新曲の「愛と平和の街」が好評で嬉しいです。
復興コンピレーションに収録されてリリース、という話は、くどいほど言ってるので、もうわかったわ、という人も多いかもだけど、いちおうね。
http://ototoy.jp/feature/index.php/2012031101
僕のはVol.1。畠山美由紀さんとか、ソウル・フラワー・ユニオンさんと一緒に入ってます。全部を試聴したのですけど、みんな面白かったです。日本のインディーズシーンの縮図というか、日本全体の「ホワイトアルバム」みたいな感じでいいです。
ところで、曲を創った経緯なんかをざっと。
去年以来、世の中が騒がしくなって、いろんな人がいろんなこと言って、いったいなんなんだろう?と思っていました。また、みんながチャリティだなんだ、と言って活発に動き出したのも違和感あり、自分としては、なんだか違う気がするんだよなあ、などと思っていました。
そんな中、ここでも書いたので記憶にあるかもしれないけど、自分がひどい目に遭って、死に掛ける、という大事件があって、しかもその同じ当日に、自分がレコーディング予定だった方が、亡くなってしまう、という悲しい出来事も重なり、そういうことすべて含めて、それまでの自分の生きた道を全面的に考え直す、という状況になったわけですね。
そういうことを、まず周りの知り合いから話し始め、新聞記者さんや、ネット上で知り合った人、ツイッターの人などと、濃いやり取りを繰り返しながら、イメージが固まっていきました。
それと平行して、僕は某社さんのCMを作ってたんですけど、その際に、何か参考になるものがないか、と思って、自分の最近のデモを聴き返したんです。そうしたら、ちょっと前に録った「あこぎじゃんきー」という曲が出てきて、ああ、こんなの創ったわ、これいい曲なんだよなあ、と思い出しました。
そんで、某CMを作るので、近所のダムに散歩に行ったんですね。そのとき、長崎街道の歩道を歩きながら、「あこぎじゃんきー」も何かのカタチに出来ないだろうか、と考えてたところ、唐突に、頭のフレーズ「僕らは沈んでく船に」というのが降りて来まして「これだ!」と思って、その後は、自動的に、どんどん歌詞が降りてきたんです。
その後、本河内ダムに着いてから、CMをだいたい創ってしまって、そんで、家に帰って、CMと、あこぎじゃんきーをデモにする作業に入りました。
その後は、11月~12月に、段階的に、サビ→2番、というように書き進みました。
その「段階」ってのが面白くて、1番を仕上げたのは、由梨さんにコーラス参加してもらうんで、さすがに1番くらいは完成させておかんばやろ、と思ったからで、オケを創り始めたのは、TVに出てくれろ、とオファーが来たからで、最初ちょっと大変だなあと思ったけど、そうだ、新曲歌うなら出てもいいか!と思い直して(TVサイズで、長さも半分でよかったし)、創った。
まあそんな、いろんな刺激があって(他力本願とも言う)段階的に進んだんです。
そんで、さて続きはどうするか、と思ってたところ、OTOTOYというレーベルから、この復興コンピの参加依頼があって、そのときも最初は「えー?チャリティかあ…」とか思ったのだけど、その後ちょっと考えて「まてよ」と。
そもそもチャリティ活動みたいなものに、戸惑いを感じ、その思いを込めて書き始めた曲が、その「チャリティ」に収録されるって、すごい意義があるんじゃないか、と気付いたわけです。
そのとき僕は「グラミー賞?ケッ」とか言いながらちゃっかり受賞する、ストーンズのことを思い出しまして、そういう曲を、チャリティに入れてしまう、という発想がいいじゃないか、と思ったわけです。そこで、自分がしたいことは全部見えた気がしました。それで、完成させる気になった。
などといろいろ書いてますけど、結果的には、歌詞読んでもらってわかるように、そんなこと、微塵も感じさせない内容になりました。やっぱりそこは、創作するものとして、何かに限定するのはよくない、みんなが広く共感できなければ、作品を発表するという意味自体ないのだ、という、僕自身の長年のポリシーに沿ったものになったんですね。
