、作曲家ツツミさんの事を語っている。


ツツミさんはウタダをすごいって言ってたらしい。僕はどうだったか?と尋ねられたので、単純に歌をコピーして歌おうと思って出来なかったので、難しい悔しいと思った、と応えた。

ツツミさんは完全に仕事と割り切り「自分の音楽」というものをした事がない、言っていたらしいのだけど、僕が聴くと全部ツツミさんのメロでコードなんだよなあ。それを「計算で」やっていたと言うなら、じゃあなんで全部好みだったんだろう?という疑問がわく。僕の好み=大衆の好みだったってこと?

ぜんぶ狙って、あのコードとメロだったとすると、それはそれですごい。「気持ちいいから」ではなく「これが受けるから」やってたってことだよね。ポテンシャル高すぎだよね。

僕は自分が気持ちいいことしかやってない。そういう意味では僕は、職業作曲家が計算で生んだ音楽を気持ちいいと感じ、再現して浸ってるってことでしょ。結果的に、自分は気持ちいいが作品として職業的に成り立ってもいる、という音楽になってると言う、不思議なことなわけだな。面白いよな。

そうすっと、以前ここで言った、作家の気持ちにリンクする、というのも勘違いって事になるだろう。ただの片思いだ。でも表面上は違いが判らないのだ。

まあただ「気持ちいい」にも種類があるからね、音として気持ちいい、仕事として完成度高くて気持ちいい、人が簡単に演奏出来ないの書いてざまみろと思って気持ちいいw とか。どれでも「気持ちいい」ことにはかわらん。

話変わって、レノンブライアン流派、マッカ筒美流派、というのがあるって話があって、それは拓郎流派と陽水流派との違いにも通じて、というような、暗号のような会話もした。

ツツミさん、拓郎のこと一目置いてたらしいのだけど、それは同じ流派だったからか、違う流派だったからなのか、ぼくらは意見が分かれた。


意見が分かれた、で終わりになってるけど、この後ちゃんと本人の話を発見して結論が出てる。私も意地悪だから、ここには書かない。読んだ皆様で考えてみてはいかがでしょう。笑。

作曲と言うものは、もちろん仕事でもあるけど、ある種の美学だと思っていて、それはある領域まで達することが出来た者だけが、楽しむことの出来る「至高の嗜み」みたいなものなんだよね。優れた職人芸であり、計算しつくされた仕事であり、極めて数学的なものである。声を出して何かの啓示を待ってたところで、いい音楽など出来やしないのだ。

もちろん私だって、まだまだ極めてない領域。今後も目指し続けるんだよ。もちろん。

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2011年7月15日

うたう

このツイッターの過去ログはちょうど半年くらい前のものだ、と書いたけど、何で半年前のを転載してるのか、っていうと、これより後になると見られなくなってしまうから。なので消える前に、いい発言は残しておこう、ということなのね。
まあそういう仕組みは置いておいて、半年前の頃、何かの啓示があったらしく、けっこういいのが残ってるので、こうして転載記事も増えるということです。

ということで引き続き、自分の創作に関しての発言が続いてる。いいね。


こっち来てよかったこともある。自分の中の「歌うヒト」欲が明確になったことだ。他人の録音をすればするほど、こんなのは自分ではない、自分は歌う人間だ、という気持ちが強くなり、自身のライブ活動を続けることに拘った。これは東京時代には無かった。なぜなら

録音物を公開して売るだけで、音楽家と思われてたからだ。今思えばそれは、ものすごく恵まれてたと思う。いまどき、表で歌ったりもせずにアーティストと思ってもらえることなんかないだろうし、今後もないだろうね。しかし

それは録音物軽視ということじゃない。レコードは遺作であり遺書であり墓である。一生残る自分の生きた証でメッセージ。その道は決して外れないが、ヒキコモリ体質の僕を引っ張り出して、ライブ活動させる気にさせてくれたことには感謝してるね。

狛江にもライブバーがあった。一度出る寸前の気持ちまで行って店に顔を出したが、最後の一歩が踏み出せずライブしなかった。まあ狛江でやっても誰が来るのかって話はあるだろうな。伊勢原の人は来てくれるって言ってたけど。だったら町田とかでもよかった気がするよな。

そういえば町田の連絡通路でピアノ弾いてたあんちゃんは元気かな。ピアノで路上って当時はまだ珍しかった。CDもちょこちょこ通行人が買ってたな。韓国のヒトだった気がする。

狛江でしなかった理由思い出した。あのとき新譜が無かったからだ。「FUSEKI」の制作に入ってなかったんだ。過去の曲するだけなのに、わざわざする意味ないなって思ったんだ。

マルコポールの批判のリベンジになるアルバムが自分のためにも急務と感じてて、それをライブ再開の絶対条件と考えてたんだ。当時。そうだったなあ。

僕はアーティスト名は本名だが、やっぱりそれはそういうキャラを演じてたんだと思う(途中で漢字になってるけど、それはあまり、キャラ問題とは関係ない)。ハルカゼさんが「むし」という名前で世界を創ってたのとどこか似てると思った。

らじおから今井みきのピースオブマイウィッシュが流れてる。これも黄金のカノンだよねえ。サビのコードでそのままエバグリが歌える。というか、ココから取ったような気もするw

僕の曲創りはアカペラの鼻歌ストックDatテープに無数に入ってるメロを元にしてコード付けてく事が多い。メロは素人でもできる。だから昔のも使えるが、コードを付けるのはプロの仕事だと僕は思ってるので、自分の成長までコード付けを待っていたんだよね。

20年前の自分と今の自分のコラボみたいな感じ。一本線でしかなかったメロが、コード付けによって、スパーンと世界が広がるダイナミクスはほんとエクスタシーに匹敵する。この快感だけのために生きてると言ってもいいような。

全体をそう作るわけじゃない。あるものはサビがそうだったり、あるものはAメロがそうだったりする。他の部分はそれをモチーフに現在進行の自分がつけてく。そうして自分の中で時空を超えた感じになってく。

僕の曲が自分の全時代を反映してるのはそういう理由なんじゃないかと思う。僕自身、自分の曲を「これはちょっと古い」とか「これは未熟」とか思う事がほとんどないので。

ええことやなあ…


ここまで。
人は何かと対峙したりすることで、自分がよく判る、見える、ということがあるね。僕の好きなロバートフリップの言葉で「嫌いな相手にわざわざ会いに行くこともある。そうすると自分自身のことがよくわかり、進むべき道もわかる」というのがある。逆境であればこそ、掴むものもたくさんあるってことだ。半年前の自分が掴んだのは、そういうことだろう。他人の世話ばかりしているうち、自分の欲求が確かなものとなっていった過程が吐露されてるのね。

あとライブ活動に関するポリシーもココではっきりさせてる。主体はあくまでレコーディングにあり、それの成就のためライブ活動がある、という今の僕の考え方が、ここでも別な言い方で書かれてるね。新譜がないなら、つまり、売る商品がないなら、する意味はないのだ、ということ。これが基本スタンス。

1月の東京ツアーに出るのはこのちょっと後だね。1月の東京は楽しかった。その理由がここで少し垣間見れるわけだな。なるほど。

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