音楽って、個人のものじゃないのよね。みんなが共有するもの。だから、それぞれが「自分のコトじゃん」と思ってもらうことが一番重要だって思ってるんです。そういう意味では、みんなが共感できる、と言ってくれたのは、ものすごく嬉しい反応だと思いました。やった甲斐があった、というものです。
最後に、その共感&共有を実際に音にしたいと思いました。なので、最後の大コーラスを、この曲にご縁のあった方々を中心に、ちょっとだけお願いしました。あと素敵なオルガンソロも。
この曲の出だしの、カウントは「あこぎじゃんきー」のデモのを、そのまま使っています。そしてエンディングには、グラミーを笑うストーンズのように、ちょっとしたオマケがあります。それは僕からのメッセージです。聴いてのお楽しみ、ということで。
ところで僕の中では、この曲のイメージが一貫してありました。地の塩って、聖書の言葉なんだよね。意外と思うかもですが、僕はストーンズが好きでして、特に、ベガーズバンケットは名盤だと思ってるわけですが、そのエンディングに入ってるのがこれだね。ブルーズっていうのと、聖書って言うのと、悪魔って言うことと。いろんな深い意味があるアルバムだと思う。
そして僕の新曲。これは、Tune Of Us とともに、僕の中の「ゴスペル」を自分の中から引き出した曲だと思うのです。それは、教会の多い、この町だからこそ、こうして、スパッと出すことが出来たのだと思う。それは、東京に居たままでは出来なかったと思うよ。
僕は今回、ストーンズのこれが好きだ、とは誰にも言ってないはずなので、参加してくれたヒト、誰も意識してないと思います。それがいいよね。想いは個人から始まり個人へと集約し帰結し行く。それをそれぞれが共有している。そういうメッセージだと思う。
「愛と平和の街」の歌詞を書くに当たっては、前に言ったように、いろんな人との対話が広がりをもたらしたんだと思うのですが、その、いろんな人の中で、特に重要な「親子関係トラウマ」の存在があります。そのヒトたちといろいろ話すなかで、いろんな囚われからの開放、ということを意識し始めました。
親子関係のトラウマということでは、加藤諦三さんという有名な学者さんが居まして、「アメリカンインディアンの教え」という本は、僕も大昔ですが、よく読んだんですね。それとは別に、ちょうど同じ頃、僕はビーチボーイズを聴き始めていました。ビーチボーイズを聴き始めたきっかけは、ロック界で最も有名な「お蔵入りアルバム」スマイルの存在でした。スマイル、というのはアメリカの開拓史をロック音楽絵巻にしようとした試みですね。その「スマイル」のことをいろいろ調べ始めた最初の頃、「アメリカンインディアンは、お互いが敵ではない印として、相手に微笑んで微笑み返す」という文献に出会ったんです。そこから僕は、加藤諦三氏の「アメリカンインディアンの教え」というのが、何かスマイルとも共通点があるのかもしれない、と思ったんですね。それで、加藤氏の本を手に取ったわけでした。
実際は、スマイルと加藤氏の本は全然関係なかったのですけど、そのかわり、僕らと同じような親子トラウマを抱えるビーチボーイズの重要メンバー、ブライアンとデニスのことを知るわけです。特に、ブライアンウィルソン自叙伝には、相当ショックを受けました。父との確執が、読むのが辛くなるほど赤裸々に、書かれてあります。
僕はその自叙伝を読み進めながら、こんな状態で、あんな美しい音楽を生むブライアンというヒトだからこそ、存在理由があるのだ、と思ったんですね。そうして、僕自身、自叙伝を読むことで、自分自身のトラウマからも解放されていったのだと思うのです。
今回の「愛と平和」の歌詞を書き始めたとき、後半のサビ前の部分がなかなか思いつかなかったのですけど、由梨さんがレコーディングに来る、というその直前になって、そうだ、そのことを歌詞にしよう!と思いついたのです。笑いかけ笑い返されて~、という部分は、そこから来たわけですね。あそこは、ビーチボーイズのスマイルなんですよ。そして、「愛と平和の街」というのも、英雄と悪漢(スマイル収録)の歌詞に出てくる街なんじゃないか、と。
そんなイメージを持ったわけです。
奇しくも、去年、ちょうど新曲を創ってた頃に、その伝説の「スマイル」が、製作から45年という月日を経て、遂にリリース!という大事件がありました。この曲は、その記念にもなったんだと思います。どんなに深い闇があっても、明るく開放されていく。そんなブライアンのメッセージも受け取った、ということですね。
新曲の話、続けます。
みなさんも、パソコン上でファイルを探したりするとき、「あの頃作ったファイルだったなあ」などと、製作日をヒントにソートして探してみることがあると思います。先日、ある曲のファイルを探すのでフォルダの中をソートして見てると面白いことに気付いたのです。去年の4月頃、ちょうど僕が倒れた直後くらいですけど、僕の過去のレア曲を、たくさんリマスターしているんです。
ずいぶん昔のような気がして、すっかり忘れてたのですが、
http://soundcloud.com/kara_demo/sets/karakawa-tape-1993
これの公開だったんだよね。
これが去年の4月の作業だったとは、忘れていました。なんでその頃そういうことをしたのか、ということも思い出したのです。
それは、自分が倒れた原因、それが「他人に振り回され続けて自分を失ったことによるもの」と気付き、自分を取り戻そうと、自分の創作開始の、そもそものスタート地点から全部さらいなおす、ということをするためだった、と。
それ以前は、もちろんこれらの作品は覚えてはいましたけど、素人時代のデモみたいなもので、他人に聞かせるに値しない、と思ってたんですね。ところが、昔から意外に、何故かこれらは人気があり、ということで、このときも、ツイッターなどで反応が思いのほか在ったのです。聴かせて喜んだ人々の共通した反応は、「なぜ今は、こういうものをしないのか?」でした。うちのレーベルにいる、二人も、爽やかな曲調に反して、実際の僕はダークでダーティな部分があると知っています。だからこそ、時には嫌なときもあるがw 僕に着いて来てくれてるのだ、と言ってくれることもあります。
あとは、時代の変化もあります。僕があれらを創ってた頃、多重録音オタク、というのは市民権を得ていなかったのです。つまり、音楽をする人種の中では、マイノリティで変わったヒト、という扱いでした。でも今は違いますね。そういうヒトはいくらでもいますし、中村一義や斉藤和義みたいなヒトが、メジャーになったお陰で、それも普通の音楽活動である、と世間に認められたわけです。
そういうものを聴いてきた、例えば若い人々が「すごくかっこいいじゃないですか」と言うのも当然のような気がします。
というわけで4月から、そういう、昔のリマスター作業を始めて、ネット上でフリーで配布する、ということを始めました。これは、当然、災害や自分が受けた被害のこともあります。いまやっておかないと、いま聴いてもらわないと、自分が明日どうなるかわからない、という気持ちからですね。これと同じことが15年前にもあったのです。阪神淡路ですよね。それで僕は、やっぱり同じことをし始め、そうして創った曲がスカウトされて、作家デビューに繋がったのです。そして今回も、知らぬ間に同じことをしていた、ということです。
このリマスター作業で、自分が歩いてきたロックの道、それを再確認する、ということが出来ました。また、すごいカッコいいじゃないですか、と言われたことで、こういうことを僕がまたやってもいいのだ、と思うことが出来た、ということです。そうして、新曲製作へと進むわけですね。
さて、今度は別な視点から見てみます。その、過去の宅録作品をリマスターしてた頃ね。
僕はある仕事に携わり、この街の悪口ばかり(!)をずっと聴かされてたのです。みんなも経験あると思うけど、悪口ばかりを延々聴かされる気持ちってわかりますよね?自分の中に、どんどん毒が溜まってきて爆発するようなあの感じですよ。しかも仕事だったので、離れるわけには行かない。今思うと、ホント拷問でしたね
。
まあそういった経験から、この町の人は、いったい、自分が住んでるこの町を、どう思ってるんだろう?好きなの?嫌いなの?しょうがないから住んでるの?どうなん?そこのところ??と思ったわけです。
そういうことを、町の中を一人で歩き回りながら、いろいろ考え続けてたんですね。夏まで。
そこで、T兄さん、という人物との出会いがあります(インタビューすることになる)。Tさん(兄弟とも)のようなUターンの人、あるいは、長崎の外に住んでて、故郷を想ってる人、福山みたいに、嫌いで飛び出していった人。
そんな人が、それぞれどんなこと想っているのだろう、と僕は興味が湧いたわけです。
そう想ったのには、自分自身の気持ち、つまり、僕自身は故郷がまったく好きではない、ということがあって、故郷というものについて、みんなは「本音では」どう思ってるのだろう?と。そういうことを知りたかったのです。
表面上の社交辞令とか、形骸化したような、ありきたりの言葉じゃなくて、「本当は」この町のことどう思う?って。そういうことを、探りながら、本音を少しでも垣間見れたらいい、と思いました。
そういうことについて、いろんな人と話し、もちろん、みんな本音は、露骨には言いませんでしたけど、言葉の端々から、気持ちはうかがうことは出来たし、僕はじゅうぶん満足した、と。そう思ったのです。
あとはね。街、というくらいだから「ヒト」が住んでます。ヒトが嫌い、というのと、街が嫌い、というのは違うと思う。でもそこは人間ですので、混ぜるな危険、と言っても、つい混ぜてしまうんですね。でも、それでもいいと思うんです。そういう「人間的な感情」こそが、一番知りたかったことだからです。そういうことを踏まえて、インタビュー終了後、僕は「あこぎじゃんきー」の完成へと進むわけですね。
そうそう。
言い忘れたけど、「長崎でも曲を創ってくださいよ。」と言ってくれたのは、Tさんなんですよね。それまで僕は、この町で「自分の」新曲が出来るとは思ってなかった。その気もなかった。そういった意味では、ちょっと背中を押してくれたんでしょうね。すべてはあのときから始まったわけだね。
ということで、振り出しにたどり着きました。
Tさんとは、いつも仲良くお話させていただいています。そうなった経緯は、またいつか書くとして、今回の件。
これもココで書いたことですけど、去年の2月くらい。ちょうどランタンのときでした。連合赤軍の永田被告が死亡したんですよね。それで、改めて「連合赤軍事件」ってなんだったんだろうって、調べ始めたんです。そんなことしてた時、急に仕事の電話がありまして、人と会うことになったんですね。そんでわざわざ出かけて行ったら!それがとんでもない話だったという…。自分の中では、赤軍の話とそれがリンクして、なんなんだ、こいつらは…。オレは悲しいぞ、と。
そんで気分が最悪になり、そのまま家に戻りたくなかった。それで「そうだ、Tさんの店にでも寄るか」と思ったわけです。
店に着くと、Tさんが、僕の顔を見るなり、なぜか怒涛のようにしゃべり始めまして、どどどうした??と思いながらも、面白いのでこっちも必死に応対しました。その時の話は、すごい面白くてね。ともかく、店内で立ちっぱなしで、数時間、二人でしゃべり続けたわけです。しまいには倒れそうになりましたw
そんで最後に、ピチカートファイブの話になり、インタビュー記事の冒頭にあったようにCDをどどっと借りることになった、というわけですね。この日の出来事は今振り返ると、その後起こるすべてのコトの始まりになってるんだけど、その時は、そういうこと二人とも気付いてない。
でも僕にとっては新曲の製作開始と、インタビュー。Tさんにとっては、研究本の再出版のきっかけになった、と。お互いにとって、そういう誕生のための始まりに実はなってたわけですね。
そう考えると、今まで長々と書いてきたこと、すべてが、ひとつの大きな巨大プロジェクトだったとも言えるのです。それがたまたま、わかりやすいカタチとして、5分45秒の曲になったに過ぎなくて、実は、まだまだ、その陰で巨大プロジェクトは進行中なんだと思うのです。
We've Only Just 美顔。
ってことで。